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先輩の帰還

 テスト勉強をしなくて後悔した日から一か月。取り敢えず、アーニャはシュラリア国の王家滅亡の原因を調べる事を一時休止し、放課後は知識を鍛える勉強と、肉体を鍛える鍛錬をする事にした。理由は二つ。一つは次のテストで、リアはともかくライアンだけには負けたくないと思った事。前世でみんなの前で非難される事はあっても、まさか現世でみんなの前であんな辱めを受けるとは思わなかった。あの屈辱、忘れはしない。次回はライアンより好成績を残し、今度は自分が彼を見下してやるんだ。
(前世ではライアンよりも成績が良かったんだから。現世で彼を越えられないわけがないわ)
 そしてもう一つは、図書室に行って、調べ物が出来なくなってしまった事。何故図書室に行けなくなってしまったのかというと、ある日アーニャが図書室で調べ物をしていた時に、ライアンがリアと一緒にやって来て、何故か隣でイチャイチャしながら勉強会を始めたのだ。それがウザくて気が散るからと、アーニャは何度も彼らを注意した。しかしそれでも止めなかったため、遂にアーニャはブチギレて二人を怒鳴りつけた。そしたら司書の教師が飛んできて、即刻追い出された上に出禁まで言い渡されてしまったのだ。それなのに「イケメン君と可愛い子ちゃんは悪くない」とか言って、ライアンとリアは許されていたのは腑に落ちない。
(いいわよ、別に。自分で調べられないのなら、調べられないで、トーマス先輩に聞くから)
 世界史を専攻している、三年生のトーマス。彼なら自分よりも詳しく、シュラリア国について知っているだろう。ただ問題だったのは、そのトーマスが就職活動でしばらくいない事だった。だから彼が戻って来るまでの間、アーニャは勉強と鍛錬で自分を鍛えていたのだ。
(でももうすぐトーマス先輩が帰って来る頃ね。そしたらトーマス先輩に、シュラリア国について知っている事、全部教えてもらいに行こう)
 そう考えながら、アーニャは一枚のプリントを手に、教室を後にする。向かう先は教務室。担任教師に、このプリントを提出するためである。
「あ、アーニャ。それ、もしかして進路希望調査書? 提出に行くの?」
「ノア」
 教室を出たところで、声を掛けられる。
 顔を上げた先にいたのは、クラスメイトで幼馴染でもあるノア。彼はアーニャの持つプリントを指差してそう尋ねて来た。
「うん。やっと決まったから、提出して来る」
 アーニャの手にあるのは、数日前に配られた進路希望調査書。誰がどこに就職を希望しているのかを担任が把握するため、提出を求められているモノだ。
 とはいっても、彼女達はまだ一年生。それ故にそう深くは考えずとも、漠然とした内容でいいらしい。とにかく今現在の希望を、一週間以内に提出しろと言われているのである。
「どこにしたの? 入学した時と変わらず、やっぱり王国騎士団?」
「うーん、最近それはどうかなーって思ってて……」
「えっ、王国騎士団じゃないの?」
 ノアが驚くのも無理はない。だってアーニャは前世の記憶が戻る前までは、絶対に王国騎士団に入りたいと言っていたのだから。
 しかし、前世の記憶が戻ったアーニャはそうは思わない。せっかく新しい人生を歩んでいるのだ。前世とは違う職業に就いてみたいし、前世で「国のために死んでくれ」とか言った上司の下では働きたくない。
「だって今、王国騎士団って希望者が多い割には募集人数少ないじゃない? それだったらもっと募集枠が多いところとか、ライバルが少ないところの方がいいかなーって」
「ああ、まあ確かに。後は条件が良いところとか? 交通費と有休はちゃんとしているところがいいな」
「うーん、でも保障がちゃんとしているのはやっぱり王国騎士団よね? あそこ以上に大企業でホワイトな会社はないんじゃない?」
「まあ、そうなんだけど……。で、結局アーニャは何て書いたの?」
「漠然とした内容でいいって言われたから、美人令嬢のボディーガードって書いた」
「それ、漠然としすぎじゃない?」
 突っ返されないといいね、とノアは付け加えた。
「ノアは? もう提出した?」
「オレはまだ。どこにしようかまだ迷ってる」
「え? でも提出日ってもうすぐじゃない? 深く考えなくていいって言われているから、とりあえず王国騎士団って書いておいたら?」
「うーん、実はオレも王国騎士団はちょっとなーって思っててさ」
「え、そうなの?」
 ノアのその返事に、アーニャはキョトンと目を丸くする。
 確かにノアと進路の話をした事はあまりないが、前世が王国騎士団に入隊していただけに、現世でもそうだろうと勝手に思い込んでいたからだ。
 でもそうか。ノアは王国騎士団は希望していないのか。ちょっと意外だ。
「何で? やっぱり国王陛下が嫌なの?」
「やっぱりって何だよ?」
 お前は嫌なのかよ、と眉を顰めるノアに、アーニャは思わず視線を彷徨わせる。
 それをどう受け取ったのかは知らないが、ノアは「そうじゃないよ」と首を横に振ってからその理由を口にした。
「うーん、何て言うかさ、王国騎士団って結局は国を守らなくっちゃいけないだろ? オレ、守るに値しないモノは守りたくないんだよね」
「どういう事?」
 ノアのその理由に、アーニャは訝しげに眉を顰める。守るに値しないって……それ、国王陛下が嫌いより失礼じゃないか?
