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 しかしきっと明日には屋敷の使用人たちにまで知れるレベルの発表がされる。そうしたらメイドや使用人たちから「おめでとうございます、お嬢様」と笑みを浮かべられることは決まっていて。そしてすぐに露見してしまうだろう。グレイスがこの話に前向きでないということは。
 隠しきって「そうなの、とても嬉しいわ!」なんて取り繕うことは、とても。
 せめてこのうしろ向きが『恋をしている相手でない者との婚約』だからであると思われることを祈るしかない。
「お嬢様」
 こんこん、とノックがされて、声がかけられる。聞こえてきたのはフレンの声だったので、グレイスは少しどきっとしてしまった。別にあれから顔を合わせていないわけでも、会話をしていないわけでもないのに。
 あのやりとり、明らかにおかしな様子だった自分。
 フレンはどう思ったかと考えてしまうと、どうしても。
「……どうぞ」
 でももう避けたりするものか。そんな子供っぽいこと。グレイスは静かに入室許可を出した。
 すぃっと扉が開けられる。入ってきたのはフレンであったが、手になにかを持っていた。
 黒塗りのトレイである。その上にはお茶の支度らしきものが乗っていた。しかしカップとソーサーだけ。ティーポットはない。直接カップに入っているようだ。このようなことは珍しい。
 そしてグレイスの鼻に良いものが届いてきた。チョコレートのような甘い香り。そのふたつのことからグレイスは、フレンが持ってきたものがなにかを知る。ふわっとフレンが微笑んだ。
「少しご休憩されませんか」
 甘い香りと、優しい声と、ふんわりした微笑。
 グレイスの心はどうしてだろう、するりとほどけていってしまった。それはまるで、漂うあたたかくて甘い、ホットチョコレートの香りが心を蕩かせたようであった。

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