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第四話

***


「ぷはぁっ……」
少し潜水して、先ほどの船から十分距離を取る。

泳ぎは子供のころから船に出入りしていれば、嫌でも覚える。着衣水泳は、私の学生時代の記憶があるけれど、出来るだけ身軽にしておかないと体力の消耗が激しいのだ。

というわけで衣装をそぎ落とした。結果アリッサにとっては、学校のプールより海は泳ぐのが楽みたいだ。

「叔父さんところの船はどこだろう?」
他の船の影に回り込みながら、母国キサリエル王国の旗と、叔父のやっている海運会社、モルティア商会の旗を上げている船を探す。

ようやく朝日がかすかに顔をだし、闇に閉ざされていた世界はかすかに明るさを取り戻す。

モルティア商会の船員たちは古い人間ほどアリッサのことをよく知っている。アリッサのことを小さな船の守り姫のようにかわいがってくれていたのだ。
だからアリッサに気づけば確実にかくまってくれる。そう私は確信している。

ちなみにあの男の船は、先ほどまでランプを照らし、アリッサを探していた様子だったのだが、今はもう落ち着いている。

まあ私が飲ませたのは眠り薬だったと信じてるし、だとしたら船から飛び降りた馬鹿な後宮の侍女にはさほど興味がないのだろう。

そういえば、さっきの人のこと「セシリオ船長」って言ってたなあ。あの人、セシリオって名前だったのか。しかも船長?

「セシリオ……」
何故か、声に出した瞬間に、チクンと胸の奥が痛くなる。

なんでだろう。何かが引っかかる。セシリオって聞いたことがあるようなないような?

その名前を知っているのが、ゲーム知識からなのか、アリッサの記憶が元なのか、このころには既に曖昧になっていた。そもそも……私、現代日本での自分の名前、なんだったっけ?

一晩でいろいろありすぎて、茫洋とする記憶を探りながら、港の岸沿いを目立たないように立ち泳ぎをしていると、ふっと見慣れた旗が目に飛び込んできた。

「あった……。モルティア商会の船だ」

東の空にゆっくりと朝日が顔を出し始めていた。
あの朝日が完全に顔を出してしまう前に、叔父と連絡を取らなければ。

私は静かに岸を上ると、短くなったスカートのすその水けをぎゅっと絞る。
まあ、かなりひどい恰好だけれど、叔父さんところの人達だったら笑って受け入れてくれるだろう。

停泊している船に向かって、船乗りが帰艦の際に使う口笛を吹く。口笛は船や商会ごとに決まっていて、メロディが違う。自分の船の人間と分かれば、一人だけ使える梯子を下してくれる。当然、梯子で上がってきた人間が船の人間でなければ梯子は外され、侵入者は海に落とされるという寸法だ。

これで見張りの人間が気づいて、梯子を下してくれるはずだ。
ほっと吐息をついた私は、何も言わずに降ろされた梯子に手を掛けて、船に乗り込む。

「ありがとう。助かったわ」
梯子の最後を登りきると、手を伸ばしてくれた人に微笑みかける。

「こちらこそ。無事帰艦されてほっといたしましたよ。アリッサ様……」

にっこりとほほ笑み返した男に私はひっと悲鳴を上げかける。アリッサの記憶の中から、クラウディオ、という名前が思い浮かんだ。

「な、なんで貴方がこんなところにいるんですか?」
「お伺いしたいのは私の方です。なぜ後宮で、私どものお迎えを待っているはずの貴女が、ずぶ濡れでこんなところにいるのですか」

説法をしなれているからだろうか。凛として澄んだ深い声。細身の眼鏡をかけ、青み掛かっているように見える銀髪を、長く伸ばして肩先でゆるく三つ編みでまとめている知的な容貌の男性。

