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アップルパイの館に到着。

電車が横須賀に着いた。駅を出ると海風が私の体を優しく、なぜるように過ぎてゆく。ああ、東京に比べてなんだか暖かい。良い気持ちだ。潮の香りがして、とても穏やかな気持ちになる。太陽も照りつけて、その輝かしいエネルギーを受けて目が覚めたような感覚がする。この太陽が無かったら、私たち人間は生まれることがなかっただろう。いわゆる父親としての存在だ。それだけではない、月の存在だって重要だ。月が無かったら、地球の自転速度は今より早くなり、とてつもない猛吹雪が地表をなめつくしていただろう。私たちは自分の力だけで生きている。そう思っているけど、食物を食べなければ生きていけないし、お客様がいるからこそ賃金を稼いで、そのお金で様々なものを買うことができる。いわば、人様に生かされているということだ。でも、そのことを意識するのはとても難しい。自分は自分の力で生きていると感じている。それに自分の人間としての人体をよく観察すると、本当に精巧にできていると思う。この身体が何もないカオスの世界から進化して成長したのだろうか。全くの無から生き物が自然発生的に誕生したなんて信じられない。そう考えると、私たちを創造した神がいるのだろうか。でも私たちを創造しておきながら、そのままほっておくなんてことはするだろうか。必ず私たちの生活に介入するはずだ。でも、とりあえず、この話は後にしよう。きっといつの日か答えを見出だすこともあるだろう。今は潤子の家に向かうことを優先せねば。
坂道を登って閑静な住宅街を歩く。玄関前で話す婦人たち、歩道を走る子供、何気ない風景でも、なぜかこの景色がいつまでも心に刻み込まれていくのではないかと思わせる。もう二度と会うことはないだろう、そういう人たちがいとおしく感じる。お別れでもないのに、そこに寂しさを感じる。
そんなことを考えながら歩くと新興住宅街が目の前に見えてきた。あともう少しだ。建物を作る様々な音が聞こえてくる。そこだけがまるで新世界であるかのような、未来の都市のような感じがする。こんな素敵な住宅に住むことができたら最高だろうな。毎日アップルパイを潤子のお店で食べることができるだろう。そう思うと、自分が求めているのは仕事ではなく、真の友人なのではないかと感じるのであった。私はそのことを考えると実際に潤子の側で生活することを真剣にイメージしてしまうのだった。潤子の家に近づくにつれて、その思いは拡大しはじめて、彼女を教え導くこと、作家としてこれからの生活を全て創造に捧げることに費やすことこそ、潤子の才能を世間に知らしめて、人々をいわば感動させ、心に熱い情熱を灯すこと、それが私の使命なのではないかと考えるようになっていた。この頃自分の変化を感じる。それはとても良い兆候だ。静かに目を閉じて深呼吸をすると自分の脳が活性化されて生き生きと活動をしているように感じられた。
住宅街を抜けて木がたくさん生えている森を通ると、野鳥たちの軽やかな鳴き声が聞こえた。鳥ってほんと凄い。だって飛べるんだもん。最初に空を飛ぶなんて考えた鳥はいったいどんな気持ちだったのだろう。摩訶不思議だ。自分が大それたことをしているなんて考えもしないだろう。凄いだろ、だって俺って空を飛べるんだから。そんな優越感を覚えることが無いなんて人間よりも精神的に優れていると思う。あたかもそれが自然体のようになにも自慢せずに生きている。それって尊いことだ。私も鳥のように生きたいものだ。でも、人間には想像力によって空を飛べる。実際に飛翔することはできなくてもイメージによって、文章の力によってどんなことでもできるのだ。それは鳥にはできないことだ。そこが人間の驚異的なところだ。私も作家を通して素晴らしい文章を世間に知らしめている。様々な文体を組み込んで美しい小説を提供して、人々に心地好さを与えているのだ。まるで大海原に横たわっているような気分。サメが泳いでいたら怖いかもしれないけど。私の世界もとても広がっていると思う。いろいろな性格、個性を持った人たちが織り成すパラレルワールド。ほんと、生きていて幸せだ。私は作家からエネルギーをもらっている。それはとても価値のあることだ。
防風林のような林を抜けると喫茶店の周りにはたくさんの自動車が止まっていた。みんなここのアップルパイを楽しみにしているのだろう。さあ、もう少しだ。私は期待に胸を踊らせながら潤子の店の玄関に入った。自動ドアが開くと真正面にサクラさんが描いた絵が飾ってあった。とても店内の景観と合っている。それにしても以前見た時と同じように引き寄せられる。なんて美しいのだろう。少年が少し彼より背が高い少女と手を繋いでる。その少女は潤子のようだった。確かに似ている。私はその場にじっと立って、その美しい絵に引き込まれた。いったい何分位その絵を見ていただろうか?じっと見つめていると、左手をつかまられた。
