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村上社長のため息

 ――篠沢(しのざわ)商事人事部・秘書室所属の小川(おがわ)夏希(なつき)さんは、貢の大学時代の二年先輩で、今は秘書室の先輩でもある。わたし・篠沢絢乃(あやの)が十七歳にしてこの大財閥〈篠沢グループ〉の会長に就任する前は、今は亡きわたしの父・篠沢源一(げんいち)の会長付秘書を務めていた女性である。

 緩くウェーブのかかった長い髪に、切れ長の涼しげな目元。――美人でスタイルもいい彼女はわたしにとって憧れの女性の一人で、社内でも「彼女にしたい女性社員ナンバーワン」に選ばれているらしい。
 そんな彼女だけれど、なぜか恋のウワサを聞いたことがなかった。もちろんまだ独身である。あれだけの美女なら、絶対に男性からモテていても不思議じゃないのに。
 本人は「(わたし)は仕事が恋人なので」と言って笑っていたけれど、本当のところは定かではない。

 そんな彼女に異変は起きたのは、わたしが会長に就任して半年以上が過ぎた夏のことだった――。

****

 その日も、わたしは夏休み中だったため朝から出社し、貢と一緒に十二階の社員食堂で昼食を摂っていた。
 この頃、彼とわたしの間にはちょっとしたすれ違いがあったのだけれど、プライベートなことなので社内では関係なく、それまでと変わらずにいい関係だった。
 ちなみに、いつも社食でお昼ゴハンというわけではなく、外へ二人で食べに出る日もあったけれど(支払いはわたしのブラックカードで、だ)、この日はあまりの暑さに外へ出る気力もなかったので社食で済ませることにしたのだ。

「――あ、村上(むらかみ)さん! お疲れさまです。ここ、ご一緒してもいいですか? 二人なんですけど」

 わたしたちはひとりでお食事されている社長の村上(ごう)さんのいるテーブルへ行き、彼に声をかけた。
 この会社で事実上のトップである彼を「さん」付けで呼べるのは、グループ全体のトップであるわたしか、会長代行の母・加奈子(かなこ)くらいのものだろう。

「ああ、会長! 桐島くんも。お疲れさまです。どうぞどうぞ! 僕はひとりですから」

「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと失礼します」

 彼が快諾してくれたので、わたしと貢は各々(おのおの)昼食のトレーをテーブルの上に置き、席に着いた。ちなみにわたしのはビーフシチュー、彼のはトンカツ定食だった。村上さんが食べていたのは焼きサバ定食だったと思う。

「……あれ? 社長、今日は小川先輩はご一緒じゃないんですか?」

 貢の疑問に、村上さんは苦笑いしながら答えた。

「彼女は秘書室の女子と一緒に、外で食べてくると言ってたよ。休憩時間までボスと一緒じゃ、息が詰まるだろうからね」

「確かにそうですよね。わたしだって、たまにはひとりでお昼ゴハン食べたいなーって時ありますもん」

「会長ぉっ!?」

 しれーっと本音を漏らしたわたしに、貢が目を()いた。

「やぁねえ、冗談に決まってるでしょ?」

 でも、一応は建前(たてまえ)でそうフォローしておいた。そんなわたしたちのやり取りを、村上さんは「お二人、仲がよろしいんですね」とニコニコ笑いながら見守っていた。

「えっ? そんなに仲よく見えます?」

 わたしは首を傾げた。実際のところ、この頃のわたしと貢との関係はちょっとビミョーな感じだったのだけれど。

「ええ、すごくね。だって、こうして休憩時間まで一緒にいるなんて、よほど仲のよろしい証拠じゃないですか。お二人、実はお付き合いしてるんじゃないかって、社内ではウワサになってるそうですよ?」

「「…………」」

 わたしと貢は、村上さんのこの何気ない一言にこっそり顔を見合わせた。貢に至っては、顔にはっきり「ヤベぇ」と書いてあるのが見えた。
 ちなみにこれは、秘書室の広田室長が会長室を訪ねてこられる数日前の話である。

「――はぁ……、参ったなぁ」

 わたしたちは食事を始めたけれど、村上さんの盛大なため息が気にかかり、箸(もしくはスプーン)を止めた。そういえば、彼はわたしが声をかける前から 何だか元気がなかったような気がする。