「うーん、値しないって言い方は失礼か。じゃあ、あれだよ、あれ、部下を大事にしてくれる人。駒としてじゃなくって、一人の人間として見てくれる人に仕えたいな」
「ああ、それなら分かるわ。給料出してんだから、身を粉にして働けって人は嫌だわ」
「そうそう。そういう主人には仕えたくないんだよ。自分達のために死ねって言う主人には仕えたくない」
「ああ、それだったら王国騎士団はお勧めしない」
「だよねー。いざとなったら国のために死ねとか言われそうだしなー」
 保障も大事だけど、主人となる人柄も大事だよなあ、と続けるノアに、アーニャはうんうんと頷く。確かに王国騎士団よりもお給料の良いところはないだろうけど。でも、今回はなるべく長生き出来るところに勤めたいと思う。
「とにかく、それ受理されたら教えてよ。そしたらオレも、人柄の良い主人の護衛兵って書くからさ」
「分かった。じゃあ後でまた教えるね」
 そう言い合うとアーニャはノアと別れ、三階の教室から一階の教務室へと向かう。
 階段を下りながら、アーニャは進路希望調査書を広げ、もう一度それを確認した。
(第一希望、美人令嬢のボディーガード、第二希望、美人令嬢のお抱え運転手、第三希望、美人令嬢の影武者……うん、よし、間違いない)
 内容を確認し、それを二つに折る。
 しかしその時だった。階段を下から駆け上がって来た人物が、勢いよく突っ込んで来る事に気が付いたのは
「うわっ?」
 ぶつかりそうになったところで、アーニャは咄嗟に飛び避ける。危なかった。気付くのがもう少し遅かったらぶつかっていたところだった。
「ご、ごめんなさい、ちょっと余所見をしていて……」
 ちゃんと前を見ていなかった自分が悪かったと、アーニャは素直に謝……ろうとしたところで表情を歪める。
 階段を勢いよく駆け上がり、アーニャが避けなければぶつかっていたであろう人物。それはアーニャが前世でも現世でも変わらず嫌いとする人物、リアその人だったからである。
(またコイツか……)
 不機嫌そうに自分を見下ろして来るリアに、アーニャは内心で溜め息を吐く。
 しかし相手が誰であろうと、余所見をしていた自分にも非がある事は変わらない。非があるのであれば、それは謝らなければならない。それが例え、いけ好かない人物が相手だったとしてもだ。
 アーニャはリアに向き直ると、仕方なく謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、悪かったわ」
「……」
 だというのに。
 リアはアーニャをじっと見ただけで、何も言わずに階段を上って行ってしまった。
(な……っ、何なのよ、あの女ッ!)