「みつき、久しぶり。会いたかったよ」潤子が、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「ああ、潤子。ほんとマジックみたい。ほんとあなたなの?もう何年も会っていないみたい。ずいぶん成長したみたいに感じる」潤子の隣にサクラさんが立っていた。
「みつきさん、きっとたくさん心配をかけたと思う。ごめんね」
「ええ、ほんと心配したんだから。でも良かった、事件に巻き込まれたんではなくて。それにしてもサクラさんの絵、そこに存在しているだけでだんだんと成長していくみたい」
「ありがとう。人の気分にあわせて違って見える、そんな絵を描けたらいいなって思っていた。これからも初心を忘れずに頑張っていきたいと思う」
「みつき、私も小説家としてあらゆる手法を駆使してみんなを楽しませたい、そう改めて感じたわ。まだ、半人前だけど自分なりの身の丈に合った心で目に見えないたくさんの先人たちの思いを伝えていきたいと思う」潤子は私をテーブルへと誘(いざな)った。そのテーブルの上には湯気をたてているアップルパイがホールごとあった。店内には甘いリンゴの香りが流れているのに気づいた。幸せの香りだ。お客さんがみんな喜びの表情を浮かべながら食べている。カウンターの奥では潤子のお父さんが一生懸命に働いている。お母さんはレジでお客さんに応対していた。私とサクラさんは席に着いてナイフでアップルパイを切り分けた。
「サクラさん、ずっと潤子と一緒だったの?」
「ええ、潤子ちゃんの部屋で寝泊まりしています。夜遅くまでお話して。そして毎朝こんなふうにアップルパイを食べて、ほんと飽きないんですよね、毎日食べても」
「私もこのパイを食べることが楽しみなんだよね。その為にここまで来たような感じ」私は満たされる思いで言った。潤子は微笑ましい自信に満ちた表情で私たちを見つめている。フォークでアップルパイをすくい、口の中に入れる。思わずため息が出てしまう。私はこの為に生きている。そう感じさせるほどの美味しさだった。本当にここの近くに引っ越そうかな。冗談じゃなくて。通勤時間は長くなるけど、それにも増して都合が良い。自然豊かで海も近く、空気も清んでいるように感じる。色々とイメージが湧いてきて、実際に本気で住むことを考える。東京と違っておそらく住宅の価格はだいぶ低いだろう。そこはローンを組んでいけばいい。潤子が小説家としてデビューすれば少なくない数のファンに知れ渡るにちがいない。そこですぐ近くにマネージャーがいれば多くの災難を避けられる。彼女を守れるのは私しかいない。そんな宿命みたいなものを感じた。
「潤子、私ここの近くに引っ越そうと思っているの。どう思う?」
「ほんと、それって凄く素敵なことだと思う。毎日ここに来れるもんね」彼女は心から言った。潤子との絆が強まった気がする。周り全体の空気が凝縮して、それでいて透き通るような感じがして、心が穏やかになった。
「私ね、昔は日本のことが大嫌いだったんだ。なぜか、それはわからない。日本の映画を見てもいないのにそこには嘘や欺瞞があるんじゃないかって思っていた。でもね、ある時、ネットフィリックスやフールーで邦画を見たとき、私が想像したのとは違う、なんて言ったらいいのかな、凄い感動したんだ。みんな役者が頑張っている。ひたむきだなって感じたの。でも、役者だけでなく私たち全てはかけがえのない命を宿していて、ほんと一生懸命に生きるだけの価値を有しているんだなって。今、自らの命を絶とうとしている人もいるかもしれない。私はそんな人たちに向けて温かな命の貴重な魂を、大切にして欲しいと、そんなことを思ったりしている。その為に編集者として作家に自分の煮えたぎる宿命にも似たものを分け与えたい。潤子なら分かってくれるよね」私は潤子の瞳の中に宝石のような輝きを見つけた。まるでダイヤモンドのようだった。私はすっかり魅了されて吸い込まれてしまいそうになった。
「私も同感だわ。今、世の中には、ほんといろんな考え方や様々な見解があって多くの場合結局は自分に少しでも有利にはたらくように仕向ける人たちが多いからよく注意して歩かなければならないよね。人の称賛を浴びるために、あたかも無私の精神を持ち合わせているように装っている人たちもいる。だからとても用心する必要がある。正義を掲げているようで、大衆に対して寛容であるように見せながら、実は自分の栄光を求めていることがよくあるから。私はそんな人にはなりたくないわ。だから、あえて自由を叫ばない。一般受けはするとは思うけどね。人のドロドロとした感情を盛り込みたいな。悪人たちがこの世を謳歌している場面を押したてて人の本来持っている良心に訴えたい。