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111 侍女長の歓喜

「長くカーヴィアルに()()をされていたそうですね。エーレ様のために色々調()()()もされていて――肩のお怪我は、今回の皇家(おうけ)のゴタゴタを収束させるために、カーヴィアルから戻る途中で、負われたものとか」

「ええと…まあ…そんな、ところかと……」

 身体を拭き始めながら、世間話で友好を深めようとしてくれているリーアムに、全てを説明出来ないまでも、キャロルも曖昧に頷いておく。

 カーヴィアルにおける、ルフトヴェーク大使館職員()()が、そのまま()かされているかのような空気を、そこに感じた。

 もしかすると、エーレが何か、それに近い話をリーアムにしたのかも知れない。

(わたくし)は、エーレ様がご幼少の頃から存じ上げておりますが、五年ほど前からずっと、自分には心に決めた人がいると、仰っておいででした。ただあまりにお姿を見ないので、私も周囲の者達も、縁談避けのための幻ではないかとさえ思っておりました。それが今回、思いがけずお会いして、お世話をさせて頂けます事、むしろ光栄に思っております」

「えっ…いやそんな、私はそんなに大層な人間じゃ――」

「エーレ様が、これほどまでに(いつく)しまれておいでですから、充分に〝大層な人間〟でいらっしゃいますよ。何しろ、このままだとリヒャルト様の二の舞になると、皆、心配しておりましたから」

「リヒャルト様?…ああ、エイダル公爵……」

 一瞬、ピンと来なかったが、そう言えば、公爵邸の使用人達は皆、エイダルの事をそう呼んでいたなと、キャロルも思い出した。

 父親(デューイ)が勝手に〝偏屈()()公爵〟と渾名を付けていたな、とも。

「私は本職ではございませんので、簡易的にしか包帯は巻けませんが、よろしゅうございますか?宮殿付の侍医をお呼びしましょうか?」

 公爵邸を出る前に巻いてあった包帯は、昨夜寝台(ベッド)の中で、エーレに(ほど)かれてしまっていたため、今は肩の傷跡が()き出しだ。

 ある程度はエーレから聞いていたとは言え、それがリーアムの想像を超えていたため、侍医を呼んだ方が良いのかと、思わず焦っていたのだが、当のキャロルはやんわりと、首を横に振った。

「これでも、痛みはもうほとんどないから…今は簡易的に巻いて貰って大丈夫。この後、式典用のドレスのサイズ確認もあるし、どのみち崩れると思うので……」

 むしろ、この赤い痣(キスマーク)を人目に晒すのは、リーアムと、衣装係までで留めたい。
 やせ我慢をしたとしても、その方がよっぽどマシだとの言葉は、さすがに胸にしまっておく。

「キャロル様がそうおっしゃるのであれば、従わせていただきますが……侍医はすぐに呼べますので、何かありましたら、いつでもおっしゃって下さいませ」

 心配そうな表情のまま、そう言ったリーアムは、キャロルに白麻製の肌着(シュミーズ)、絹製の青いコットの服に、紫地に金の刺繍が施された、袖なしのシュールコーを、今度は順番に着せた。

「これでしたら、動きやすく、そのお傷にもそれほど響きませんでしょう?少し丈が足りないかも知れませんが、公式の場に出る訳ではございませんし、問題ないかと存じます。髪は…今は緩く部分編みだけさせて頂きます」

「そうだね。ありがとう、リーアム。あっ、でも、髪飾りだけは、あの、サイドテーブルの上の物をお願い。大切な――髪飾りだから」

 使い込まれてはいるが、キャロルの口調や表情から、その贈り主が誰かと言う事は、察したらしい。リーアムは僅かに口元を緩めながら、頷いた。

 支度が終わったキャロルが、ややフラつきながらも、寝室から私室の方に移動をすると、エーレがギョッとして、手元から書類を落とした。

「エーレ様、このくらいで驚かれていては、式典の際、どうなさるおつもりです」
「……欠席させようか」

 はい?と声を上げたのはキャロルで、リーアムは、呆れた視線をエーレに向けた。

「皆さんに、自慢されたいんじゃなかったのですか」
「自慢はしたいが、余計な虫が寄って来るのは、困る」

「なら、閉じ込めてしまわれる前に、ご自身を高める努力をなさって、何人(なんぴと)も寄せ付けないようにされては如何ですか」

 さすが小さい頃からエーレを見てきていると言うだけあって、どうやら、リーアムは、エーレにとって、気の置けない会話が成り立たせられる内の一人であるようだった。

「相変わらずリーアムは、手厳しい」

 エーレも、困ったように微笑(わら)うだけだ。

「とりあえず、彼女と2人で、ここの書類をある程度片付けてから、朝食は貰うよ。フルコースの必要性はないから、手短に食べられる、パンとチーズとハムくらいを置いておいくれれば良いから」

「エーレ様は…それで宜しいかも知れませんが……」
「あ…私の事ならお構いなく。むしろ、朝からフルコースの方が、ドン引くので…」

 エーレと同じように微笑(わら)って、片手を振るキャロルは、皇族以外の貴族にあっては、最上位とも言える侯爵家の令嬢である筈なのだが、カーヴィアル暮らしが長かったせいなのか、本人の気質なのか、かなり気さくだと、リーアムは思う。

 だが、2人で取りかかると言っていた書類仕事において、てっきり実務に関係のない、周りの事を手伝っているのかと思いきや、温かくした紅茶を部屋に運んだ際、キャロルは普通に応接机の前で、エーレと同じ書類を読み、最小限の確認で、次々に書類の山を処理していた。

「エーレ、この、シザーリって言う人のニーソン伯爵領に関する報告書は、式典の後で精査した方が良いと思う。この人が書いてる通り、何もないのがおかしいと、私も思うな。この数字は、明らかに出来過ぎだよ」

「シザーリ……ミュールディヒ侯爵領の傘下貴族を内偵している監察官か。分かった。じゃあそれは、こちらの山に置いて」

「あと、単純な計算間違いに関しては、こっちで修正してしまっても?」
「構わない。任せるよ」

 エーレがただ、キャロルを側に置いておきたい訳ではないのだと、美貌ではない部分を、あらゆる周囲に見せつけているのだと、リーアムには分かった。

 恐らく、キャロルの方には、そんな意図はない。むしろエーレが、キャロル以外目を向けるつもりがない事を、周知させたがっている。

 宮殿の使用人達の実家に話が伝わる事を、既に前提として、並の令嬢では、幾重もの意味で太刀打ち出来ないと、側室狙いの家に釘を刺そうとしているのだろう。

 書類処理の目処を立たせて、2人が朝食をとり始めた頃には、既に宮殿の正門が、毎朝開かれる時間の直前になっていた。

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