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イヴの遺言 ②

 源一会長はそこまで僕に訊ねられてから、「ああ、そうか」と思い出された。

「絢乃から聞いたんだね。君もあの日、私が倒れたところを見ていたようだし……」

「……はい。僕がお嬢さんをお家までお送りして、その時に連絡先を交換させて頂きました」

 僕の答えに、彼も「やっぱりそうか」と頷かれた。

「では絢乃が言っていた、私に受診を勧めた社員というのも――」

「はい、僕です。差し出がましいことをして申し訳ありません。会長のお体のことが心配だったもので……」

「いやいや! 謝る必要はないよ。心配してくれてありがとう」

 僕が謝罪すると、会長は困ったような表情をされ、すぐに笑顔を浮かべられた。

「――治療を受けられて、ご気分はいかがですか? 絢乃さんも奥さまも心配されているでしょうから、あまりご無理はなさらないで下さい。……あの?」

 会長が声を出してお笑いになったので、僕は面食らってしまった。

「いや、申し訳ない。君がさっきから娘のことばかり言ってるもんだからね、もしやあの子に気があるのかと思って」

「ぃぃぃぃ……いえいえ! そんな、とんでもない! いやいや畏れ多いですっ! 僕ごとき一般社員がお嬢さまになんて、そんなおこがましい!」

「そこまでムキになって否定しなくてもいいだろう? 私は構わないよ。絢乃のことを大事に思ってくれているなら」

「……はあ」

 僕はこの日まで、源一会長は雲の上の人のように思っていた。会長と平社員、接点なんてあるわけがないと。
 でも、絢乃さんと知り合ったことで、そのお父さまである会長のこともグッと身近な存在に思えるようになった。よく考えてみたら、源一会長だって元からセレブだったわけではないのだ。結婚前には、僕と変わらないイチ社員に過ぎなかったのだから。

「気分は……そうだな、抗ガン剤の副作用で体がだるい時もあるし、吐き気がひどい時もあるよ。今もあまりいいとは言えないな。だがね、私はこの会社が好きなんだよ。君たち社員のこともね。だからもう先が長くないと分かってても、できるだけ長い時間この会社に関わっていたいんだ」

「会長……」

 絢乃さんも、お父さまのお気持ちをご存じなのだろうか? そしてご納得されているのだろうか……? 僕は絢乃さんの心中を案じていた。

「――そろそろ午後の業務が始まるね。私もこれから総務課や他の部署の視察に行くんだ。では、頑張ってくれたまえ」

「……はい」

 僕は会長が先に行ってしまわれると、小川先輩に「会長、ホントに大丈夫なんですか?」と訊ねてみた。

「私はお止めしたんだけどね、会長は聞く耳持って下さらなくて」

「そうなんですか……。秘書って大変な仕事ですね」

 僕はそれまで、秘書という仕事に華やかなイメージしか持っていなかった。でも、仕えるボスによってはそれだけでない大変な面もあるのだと、この時初めて知ったのだった。

「うん、まあね。でも、桐島くんも秘書室に異動するつもりなんでしょ? これでイヤになったなんて言わないでよ?」

「はあ、大丈夫……だと思いますけど」

 痛いところを衝かれ、僕はちょっと自信なく答えた。結局は不安よりも絢乃さんへの愛が勝り、今でも秘書という仕事を続けられているのだが。

「それより先輩、会社辞めるかもしれないって話はどうなったんですか?」

「ああ、あれね……。あの後室長に話してみたんだけど、『あなたに辞めてもらうわけにはいかない。あなたはこの会社に必要な人なんだから』って引き留められた。会長に万が一のことがあったら、私は他の幹部の人に付くことになると思う」

 そう答える小川先輩は、少しつらそうな表情をしていたように思う。

「そうですよ、先輩! 先輩は僕にとっても必要な人です。僕が秘書室に入った時、仕事のやり方教えてもらわないといけないんですからね。……あっ、別にこれは恋愛的な意味とかじゃないですよ!? そうじゃなくてですね」