でも、それだけでなくてきちんとハートウォーミングなことも並べたい。そしてみんなの度肝を抜く、ラストシーンを用意する。今までに作家がしたことがないようなものを。でもほとんどのトリックってもうだしつくされていて、新しいものなんてないって言うからね。でも、自分にしかできない会話とか心の底から沸き上がるようなせつない状況とかを浮かばせることは可能かもしれない。まだ構想は無いけど少しずつ前に進んでいけるようにしたいな。焦らずにね」潤子はメガネを外して両手で目をマッサージしだした。疲れがたまっているのだろうか。でも、ますます捨てがたいほどの美少女だ。様々な雰囲気が広がる。慈しみ、喜び、歓喜、希望。そんな表情が現れる。人間って凄いな。全くの無からこんな人体が造られたなんて信じられない。奇跡だとしか言いようがない。もっと真剣に自分の過去とか未来を見つめなければいけない。だけど、自分を変えるってほんと大変なんだな。気持ちは先走っても、行動が伴わない。でも私はそんな自分が大好きだ。こんな時はおもいっきり、自分を抱きしめるべきだ。
「私ね、潤子の家に来てとても大切なことを学んだ気がする。言葉には表せないけど、みんなを幸せにする秘訣を知ることができた。アップルパイがそれをもたらしてくれたと思うんだ。愛情たっぷりのアップルパイ。それが全ての答えだってわかった。本当は言葉なんていらないんだって感じたよ。だって今まで言葉を使っても人々に本当の幸せを与えることができてないじゃない。私は絵描きとして、芸術が人を平和に向かわせると、その使命感をもって書き続けてきたの。でも敵わないなあって思ったよ。潤子が作るアップルパイには。ほら、見てみて。みんな本当に幸せそうでしょ。動画投稿サイトでなぜ食事動画が多いのか、その理由が分かる気がする。お腹が満たされない限り平和なんて訪れないって気づいたの。だから今の私にとって一番大切なのは食べること。友情や愛情を通り越してね」サクラさんはそう言うと潤子の手を握って幸せそうに笑顔を浮かべた。
「サクちゃん、一生この家でアルバイトしていいんだからね。アップルパイの作り方も教えてあげる」
「ありがとう。でも、もうそろそろ旅立つ頃かな。東京に出て一人暮らしを始めてみたい。なんとかプロの絵描きとして生活できるめどがたったから。でもたまに潤子とみつきさんに会いに行くわ。一生の友人になりそうだから。今後ともよろしくね」サクラさんは私と潤子に微笑みかけて言った。
「今、世界では様々な難しい状況がある。民族間、宗教の対立、犯罪、暴力なんかが毎日新聞やネットに溢れている。私たちはそんな状況に挟まれて身動きがとれないように思うことがある。自分の無力さに直面して、いったいどうしたらよいのか戸惑ってしまう。愛は地球を救うとか、音楽の力でラブアンドピースを歌ったり、もううんざりだよね。そこから沸き上がってくることは、私たちの力のなさなんだ。悲しいけどそれが現実なんだ。どうしてそんな世界になったのだろう?」私はその疑問に正確な解答を出せないことに恐れにも似た感情をもった。
「それは誰にもわからないのかもしれない。これだけネットが普及して多くの人たちが繋がっているのにもかかわらず、物事は収束に向かっているのではなく、バラバラに、まるで崩壊に至ろうとしているように感じるもんね。みんなが足の引っ張りあいをしているようにも見える。自分の思想を第一にして、それを掲げているような。自由、博愛を叫んでいながら、自分の利益を追求している。でも私たちも言ってしまえば同じことをしているものかもしれない。だから人の批判をしていることはできないかもね」潤子はまだ小学生なのにそこまで見透せている。これから先の成長が楽しみだ。私が幼い時には食べること、友達と遊べることにしか興味がなかったような気がする。今の子供たちはごく当たり前にSNSやネットで世界の情報を知ることができている。それが良い方向に進めばいいのだけど。一つ言えることはこれから先も私たちは生きていかなければいけないということ。泥水を啜っても、生きていける勇気があるだろうか。そんな疑問が浮かんだのだけど、できれば泥水なんかではなくて同じ色でもカフェオレを飲んでいたいというのが私の解答だった。でも、今私が生きている間にも様々な生き物が生まれては死んでいっている。有名人の死は衝撃的かもしれないけど無名の人の死も衝撃的でなければならない。私はその事に気づこうとしている。せめてこれだけで勘弁して欲しい。今は情報があまりにも錯綜して頭が混乱しているのだ。少しずつ前を向いて歩んでいこう。私は一人ではない。こんなにも一生懸命に生きている友がいる。それがとても嬉しかった。

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