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僕の運命が動いた日 ④

 さらに彼女は、加奈子さんが「『家に着いたら連絡する』と言っていたのに、まだ連絡が来ない」と言い、母親が自分に連絡をするゆとりもないくらい父親の具合が悪いのかと心配そうだった。そのつらそうな表情に、僕も身につまされる思いがした。

 僕は「それは心配ですね」と同意した後、もしものことを考えた。あの倒れ方は相当具合が悪かったと見え、命に関わる大病を抱えているかもしれないと。そうなれば、一日も早い受診を勧めるべきだ。

 一瞬、僕のようなイチ平社員がこんな出過ぎたマネをしていいものかと迷った。出る杭は打たれる。これで目立って、また島谷課長からの嫌がらせがエスカレートしたら……と考えなかったわけではなかった。でも、他にこんなことを進言できる人間が、あの会場にいるとも思えなかったので。

「――あの、僕のような平社員がこんなこと申し上げるのも差し出がましいとは思うんですけど……」

 僕は僭越(せんえつ)だとは思いつつ、おそるおそる前置きから始めた。彼女が「言ってみて」と続きを促してくれたので、本題にズバッと切り込んだ。

「お父さまには、ちゃんと病院にかかって頂いた方がいいと思います。できれば、精密検査も」

「え……?」

 彼女は大きく目を(みは)った。……やっぱり、気を悪くされたかな。僕は後悔したが、一度言ってしまったことはもう引っ込みがつかない。
 それに、これは他の誰でもない会長ご本人のためだった。たとえ彼女にとってつらい現実だったとしても、伝えないわけにはいかなかった。伝えると決めた僕自身が一番つらかったのだから。

「もしかしたら、命にかかわる病気かもしれないでしょう? だったら、発見も一日でも早い方がいいと思うので」

 彼女の表情が、より険しくなった。今にも泣きだしそうな表情に、僕の胸がチクリと痛んだ。
 なるべく感情を抑え、冷静に言ったつもりだった。そんな僕を、彼女は「なんて冷たい人だろう」と思ったかもしれない。彼女を失望させてしまったかもしれない。
 僕は彼女に、こんな顔をさせたかったわけではなかったのに……。後悔が、波のように押し寄せてきた。

 でも、彼女も僕ほどではないが冷静さを保っていた。ある程度の覚悟はできていたらしい。

「……分かったわ。ありがとう。パパにはわたしから話をしておく。わたしの言うことならパパも耳を貸してくれると思うから」

 つらそうな表情は変わらなかったが、泣き出すことなく僕にそう約束してくれた。

「はい」

 僕は内心ホッとしながら頷いた。彼女は僕が思っていた以上にメンタルの強い女性のようだ。やっぱり、彼女にアドバイスしてよかった。彼女なら、ちゃんとお父さまにこの話を伝えてくれるだろうと。
 今思えば、僕の一目惚れがただの〝一目惚れ〟ではなくなったのは、きっとこの瞬間だったのだと思う。

 とりあえずホッとした僕は、彼女に元気になってもらうべく、次の行動に移った。すなわち――。

「――絢乃お嬢さん、デザート召し上がりませんか? さっき見た時、ビュッフェテーブルに美味そうなフルーツタルトがあったんですけど」

 彼女に、美味しいデザートを食べて笑顔になってもらうことだった。……実は、僕も一緒に食べられたらいいなぁと思っていたり、いなかったり。
 
「そう言うってことは、ホントは貴方が食べたいんじゃない? 桐島さんって甘いもの好きなのね」

 彼女は僕の思いがけない提案に、クスッと笑って僕をからかってきた。予定外に彼女の笑顔を見られたのはよかったが、この提案はヤブヘビだったかもしれない。僕がスイーツ男子だということが、彼女に思いっきり知られてしまったのだから。

「ハハハ……、バレちゃいました? 実はそうなんですけど、男ひとりで食べるのは勇気が要るんで……」

 図星を衝かれた僕は、頬を掻きながら苦笑いで答えた。
 大人の落ち着きで接していたかったのに、「子供っぽい」と落胆されただろうか? ――僕のそんな()(ねん)とは裏腹に、彼女は僕の提案に快く乗ってくれた。

「じゃあ……、わたしもお付き合いしましょうか」

 彼女がそう言ってくれた時、僕は内心小躍りせんばかりだった。彼女は僕と一緒にビュッフェテーブルまで行ってくれ、ご自分の分のお皿はご自分で取ってくれた。
 お嬢さまだから、僕に「取ってきて」と言うかと思っていたのだが。お高く止まらないのは、ご両親の教育方針がよかったからだろうか。

