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83 泡沫にて(2)

 不自然な沈黙を断ち切るように、キャロルが軽い咳払いをする。

「ね、ねぇ…ランセット。そもそも私たち、今どこにいて、どうなってるのかな……?」

 その言葉に合わせるように、ランセットも、咳払い一つで照れ笑いを収めて、辺りを見回した。

「…日本風に言えば、泡沫(うたかた)の空間にいて、生と死、どちらに転んでもおかしくないところに、今はいるのか…と」

()()()は、国語教師だった…?」

「まあ、そうですね。それもありますが…先程から、しきりにエルが――ヘクターが、どこからか自分を呼んでくれています。一緒に()ったら許さない、キャロル様が死の国(ゲーシェル)へ行きかけているなら、引きずり戻してくるのが、私の正しい忠誠の在り方だ…と。恐らくその発破(はっぱ)が、私とキャロル様をここで出会わせてくれたのでしょうね。死の国(ゲーシェル)の門の前にいる、と言うよりは、泡沫(うたかた)と言った方が、話が伝わりやすいかと思いまして、先程の様な仮定を」

「それは…確かに。じゃあ、ありきたり(テンプレ)だけど、声のする方を辿(たど)れば意識が戻る…とか、そんな感じ?」

 小首を傾げるキャロルに、ランセットもおいそれとは賛成出来なかった。

「どうでしょう。私もキャロル様も、あれだけ()()()()()()()いますし、すぐに意識が回復するとは思えません。仮にこの意識が肉体に戻ったところで、実際に目が覚めるのとは、また別の話になるのではないかと」

「あぁ…例えば身体がある程度回復をするまでは、目も開けられない…とか?」

「それすらも、想像の域を出ませんが」

 うーん…と、(うな)るキャロルに、ランセットが更に、問題があると言った。

「問題?」

「私に聞こえているヘクターの声は、恐らくキャロル様には届いていませんよね?だとすると、私が声を辿(たど)ったところで、キャロル様の意識が戻る確率は、私のそれよりもかなり低いのでは、と言う話になります。キャロル様には、キャロル様自身を呼ぶ声が必要で、それが揃って初めて、共にそれぞれの声に賭けてみる事が可能になる――そんな気がします」

「…私を…呼ぶ声……」

「ヘクターは、私に『連れて帰って来い』とは言いますが、キャロル様に直接『帰って来て欲しい』とは言っていません。その差があって、キャロル様のお耳には、声が届いていないのではないか、と」

「じゃあ、ランセットが先に帰って私を――」

「本気でおっしゃっておいでですか、キャロル様?」

 実際の身体は、ここにはない筈なのに、思わずキャロルはランセットの怒りを感じて、寒気を覚えてしまった。

「……ゴメンナサイ」

「それが確実な方法なら、検討もしますが、私の推測でしかない以上、賭けの危険(リスク)は一度で充分です。二度に分けて戻ると言う選択肢は、ありません。共に戻るか、共に死の国(ゲーシェル)の門をくぐるか、どちらかです。数日ここでお待ちしてみて、それからご判断なさって下さい。私は――どちらでも、従います」

「そ…れは…っ」

「キャロル様が、呼ぶ声にお(こた)えにならないのも、自由です。私はただ、どちらに転んだとしても、キャロル様をお一人では行かせない――それだけを、覚えておいて下さい。ヘクターも、キャロル様をお一人で行かせてしまう事の方こそを、(よし)としない筈ですので」

「………」

「悩まれた際は、遠慮なくご相談下さい。これでも元・私立聖樹学院の教師でしたから、()()()()はお受け出来ると思いますよ」

 半ば開き直りぎみのランセットに、キャロルはぐぅの音も出ない。

 彼なら立派なロータスの後継者になれるかも知れない。

 そんな風に少しいじけるキャロルを、ランセットはしばらく――キャロルがふいに片方の耳に手を当てて、顔をしかめるまで――見て見ぬフリを通した。

「……っ!」

 それが、どのくらいの時間がたってからの事だったのかは、2人には、分からない。

 もしかして、こうやって会話を交わしている事自体が、夢なのかと思う時間もあった。

『キャロルっ‼』

 頭の中いっぱいに響き渡ったその声の主は――見えなくとも、分かった。

「キャロル様」

 ランセットが片膝をついて、(うつむ)き加減に顔をしかめたままのキャロルの表情を、下から覗き込んだ。

「……声が、聞こえますか。他の誰でもなく、キャロル様を呼ぶ、声が」

「ランセット……」
「お気持ちは、定まっていますか?」
「ランセットは…声、は……?」

「聞こえています。もっとも、今はヘクターではなくキティ…キルスティンが、(そば)にいてくれているようなんですが」

 やや苦笑気味のランセットに、ふと、キャロルが顔を上げた。

「キルスティン……侍女の、キルスティン・ダーリ?」

「ええ、まあ…こちらでの、生まれ故郷の幼なじみでして。私が侯爵邸でお世話になるようになって、半年ほどした頃に、追いかけて来てくれた、大変根性(ガッツ)のある幼なじみです。私が…剣を捧げるに値する方を見つけられたら、一緒になるのも良いかと思っていました」

「……えっ」

 自分(ランセット)がキルスティンを好ましく思うのは「故郷にいる、自分を一途に思ってくれる幼なじみ」を設定したからだろうと言う事は、もはや墓場まで持って行くつもりである。これ以上、墓穴は掘りたくない。

「じゃあ…ランセットは…帰らなきゃ……」

「彼女もヘクターと一緒で、私がどちらを決断しようと、それがキャロル様と同じ方向を向いての事であれば、何も言わない筈です。だからと言って、私に引きずられないで下さい。――何に迷っていらっしゃいますか、今?」

「……っ」

 ビクリ、と身体を震わせたキャロルが、そっと自分の左手に、視線を落とした。
 それは名前を呼ばれ、手を握られているからだと、ランセットに悟らせる。

 何故ならそれは、ランセットの名を呼んで、手を握りしめているらしいキルスティンが、自分に伝えてくる感覚に対しての反応と、同じに見えたからだ。

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