そこにいたのは、アルドラド神国のクラウディオ高等神官だった。
彼は次期宗主のセファーロの守り刀と言われる有能な男性だ。マリアンヌルートでも、攻略対象のセファーロの補佐としてずっとつき従っていた、物静かだが、裏に押し隠した多分ドS属性な男性なのだ(ちょっと好みだったとかは言わないよ。今捕まっているし)。

「……しかもなんですか、その恰好は。まるで閨で男を待つような艶っぽい姿ですね。貴女としたことがどうなされたんですか? キサリエル王国ノートリア伯爵令嬢、アリッサ様?」

彼が冷たい視線を、私の身に走らせたとたん、全身が熱を持つ。
後宮の侍女が酒の席に侍る薄物の衣装から、さらに袖とスカートの裾を切った格好だ。現代で言えば、ベビードールのような状態だ。

「――っ!」
咄嗟にはしたない恰好を手で隠そうか迷って、そんなの悪役令嬢らしくないと開き直る。

「泳ぎやすい恰好にしただけですのよ。海に着衣で飛び込んで溺れるなんて、この海洋王国キサリエルの伯爵令嬢として、一番みっともないことではなくて?」

細腰に手を当てて、豊かな胸を張って見せれば、クラウディオはともかく、その従者らしい神官たちはそろって目元を染めて視線をさまよわせる。

流石宗教大国。表向きは純情そうなメンバーがそろっているようで。

「まあいい。アリッサ姫は確保した。モルティア商会に船の貸出の礼を伝えて、金を渡してくるように……」

それだけ言うと、神官が持ってきたマントを私に渡してくると、クラウディオは表向きは貴族の令嬢をエスコートするような顔をして、私をモルティア商会の船から降ろしたのだった。


***


あああああああああああ。

思わず声を上げて叫びたかったけど、アリッサの貴族としての自意識が許さなかった。代わりに私は深い深いため息をついた。

折角の計画がすべて水の泡だ。
あれだけ必死の逃亡劇を諮ったのに、あの姉の思い通り、私はアルドラドの船に乗っている。

もちろん神殿@高級娼婦宿直行コースと思われます。
てか、恐るべしクラウディオ。
どういう方法を使ったのか。いっそ神の思し召しか。

私の脱走をいち早く知ったクラウディオは、モルティア商会を頼ることを予測して、昨日の夜中、港に停泊中の船長に金を握らせて船を借り切ったのだ。停泊中の船が一艘しかないのを確認の上で。

明らかにおかしな申し出だったはずだけれど、船長は何の問題もなく、はしたお金で、一晩船を借り受けたいという申し出を受け入れたらしい。

まあ私が思うに、何か怪しげな催眠とか洗脳とかを叔父の船の船長に掛けたんじゃないかって思う。
なんか、前のマリアンヌの話の時にもそう言うのがあった気がするし。

そして気づけば私は、瞳と同じ、海の碧色のドレスに着替えさせられて、表向きは丁寧に、実態は船室に軟禁されていた。

しかも間髪おかずに、さっさと出港した船が今いるのは、エルレア海上だ。

エルレア海はちょうど地中海のように二つの大陸の間に挟まれており、キサリエル王国も、アルドラド神国も、エルレア海の沿海洲諸国にある。

ただし、アルドラドは海を渡った南の大陸上にあり、ここからアルドラドに向かうには、エルレア海を抜けていかなければいけない。陸路で行けなくもないけれどその場合は膨大な時間がかかる。まあ、海路一択だよね。

部屋に貼られた海図を睨み付ける。この船のサイズでこの人員だと、出来れば途中で補給はしたいだろうと思う。どうやら昨日来たところで、逃走犯の私を乗せてとんぼ返りをしたせいで、キサリエルで悠長に補給している暇がなかったようなのだ。

だとすれば道中補給をする第一候補となるのは、エルレア海の中央にあるマリー・エルドリア諸島になるだろう。

幸いなことにマリー・エルドリアはどこの国にも属さず、交易で成り立っている国だ。
完全商業主義で、しかも裏稼業は海賊という、かなりやんちゃな国家だ。もちろん公式には認めていないけれど。