「――お嬢さん、どうですか? 美味しいでしょう?」

 テーブルに戻り、美味しそうにフルーツタルトを一口食べて顔を綻ばせている彼女に、僕はそう話しかけてみた。彼女は「これなら食べられそう」と満足げだった。
 僕はもう半分くらい食べていて(総務課は忙しいので、自然と食べるスピードが速くなってしまったのだ)、彼女が嬉しそうにフォークを動かす姿を眺めながら、「可愛いなぁ」とほっこり和んでいた。

「ところで桐島さん。わたしのことを『お嬢さん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかしら?」

 タルトを半分近く食べてから、彼女が少々ムッとした顔で僕にそう言った。
 この呼び方は、まずかったのだろうか? 雇い主の令嬢だから、この呼び方が一番無難だと思っていたのだが。彼女は「お嬢さん」と呼ばれるのがイヤだったらしい。

「……すみません。分かりました。じゃあ……、〝絢乃さん〟ってお呼びしてもいいですか? ちょっと()れ馴れしすぎでしょうかね?」

 僕は彼女のご機嫌を伺いつつ、提案してみた。これでもイヤだと言われたら、完全に彼女から嫌われそうだった。
 でも僕の方が八歳も年上だし、〝さん〟付けしているだけまだ敬意は払っていると思う。呼び捨てにするよりはまだだいぶマシだろう。

「うん、ぜひそう呼んで。馴れ馴れしいなんて思わないで? 貴方の方が年上なんだから」

 彼女はむしろその方がよかったようで、僕は嫌われるどころかより好感をもってもらえたようだった。それ以来、僕は結婚後も彼女のことを「絢乃さん」とお呼びしている。呼び捨てなんておそれ多くて、一生できない気がしているのだ。

 ――それからしばらく、僕と彼女は他愛もない会話をしながら二つ目のフルーツタルトを平らげた。
 その頃になって、彼女のスマホに加奈子さんからメッセージが受信した。そろそろパーティーを締めてほしい、招待客のために帰りの車の手配はしておいた。……まあ、そんな内容だったのだろう。後になって彼女から聞いた内容は、まったくそのとおりだった。

「ママ……、わたしはどうやって帰ればいいのよ」

 彼女のこの呟きは、実は僕の耳にも入っていた。加奈子さんが彼女の帰りの手段を伝えなかったのは、きっとわざとだろう。僕がお家までお送りすることになっていたので、それを聞いたお嬢さんを驚かせたくてお膳立てして下さったのだ。

「――ああ、もうすぐ九時になりますね。少し早いですが、そろそろ」

 僕は腕時計に目を遣った。ちなみにこの時計は、ブランド物でもなんでもない三千円のものだ。
 時刻は九時近くになっていたので、少し早いが彼女を促した。

 彼女は僕に頷いて見せ、ステージへ上がっていくとマイクを持ち、会長の途中退出の旨と、閉会の挨拶を会場内の招待客に告げた。
 ざわざわと招待客が引き上げていく中、彼女は強張った顔でステージ上から彼らを見送っていた。
 相当気を張りつめていたらしく、席に戻ってきた彼女は大きく深いため息をついていた。やっと肩の力が抜けたらしい。
 僕はそんな彼女のために、ドリンクバーで冷たいウーロン茶を淹れてから再びテーブルに戻り、彼女の前にグラスを置いた。

「――お疲れさまです、絢乃さん。喉(かわ)いたでしょう? これどうぞ」

「あ……、ありがとう。いただきます」

 よほど喉が渇いていたのだろう。彼女はウーロン茶をグビグビと一気に飲み干してしまった。お酒ではないが(未成年なのだから当たり前だ)、惚れ惚れするくらいにいい飲みっぷりだった。
 喉が潤うのとともに、彼女は少し元気を取り戻したようだ。十七歳の若さで大仕事を任され、プレッシャーも相当大きかっただろう。招待客のざわつきで、精神的にかなり疲れていたはずだ。

「皆さん、ざわついてましたね。まあ、仕方ないといえば仕方ないですけど」

 そんな彼女に、僕はあえて明るい調子でこんな言葉をかけた。彼女も僕と同感だったようだが、「これでわたしの務めは無事に終わった」と安堵(あんど)していた。そして、倒れたお父さまの容態が気がかりで、早く家に帰りたがっているようだった。

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