 アーニャが怒るのも無理はない。確かに前を見ていなかった自分も悪かった。しかしそれはリアとて同じ事。だって彼女が前を見ずに突っ込んで来たからこそ、二人はぶつかりそうになったのだから。だったらここは、互いに謝り合うべきだっただろう。それが例え、互いに嫌いな相手だったとしてもだ。それなのにリアのヤツ、上辺で謝る事も出来ないのか。
(人としてどうかしているわ)
 はあ、と苛立ちと軽蔑を含んだ溜め息を吐いてから。アーニャはふと、前世の出来事を思い出した。
 前世でも、似たような出来事があった。何を考えていたのかは覚えていないが、考え事をしながら階段を下りていたアーニャと、急いで階段を駆け上がって来たリアが鉢合わせとなり、ぶつかってしまったのだ。幸い、どちらにも怪我はなかったのだが、リアはぶつかった弾みで階段の下へと落ちてしまった。さすがに嫌いな相手でも悪いと思ったアーニャは、その後すぐに謝り、彼女を助け起こした。人として当然の行動だ。
 しかしリアは違った。助け起こしたアーニャの手を叩き落すと、すぐにライアンのところへ行き、アーニャに突き落とされたと言って泣き付いたのだ。
 当然ブチギレたライアンは、この前のようにクラスメイト達の前でアーニャを怒鳴り付け、一方的に非難した。いくらアーニャが違うと訴えても、ライアンはリアが正しいと決め付け、アーニャの話など聞こうともしてくれなかった。その時も担任に呼び出されて怒られたし、ノアやセレナといった仲の良い友達にも、「いや、それはない」とドン引かれた。他のクラスメイト達の視線も冷たく、しばらく針のむしろに座っているような状態で授業を受けなければならなかったのは、思い出したくもない前世の記憶の一つである。
(それからだったっけ。ライアンに過剰なアプローチをするのは止めて、その分勉強や鍛錬に集中するようになったのは)
 そのおかげで、どんどん成績が上がっていったのは良い事だったんだけれども。しかしそれでもライアンの態度は変わらず、事あるごとにアーニャを非難して来たり、挨拶をしても舌打ちで返されたりと、冷たい態度を取られ続けていたのだが。
(でも、それでも私の気持ちは変わらなかったのよね。ホント、前世の私って何て趣味が悪かったのかしら。どっちが嘘吐きなのかも見破れないような男、現世ではこっちから願い下げよ)
 顔さえ良ければ何でも良かったのかな、とアーニャは前世の自分に対して呆れた溜め息を吐く。
 と、その時だった。
「きゃあっ!」
 上階から、リアの可愛らしい悲鳴が聞こえて来たのは。
「?」
 何をわざとらしい悲鳴を上げているんだ、とアーニャは下からこっそりと上の様子を覗きに行く。
 見れば、一つ上の踊場で、尻もちを着いているリアと、彼女とぶつかったらしいルーカスの姿があった。
「ごめん、ボーッとしてた。悪い、大丈夫か?」
「う、うん、平気。急いでいてよく前を見ていなかったの。ごめんなさい」
「いや、オレの方こそ、前を見ていなくて悪かった。ごめんな」
 そっと差し伸ばされたルーカスの手を、リアはそっと握る。
 そしてルーカスの手を借りて立ち上がると、リアは「ありがとう」と柔らかな笑みを浮かべた。
(……)
 この女クソ野郎、とアーニャが思ったのは言うまでもない。
(なっ、何なのよ、あの女ッ! 私には謝罪の一つもなかったクセに! リアが私の事を好いていないのは知っているけど、私だってアイツの事が嫌いなのよ! でも、それでも私はちゃんと謝ったじゃない! っていうか、今のって本当にぶつかったわけ? わざとぶつかったんじゃないの? それなのにルーカスのヤツ、何を呑気に手なんか貸してんのよ! ルーカスのアホ!)