 貢と数秒目で合図(アイコンタクト)を取ってから、思い切ってわたしは口を開いた。

「……あの、村上さん。何かお悩みですか? わたしでよければ、相談に乗りますよ」

 彼にはいつも助けてもらっているし、わたしにとっては父親代わりでもある。そんな人が悩んでいるなら、微力ながら力になってあげたいとわたしは思った。

「はぁ、……いえ。悩みというほどのことではないんですが……、実は、秘書の小川くんの様子がね、このごろ少しおかしいんですよ」

「えっ、小川先輩が……ですか?」

 貢が目を(みは)った。わたしも驚きを隠せなかった。あのしっかり者の小川さんの様子がおかしいなんて……、彼女に一体何があったのだろう?

「村上さん、その話、もっと詳しく聞かせて下さい! 彼女、どんな風におかしいんですか?」

「どんな風に……、ですか。そうですねぇ、何といいますか、心ここにあらずというか、気もそぞろといいますか……。ちょっと仕事に身が入っていない感じなんですよねぇ。彼女らしくないうっかりミスも、ここのところ多くなってますし。小川くん、何か困ってることでもあるんですかねぇ……?」

「……あ」

 わたしには、何となく彼女の様子がどんな感じなのか想像できた。この数ヶ月前、わたし自身もこんな状態になっていたから。ちょうど、貢のことを意識しまくっていた頃――。

「……? 会長、原因お分かりになったんですか?」

 わたしの呟きを聞いていたらしい貢が、両眉を上げた。

「うん。多分、この解釈で間違ってないと思うわ。――村上さん、小川さんは多分、恋をしてるんだと思います」

「恋?」

「ええ、間違いないと思います。彼女には今、好きな男性がいるんです。それも多分、片想いですね」

「どうしてそんなに、はっきり言い切れるんですか?」

「女のカンよ」

 貢の疑問に答えると、その答えに彼は絶句していた。

「……なによ? 言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」

 まだジト目でわたしを睨んでいた彼に、わたしは訊ねた。……まあ、彼の言いたいことは何となく想像がついていたけれど。名探偵みたくズバッと推理したなら、その理由を「女のカン」の一言で片付けるなと言いたかったらしい。

「いえ、別に」

 わたしの剣幕に怯んだのか、彼はフイと目を逸らした。

「――う~ん……。別に、職場恋愛自体は会社として何の問題もないんですけど、仕事に支障が出るのはちょっと困りものですよね。村上さん、この件、わたしたちに預からせて頂けません?」

 ここはグループのトップとして、わたしがひと肌脱がねばと思った。村上さんに迷惑や心配をかけないためにも、小川さん自身のためにも。

「は?」

「わたしと桐島さんとで、彼女の片想いの相手を特定してみます。そのうえで、彼女と話をします。『恋をするのはいいことだけど、社長に心配をかけるのはよくないことだ』って」

「……はあ。会長にそうして頂けるんでしたら、僕も助かりますが……。本当によろしいんですか?」

「もちろん! 任せて下さい!」

 わたしは村上さんにVサインを突き出しながら、頷いて見せた。

「ありがとうございます、会長。――では、僕はこの後予定がありますので、お先に失礼しますよ」

 一足先に食事を終えた村上さんは、食器を返却口へ返すと足早に社食を出て行った。 

「――会長、いいんですか? あんな安請け合いしちゃって」

 食事を再開した途端、貢が眉をひそめた。

「安請け合いはした覚えないわよ。確かに、途方もない可能性を潰していかなきゃいけなくて大変だろうけど、村上さんが困ってる以上は放っておけないでしょ? 小川さんのためにもよくないし」

 同じ恋する女子仲間として、何とかしてあげたかった。彼女に「恋をやめなさい」と言いたいわけじゃない。ただ、恋を理由に仕事をおろそかにしちゃいけない、と彼女を(さと)したかっただけなのだ。

「それはまぁ、分からなくもないですけど……。どうやって候補を絞り込むおつもりなんですか?」

「…………あはっ☆」

 思いっきりノープランだったわたしは、笑ってごまかした。そんな上司を、彼は半目で呆れたように見ていた。

「それは、会長室に戻ってから考える。ま、何とかなるでしょ」

「……なりますかねぇ」

 わたしたちはお喋りをやめ、黙々と食事を続けた。もうすぐお昼休みが終わる頃で、他の社員たちは慌ただしく食器を片付け始めていた。

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