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イヴの遺言 ④

 僕はいたたまれなくなり、お屋敷の中を所在なさげにキョロキョロと見回した。
 玄関を上がってすぐのところに広いキッチン――もはやこれは〝厨房(ちゅうぼう)と呼ぶべきか――があり、ダイニングがあり、その隣がリビングルーム。ここだけで一体何畳分の広さがあるのか。
 ちなみに部屋数も相当なもので、その各部屋ごとにバスルームや洗面所・トイレなどの専用の水回りが付いているというのだから驚きである。

 ……すごい家だなぁ。僕みたいな一般庶民はこの家に不似合いではないだろうか? 不安になった僕は、絢乃さんに自虐も交えて訊ねた。

「いいんでしょうか? 僕なんかがこんなお屋敷のパーティーに呼ばれて。場違いじゃないでしょうか?」

 話題に困ると自虐に走るのは、僕の社会人になってからの悪いクセである。今でこそ絢乃さんのおかげでだいぶ改善されはしたが、それでも完全に治ったわけではなく、時たまこのクセはひょっこり顔を出すことがある。

「何を気にしてるのかと思えば、そんなこと?」と、彼女はまた苦笑いして、この日のパーティーは身近な人しか()んでいないホームパーティーなのだから、気にする必要はないと僕に言った。
 彼女の服装も、赤のハイネックニットにグレーのノースリーブワンピースを重ねたカジュアルスタイル。初めて会った夜のドレス姿が印象的だったので、初めて見る彼女の私服姿は新鮮だった。

「それに、わたしにあなたを招待してほしいって頼んだのはパパなのよ」

「……えっ、会長が僕を?」

 その日初めて知った衝撃の事実に、僕の思考は一瞬止まった。
 何でも、絢乃さんもお父さまに受診を勧めたのが僕だったのだと話したそうで、「直接会ってお礼が言いたいから」と僕を招ぶように彼女に頼んだのだとか。

「そうなんですか……」

 彼女からその話をしたのが、僕よりも先だったのか後だったのかは分からないが、もしかしたら彼は確信していたのではないだろうか。
 この僕が絢乃さんを愛していることも、絢乃さんが僕に恋をしていたことも……。

「パパも今日は具合がいいみたいで、もうリビングにいるはずよ。桐島さん、心の準備はできてる? まぁでも、そんなに緊張しなくて大丈夫だから」

「はい。……多分、大丈夫です」

 そう答えた僕の笑顔は引きつっていたらしい。
 源一会長とは会社で一度立ち話をしたことがあったが、彼の自宅に招かれてじっくり話をする機会はこれが初めてだった。
 本来は雲の上の存在。何か失礼があってはいけないと、気を張りつめていたからだろう。

「――はい、ここがリビングです! さ、入って入って!」

 そんな緊張でガチガチの僕の背中を、絢乃さんはリビングの入り口からグイグイと中へ押し込んだ。

「パパー、桐島さんが来てくれたよー!」

 そしてまだ痛々しいくらいのカラ元気で、お父さまに僕を引き合わせた。クリスマスイヴという楽しい日に、辛気臭くなることを避けたのだろう。

 源一会長はお嬢さんに「おう」と軽く手を挙げ、しっかりとした足取りで僕と絢乃さんの方へ歩いてきた。
 抗ガン剤の副作用で毛髪が抜けてしまい、ニットキャップを頭に被った源一会長は、この頃には相当弱っていたはずだ。もういつどうなってもおかしくないほどに。

 それでも、僕が招かれたお礼のついでに体調を訊ねると、「今日は君のおかげで調子がいい」と冗談で返され、僕はリアクションに困ってしまった。
 絢乃さんはそんな僕を見かねてか、「桐島さんを困らせちゃダメ!」とお父さまをたしなめて下さった。
「冗談だから聞き流してくれて構わなかった」と言われても苦笑いしていた僕をご覧になって、源一会長は愉快そうに笑っていらした。
 こんなに(ほが)らかな様子の会長を見たのは初めてだったかもしれない。僕もつられて笑い出した。

