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 その黒いアリは、この距離からでも頭部、胸部、腹部とはっきりと見分けられ、六本の脚と二本の長い触角が忙しなく動いていた。
 口はまるで高枝切りバサミのようになっていて、それで噛まれたら大怪我をする事が容易に想像できた。

 いや、人の身の丈ほどもあるアリなんて、いるはずが無い。
 何かの撮影? しかし……周りにそれらしいスタッフの姿は見えない。

 これがもし、ドッキリの撮影だったら悪質だとしか思えない。

 その前に、あの女性の近くを歩いている人達は何をやっているのだろう?
 あの巨大アリが見えていないのか、助けようともせず、変な人を見るような視線を浴びせながら、迂回して歩いている。

「――うわっ!?」

 その巨大アリが、女性の腕を噛みちぎった。

 これは……。
 ガチなやつか? でも、いまから助けに行っても間に合わない。

 吹き出す鮮血を見て、周囲の人々は慌てて逃げ出している。

「お兄ちゃん!!」
「へっ?」

 いつの間に帰ってきたのか、リビングに小春が立っていた。

「お兄ちゃんのARCって、プロトタイプって書いてあった?」
「ん? ああ、書いてあったよ」
「んじゃそれ昨日つけた?」
「ああ」
「わたしもつけた!」

 実は、以前の家族会議で話し合った結果、俺が志望校に合格したら小春も同時に新しいARCを買ってもらえることになっていた。もちろんその場で小春がごねまくった結果だ。

「お兄ちゃんもこれ、外れなくなってるでしょ?」
「……ああ」
「多分だけど、このプロトタイプのARCをつけてないと、街中をうろついているヒュージアントが見えないみたい」
「ヒュージアント?」
「そうよ。んでさ、ヒュージアントが人を襲ってるの。それで、私みたいにヒュージアントが見えている人達がいてさ、反撃してたんだけど、見えてない人達は馬鹿にして笑ってるんだよ? そんなのおかしいと思わない? ねえお兄ちゃん、こんなの現実なのか、拡張現実なのかわかんないよっ!!」

「……とりあえず落ち着け」
「無理っ! 落ち着いてらんないわよ! お母さんに電話しても繋がらないし、大勢の人が襲われてるの!」

 よく見ると、小春はくしゃくしゃな顔で涙を流していた。
 俺は遠目に人が襲われる場面を見たので、まるで現実味がなかったが、小春は近くで見たのかもしれない。
 恐かったのだろう。それで母さんのことが心配になり電話を掛けた……。

 俺もスマホを確認すると、アンテナのアイコンにバツ印が付いて通話が出来なくなっており、Wi-Fiは繋がっているものの、ニュースなどの読み込みが遅すぎて、タイムアウトの表示になっていた。
 現在進行形で状況が悪化しているのを自覚しつつ、小春の言う、ヒュージアントって情報はどこからなのか気になった。

 俺はアリに視線を戻し、視覚操作でオート表示に切り替えると〝ヒュージアント〟と表示された。
 つまり、小春はプロトタイプARCの情報で、名前を知ったと言う事か。

「一緒に母さんを連れ戻しに行くぞ! それが今の第一目標だっ!」
「えっ!?」
「まだ出たばっかりなんだよ、母さんは。たぶん戻ってくる小春とすれ違ってるはずだし、まだ間に合う」
「わ、私は……」

 ――――ああ、そうか。
 小春は元々気が弱く、父さんの勧めでアーチェリーを始めたくらいだ。
 そんな小春を見もせず、俺は連れて行こうとしていたのか。
 俺は焦っていた。

 よく見ると、軽く化粧をした顔は涙で崩れ、きれいな素肌が見えている。
 制服も少し破けており、もしかしたらヒュージアントに捕まりそうになったのかもしれない。
 それに、手も足も震えているじゃないか……。

「分かった! 二人で出ると、母さんと行き違いになっても困るよな。小春はここで待ってて! ただし、俺が出たら必ず鍵を掛けといて!」
「う、うん……」

 意識して明るい声で言うと、小春は弱々しい声でそう応えた。
 もちろん、助けに行きたい気持ちもあるのだろう。
 でも、こんな状態で無理やり連れて行くのは良くない。

「……で、でもお兄ちゃん、素手だとヒュージアントに勝てないかも」
「あ~、そっか、なんかすばしっこかったな、あれ。んじゃ何か武装して行くか!」
「気を付けてね……」

 俺一人に行かせるのが気まずいのか、小春は|俯《うつむ》きながら言った。
 まあ俺も小春を安心させるために、少し強気の発言をしてしまったが、武装と言っても、鎧もなければ剣も無い。
 今のジャージだと動きやすいし、このままでいいけど、武器は……包丁を持ち出すか……?

「……大丈夫? お兄ちゃん」
「――ああ平気だ、気にすんな」

 心配そうな小春を尻目に、俺は部屋に戻り、木刀を持って玄関を飛び出した。
 マンションから出ると、まだ混んでいない時間帯なのに、車が大渋滞をしていた。
 それに、歩道を歩く人がいない。

 辺りはひりつく空気で満たされている。
 俺は自転車に乗り、全速力で駅へ向かいはじめた。

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