 怒りでギリギリと唇を噛み締めながら、アーニャは踊場にいる二人に殺気を放つ。
 と、その時だった。
「鬼の形相で何を見ているんだい?」
「っ!」
 突然背後から声を掛けられ、アーニャは思わずビクリと肩を震わせる。
 驚きながらも振り返れば、そこには呆れた目をしたトーマスの姿があった。
「あ、先輩こんにちは。お久しぶりです」
「うん、こんにちは、アーニャ、久しぶり。で、何をそんなに妬ましく見てたのさ?」
「え、えーと、それは……」
 何と答えようかとアーニャがしどろもどろになっている隙に、トーマスが上階の踊場の様子をひょいっと窺う。
 彼の瞳に映ったのは、当然リアとルーカス。
 するとトーマスは、「ああ」と納得したように頷いた。
「あの子、アーニャが虐めてるって噂の子じゃないか」
「い、虐めてるっ?」
 頷きながら呟いたトーマスの言葉に、アーニャは驚愕の声を上げる。何だ、その噂。虐めた覚えなんか前世でも現世でもないぞ。
「あの子、確かリアちゃんだよね? 可愛いし、頭も良くて愛想も良いから、三年でも好きな男子多いんだよ。だからそんなリアちゃんが、アーニャっていう子に虐められて泣いていたって噂が、オレの学年にまで届いているんだ。何でも、転入と同時に彼氏を取られて、その腹いせに虐めたんだって?」
「そ、そんな事してませんよ!」
「分かってる、そんなにムキにならなくても大丈夫だよ。どうせ一年が流したただの噂だろうって、信じてない人の方が多いから。実際に、キミが彼女を虐めているところを見た人もいないしね。だからあんまり気にしない方がいいよ」
「当然ですよ! 私、リアにはあんまり関わらないようにしているんですから!」
 根も葉もない噂に、アーニャは全力でそれを否定する。
 確かにアーニャはリアが嫌いだ。でもだからといって虐めたりなんかしていない。
 ライアンが好きだった前世は、その妬みから彼女の悪口を言う事はあった。その悪口が虐めていると捉えられるのなら、まだ分かる。しかし、ライアンに好意を抱いていない現世では、彼女の悪口を言う事はほとんどない。嫌いな女には『触れない』『障らない』『関わらない』。それが嫌いな女と同じ空間で生きる三原則だと、前世に学んだからである。
「その三原則を守ってるってのに、そんな噂が立つなんて一体どういう事? まさかこの前の剣術の授業で私にボッコボコにされたリアが、腹いせに自分でその噂を広めたんじゃないでしょうね? くそっ、忌々しい」
「バッチリ悪口言っているじゃないか」
「違います、独り言です」
「ああ、そうですか」
 心の声が口から出てしまっているアーニャに、トーマスは呆れたように溜め息を吐く。
 そしてそれによってその話を終わらせると、トーマスは次いで嬉しそうな笑みを、その表情に浮かべた。
「それよりも聞いてくれ、アーニャ。先日国王陛下から、王国騎士団入隊試験の合格通知書が届いたんだ」
「えっ、本当ですか!」
「ああ。これでオレも、春からは晴れて王国騎士団の一員だよ!」
 どうやらトーマスは、その報告をするために一年生の教室へと向かっていたらしい。第一希望であるそこに就職が決まったと喜ぶトーマスに、アーニャもまた嬉しそうに表情を綻ばせた。
「先輩、おめ……」
「おめでとうございます!」
 しかしアーニャがそう言うより早く、頭上から祝福の言葉が聞こえて来る。
 見上げれば、上からニコニコと笑うルーカスの姿があった。
「ルーカス。何でいるの?」
「何で、は酷いな。トーマス先輩とアーニャの声が聞こえて来たから、何だろうと思って様子を見に来たんだよ」
 そしたら先輩が王国騎士団に就職が決まったって言うじゃん、と説明しながら下りて来ると、ルーカスは改めてトーマスへと向き直った。
「王国騎士団の入隊内定おめでとうございます! 二年後にはオレもそこに行きますからね。待っていて下さい!」
「うん、待ってるよ、頑張ってね!」
 前世と同じように王国騎士団に入隊するトーマスと同じように、ルーカスもまた前世と同じ道を進もうとしているらしい。楽しそうに話をする二人の姿に、アーニャの口元もまた楽しそうにフニャリと緩んだ。
「先輩、今度の昼休み、部室で部員のみんなでお祝いしましょうよ! ヘレンとか、料理上手な人に手作り弁当作って来てもらって! おい、アーニャ。お前もシュラリア国なんて調べてないで、ちゃんと部室に来るんだぞ!」
「もちろん行くよ。先輩のお祝いの方が優先なの当たり前でしょー!」
 昼休みの一部や部活の時間を割いて、調べ物や勉強をしているアーニャだが、トーマスのお祝いとあらば、トーマスを優先させるに決まっている。前世で滅んだ国の原因なんかよりも、現世で再会出来た大好きな先輩の方が大切なのだから。そんなの言われなくとも当たり前である。
「そういえばアーニャは、調べたい事があるから、部活を休んでいるんだって? シュラリア国の事を調べているの?」