叔父も頻繁にここの諸島に出入りしている。何とか……マリー・エルドリアで逃げ出したい。

などと虎視眈々と脱出計画を練っていたら、扉がノックされ、次の瞬間、私の返事も待たずに静かに開けられた。

「その顔は……ろくでもないことを考えていますね。アリッサ嬢」
ふっと眼鏡の奥の瞳を細めて笑うのは、クラウディオだ。船の旅にふさわしくない神官服を来て、当然のように私に用意された私室に入り込んでくる。

良い勘しているね。神官殿。私はバレないように目を伏せる。

「……そんな事……」
視線を伏せたまま、柔らかく笑んで誤魔化す。だが彼はベッドに腰かけている私の前に立ち、手を伸ばし、顎をクイと持ち上げ私の顔を覗き込んだ。

「そんなフリをしても信用できませんよ。行動力があることだけは存じ上げてますから。それに貴女には、どうしても我が国に来ていただかなければいけません。神々の威光の為、宗主ナサエル様の為……」
じっと覗き込む瞳は、光の加減で赤く見える。熱っぽい色合いなのに、驚くほどその瞳は熱を帯びていない。

「……本音はそんなこと、どうでも良い、と言った目をしてますわよ?」

「……気のせいであろう」
すっと瞳を逸らされた。何か裏がありそうなその表情が気になる。上手くすれば自分がこの船を脱出するためのプラスになることがあるかもしれない。まずは情報収集しなければ。

「ねえ、クラウディオ神官。貴方、セファーロ様のために働いているのよね」

じっと顔を見つめ返すと彼は嫌そうな顔をしてこちらを睨み返す。マリアンヌに求婚してきたセファーロはかなりホワイトな感じの次期宗主だったけれど、クラウディオは何だか思いっきり影がありそうな雰囲気。なのに、セファーロとクラウディオの容姿はかなり似通っている。
もしかして血縁関係とかがあるのかな?

「……セファーロ様とどういう関係があるのかしら?」
「……貴女は何も余計なことを考えず、素直に神殿に奉納されればよい。そして神の器として、子を孕めばよいのだ……」
私の言葉を押しつぶすような言葉に違和感を感じた。

それに神殿に入るのは高級娼婦扱いになると聞いた気がする。子供を産むって話は聞いた事がない。

「誰の……子供を?」
その言葉に彼は眼鏡の奥の瞳をふっと細めた。

「……神の子を……」
うっわあ。ぞわわわわ。

彼の言葉とその笑みに全身が総毛立つ。絶対ろくでもないことが待ち受けている気がする。絶対に逃げる。この男からも、アルドラドからも。

「アリッサ嬢は、マリアンヌ姫を生贄にしようとしていたのだろう? 失敗したので自らが犠牲になるだけだ……。大人しく捧げられろ。セファーロ様のために……。貴女の瞳の色は……神がお歓びになられる贄にふさわしい……」

囁く彼が、指先を伸ばし、ゆるりと私の目元をなぞる。何故かその表情は苦し気に見えて、私はその手を避けることが出来ない。

瞬間、私たちのいた船室の扉がノックされた。

「クラウディオ様。キサリエル王からの使者が早船を使って追ってきております。何か伝言があると思われますが……どうなさいますか?」

「……ああ、ちょっと待て。まずはその使者を受け入れよう」

その瞬間、彼の瞳の色合いに凍り付かされていた私は、はっと意識が現実に戻る。ちらとこちらに視線を送るクラウディオに向かって慌てて顔を左右に振る。いやいや、今更会いたくありません。てか。

――ヤッバイ。玉璽を盗んだのがばれたかもしれない?

「貴女はそちらにいらしてください。決して船室から出ないように」
そう告げると、扉の前に立つ男たちに良く見張っておくように伝言をし、クラウディオは使者の対応のために席を外した。

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