 僕は小川先輩のことを異性として意識したこともないし、先輩の方が僕を男として見てくれていたかどうかも怪しい。でも、手のかかる弟くらいには思われているかもしれない。
 ……それはさておき、これだけは断言しておこう。僕はそれまでの過去の恋愛はともかく、絢乃さんに出会ってからは彼女に一途だった。(いな)、それは過去形ではなく、もちろん今もである。

「……分かってるわよ、そんな必死に弁解しなくても」

「あー……、ですよねぇ……」

 ……そうだった。彼女はこの時点ですでに、僕の絢乃さんへの恋心に薄々感づいていたのだった。

「それより、こんなところで駄弁(だべ)ってていいの? 早く仕事に戻んないと、またあの課長にイヤミ落とされるわよ?」

「…………はぅっ!? そうだった! それじゃ先輩、失礼しますっ!」

「――小川くん、君も早くおいで」

 速足で総務課へ戻る途中、僕の後ろの方から小川先輩が会長に呼ばれ、「はい! ただいま参ります!」と答える声が聞こえた。

****

 ――源一会長の闘病生活が始まり、二ヶ月近く経とうとしていた。
 
 十二月に入り、そろそろクリスマスシーズンというところ。僕はこの頃には絢乃さんと毎日のように連絡を取り合うようになっており、また本格的に秘書室への異動に向けて引き継ぎやら何やらでそれまでに増して忙しくなっていた。

 ある日、彼女にそのことを電話で伝えたところ、「会社辞めちゃうの?」とひどく驚かれた。きっとまだ高校生だった当時の彼女には、仕事の引継ぎ(イコール)退社手続きという考え方しかできなかったのだろう。
 でも、退職するのではなく、異動のための引き継ぎなのだと僕が言うと、彼女は安心されたようだった。

 絢乃さんと出会ったあの夜から、僕の中から「篠沢商事を辞める」という選択は完全に消えたのだ。彼女の支えになるためなら、どんなにつらい思いをしても会社に残ってやるのだと固く決意したのだから。それは単なる僕の意地だったのかもしれないが……。

 それに、僕はその少し前に新車のセダンに買い換えたばかりだったので、ローンの返済額も少し増えていた。そこで職を失ったら、路頭に迷うだろうことは明白だったのだ。

 ただ、転属先については正式に決まるまでは彼女に伝えなかった。あんな時期に不謹慎かもしれないが、サプライズにしたかったという気持ちもあった。
 けれど、伝える日が来なければいいのにとも思っていた、だってそれは、彼女のお父さまがこの世を去られる日でもあったからだ。

 ――それはさておき、彼女からクリスマスイヴに行われる篠沢家のホームパーティーに招待されたのは、イヴを十日ほど先に控えた寒い日のことだった。

『――桐島さん、突然で申し訳ないんだけど、クリスマスイヴの予定って空いてるかしら?』

 僕の帰宅後にかかってきた電話で、彼女は開口一番にそう訊ねてきた。

「イヴですか? ――はい、空いてます。僕は彼女もいませんし、これといって予定は何もないですし」

 独身、彼女ナシ。しかも下戸でもある男のクリスマスイヴなんて、ただ暇を持て余すだけの日である。酒でも飲めれば話は別だが、飲めないヤツを好き好んで野郎同士の飲み会や合コンに誘い、場を白けさせたいもの好きはまずいないだろう。少なくとも、僕の周囲にそんな友人は一人もいなかった。

『そう? よかった!』

「よかった……って?」

 ……何が「よかった」のだろう? 僕は小首を傾げた。まさかその当時は、絢乃さんも僕に好意を持ってくれているなんて夢にも思っていなかったのだ。

『あ、ううん! こっちの話。……あのね、イヴにウチでクリスマスパーティーをやろうってことになったんだけど。よかったら貴方も来てもらえないかなぁと思って』

「クリスマスパーティー、ですか?」

 家でやるというからには、ホームパーティー程度の規模だろうと分かりそうなものだが。いかんせん篠沢家が名家なので、一般的なホームパーティーとは違うだろうと僕は勝手に思い込んでいた。

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