「そう! そう、そうなんです!」
 トーマスにそう尋ねられて、アーニャはハッと思い出す。
 図書室で調べられなくなってしまったシュラリア国の王家滅亡の理由。それを今度トーマスに聞こうと思っていたんだった。
「先輩、王国騎士団に内定したって事は、就職活動が終わったって事ですよね? だったら暇ですよね? シュラリア国が滅亡した理由、何でもいいので教えてもらえませんか!」
「暇ではないけど……まあ、オレが知っている程度の事ならいいよ」
「ありがとうございます!」
「何だよ、お前。長時間調べてた割には調べ切れてねぇのかよ。どんくせぇな」
「煩いよ!」
「アーニャはシュラリア国が滅亡した理由について調べているの?」
「はい、そうなんです!」
 呆れた眼差しを向けるルーカスにアーニャが食って掛かろうとしたところで、トーマスが話を軌道に戻す。
 するとアーニャはルーカスの事など後回しにし、トーマスの問いにコクリと首を縦に振った。
「それで、図書室にある本を借りて読んだりしていたんですけど、中々欲しい情報が載っていなくて。やっぱり図書室の本だけでは限界があるんでしょうか?」
「うーん、そうだねぇ。前にも言ったと思うけど、シュラリア国が滅亡した理由はその王家が滅亡したからだと言われているだけで、その詳しい理由までは明らかにされていないんだ。世界史を専攻している三年の授業でもそう習うし……それ以上の事を図書室で調べようとするのは限界があるんじゃないかな?」
「そうですか……」
「つまり、無駄骨だな!」
「喧しいわ!」
 やっぱり本を読む程度じゃダメなのかと肩を落とすアーニャに、ルーカスが笑い声を上げる。そんな彼をギロリと睨み付けると、アーニャはルーカスの頬を思いっきり左右に引っ張ってやった。
「あ、そうだ。それならアーニャ、ファルシー先生に聞いてみたらどうだい?」
「ファルシー先生?」
 トーマスからそう提案を受けたアーニャは、ルーカスの頬を引っ張りながらキョトンと目を丸くする。
 ファルシー先生というのは、歴史科を担当している教師、ザイル・ファルシーの事だ。現世ではまだ彼の授業を受けた事はないが、前世では三年生の時にアーニャも彼から歴史の授業を受けていたからよく知っている。確か、教え方も丁寧で分かりやすく、生徒に人気のある先生だった。
 そして現世でも彼は健在しており、今はトーマス達三年生に歴史の授業を教えているらしい。特にトーマスは世界史を専攻している事から、ファルシーとも比較的親しいようだ。
「気になる事があるのなら、オレに聞くよりもファルシー先生に聞いた方がいい。接点がなくて聞きにくいのなら、オレも付いて行ってあげるからさ。放課後、一緒にファルシー先生のところに行こう」
「いいんですか? ありがとうございます、トーマス先輩!」
 何から何まで面倒見の良いトーマスに、アーニャは改めて深々と頭を下げる。
 そうしてから、アーニャはハッと思い出したようにして顔を上げた。
「そういえばトーマス先輩、インフェルノってご存じですか?」
「インフェルノ?」
 本にも記載されていなかった最悪の兵器『インフェルノ』。それは本当に後世に伝わっていないのだろうか。そしてライアンが言っていた、『研究する事さえも禁止されている史実』とは、このインフェルノの事なのだろうか。
 前世で自分達が破壊し、それと同時に自分達を死に追いやった兵器、インフェルノ。それについて、現世で世界史を専攻しているトーマスに思い当たる節はないかと聞いてみるが、前世の記憶がないトーマスには、やはりその名を聞いても特に思う事はないらしい。彼は少しだけ考える素振りを見せた後、フルフルと首を横に振った。
「いや、聞いた事はないけど……。何だい、それは? キミが調べている事に関係があるのかな?」
「いえ、ちょっと聞いてみただけです。何でもありません」
 世界史を専攻しているトーマスでさえも知らない兵器、インフェルノ。という事は、やはりあの時完全に破壊され、歴史からも消されたと考えていいのだろうか。
「インフェルノなら、オレ知ってるぞ」
「えっ!」
 その一言に、アーニャは勢いよくルーカスを振り返る。
 三年生で、且つ世界史を専攻しているトーマスでさえも知らないというのに、歴史が苦手なルーカスは知っているだって? 何故だろう? まさかルーカスにも、前世の記憶が戻ったのだろうか。
「ルーカス、あんたまさか……」
「ああ、駅前に出来た新しいラーメン屋だろ? オレ、行った事あるぞ。激辛……」
「あ、もういいです」
「何でだよ!」
 期待した私がバカだった。
 絶対に関係のない話をしようとしているルーカスの言葉を遮ると、アーニャはトーマスと放課後に会う約束をしてから、彼らと別れて教務室へと向かった。

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