 会長への挨拶をひととおり済ませた僕は、会場であるリビングの中を見回した。
 窓際には百五十センチくらいの高さのクリスマスツリーが飾られており、壁にはクリスマスをイメージしたタペストリー、窓ガラスにもトナカイやクリスマスリースをかたどったステンドグラス風のステッカーが貼られていた。
 元々リビングに置かれていたローテーブルとは別に、ダイニングから運び込まれてきたとおぼしきテーブルまで置かれ、どうやらここに料理や絢乃さんお手製のケーキが並ぶらしいと僕も理解した。

 リビングには源一会長を始め、加奈子さんと絢乃さん、六十歳にほど近い年齢と思われる一人の女性――家政婦の史子さんと、絢乃さんと同世代くらいのショートボブの髪型をした長身のボーイッシュな女の子がいた。
 
「――あ、そうだ。そろそろケーキがいい感じに冷えてきた頃だと思うから、持ってくるね」

 絢乃さんがリビングを出ていくと、その女の子もソファーから立ち上がってフラッと彼女についていった。

「――桐島くん、今ならちょうどいいな。君と少し話したいんだが、いいかな?」

 絢乃さんがいないタイミングで、会長が僕をご自身が座られているソファーの側へ手招きした。

「……えっ? はあ」

 僕はその場に残っていた加奈子さんや家政婦さんのことを気にしていたが、二人は僕と会長の話に聞き耳を立てるつもりはないようだったので、会長は構うことなく僕に話しかけてこられた。

「――何でしょうか? 僕に話というのは」

 僕の方から訊ねると、会長は少し難しい顔をなさってこう切り出された。

「実はな、桐島くん。まだ絢乃には話していないんだが……、私はもう長くないらしいんだ。無事に年を越せるかどうかも分からない。――安心しなさい、加奈子はもう知ってる」

「え……、そんなにお悪いんですか?」

 ショックのあまり、僕が問いかけると彼は大きなため息とともに頷かれた。

「主治医は私の学生時代の友人なんだがね、彼が教えてくれたんだ。それに、私の体のことは私自身がよく分かってるさ。下手にウソをつかれたところで、もう先がないことは覚悟できてる。……ただ、絢乃はまだ子供だから、この事実を打ち明けるのはあまりにも酷だ。まあ、いずれは告げなければとは思ってるがね」

「そう……ですね」

 絢乃さんだって、お父さまが亡くなるまで知らなかったよりは、ちゃんと事実を知ったうえで、ある程度覚悟を決めていた方がダメージは小さくて済むだろう。
 ただ、彼女がこの事実を受け止め切れるかどうか、という心配はあったのだが……。

「実はもう遺言状も作ってあってね、絢乃を後継者に指名してあるんだ。取締役会で承認を得られれば、あの子が次期会長となる。――そこで、君に頼みたいことがあるんだが」

「……はあ」

「君には、絢乃の支えになってやってほしい。どういう形でかは、君に任せよう」

「え……? どういう……ことでしょうか?」

 彼の思いがけない頼みごとに、僕は戸惑った。これは、秘書として彼女を支えてほしいということなのか、それとも一人の男として彼女の精神的な支えになってほしいということなのか……。

「家内の親戚筋の中には、絢乃が会長になることを快く思わない連中が必ずいる。あの子が精神的苦痛を受ける場面も少なからず出てくるだろう。そういう時、君にはあの子の一番の味方になってほしいんだ」

「それは構いませんが……、どうしてその務めを僕が?」

 一番の味方、ということなら、加奈子さんの方が強力ではないだろうかと僕は思った。彼女は篠沢家の現当主である。発言力も強い。僕のような部外者――それも会社のイチ社員でしかない僕なんかに、果たして務まるのだろうか。

「あの子は……、絢乃は君のことを信頼してるようだからね。この意味が分かるかな?」

「……はあ、何となくは」

 彼のおっしゃり方があまりにも遠回しで抽象的だったので、僕は分かったような……分からなかったような。
 どうしてあの時分からなかったのだろう? 源一会長が、絢乃さんの僕への恋心にお気づきになっていたのだと。

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