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「……、……」
 名前を呼びたくなった。口を開きかけた。
 けれどグレイスはそれを呑み込んでしまう。
 口に出してはいけないのだろう。きっと。いくら望んでいるとはいえ。いけないことに決まっているのだから。
 代わりにぎゅっと体を抱きしめる。手が冷えているせいで、身を抱きしめてもちっともあたたまりやしなかった。
 ふと、そこでよぎったのはもう数ヵ月前のこと。
 『お転婆』をして街に行って、悪い事件に巻き込まれてしまったとき。
 グレイスを助け、腕に抱いてくれたひとがいた。
 そのひとの腕はとてもあたたかくて、安心できるものだった。
 あの腕があのときと同じように自分の身を抱いてくれたら、どんなにいいだろう。
 そんな叶わぬ望みすら、頭によぎったそのときだった。
「……お嬢様!」
 なにかが聴こえた。それはなんだかよく知っているような、とても近しいもののような。
 グレイスはぼんやりと視線をあげた。
 こちらへ駆けてくるひとがいる。雨の降る森の中、泥が跳ねるのも構わずに。
 傘をさしているようだった。そのせいで顔は見えない。
 けれど、その事実だけでグレイスは理解した。かっと胸が熱くなる。
 いつもそうだ。グレイスがこうして不安になったとき、探しに来て見つけてくれるひと。

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