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雨降って…… ⑥


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 ――わたしに「いつまででも待っててあげる」と言われた彼がプロポーズをしてくれたのは、意外にも早くてその年のクリスマスイヴだった。西のガラス窓から見えたキレイな夕暮れの空が、今でも心に焼き付いている。

 学校は冬休みに入っていたので、わたしは朝から冬物のスーツにハイネックの二ットを着込み、黒のタイツにワインレッドのベルベットのパンプスで出社していた。もちろん、誕生日に彼から贈られたネックレスも身に着けて。

「――会長、ちょっとよろしいですか? お渡ししたいものがあるんですが」

「ん? 何かしら?」

 彼は自分のデスクの抽斗から、キレイにラッピングされた正方形の小さな箱を取り出してきた。
 この頃にはもう、社内では秘密にしていたはずのわたしと彼との関係も他の社員達の間で暗黙の了解になっていたようだ。こういう私物は、秘書室のロッカーで保管しなければならないはずなのに、バッグから持ち出しても広田室長から咎められることはなかったらしい。

「メリークリスマス! そして……」

 彼は自分の手でリボンをほどき、包装を解いた。そして、現れたベルベットのケースのフタを開け、中に収められた物をわたしの方に向けた。

「……えっ?」

「やっと覚悟が決まりました。僕でよければ、あなたのお婿さんにして頂けないでしょうか? お願いします」

 それは、プラチナの台に小さなダイヤモンドが一粒あしらわれたシンプルだけれど可愛らしい指輪。彼からのエンゲージリングだった。
 そういえば、その数日前の日曜日、彼は「予定があるからデートをキャンセルさせてほしい」と言ってきていた。きっとその日に、こっそりこの指輪を選びに行っていたのだろう。

 彼は自分のことを「カッコよくない」と言っていたけれど、そんなことないじゃない。こうして真摯(しんし)にわたしにプロポーズしてくれるところも、父やわたしのことを本気で案じてくれていた真剣な眼差しも、わたしは誰よりもカッコいいと思っている。
 だって、彼がわたしに一目惚れしたように、わたしも彼のそういうところに一目惚れしていたのだから。

「もちろんよ! こちらこそありがとう。よろしくお願いします!」

 そろそろと、彼がわたしの左手を取った。そして、ケースから指輪を取り出してわたしの薬指にはめてくれた。
 不思議と、測ったようにサイズはピッタリだった。

「スゴい、ピッタリ……。でも、どうしてサイズ……」

「実は、加奈子さんからこっそり聞いてたんです。『絢乃の指のサイズなら、きっと七号よ』って」

「そんなことだろうと思った」

 彼が笑いながら打ち明けてくれたので、わたしもつられて笑ってしまった。

「ちょうど一年前に、あなたのお父さまと僕がどんな約束をしたのかは、以前お話ししましたよね?」

「うん。パパが貴方に、わたしのことを頼んだっていう話でしょ? ……それじゃ、このプロポーズは」

 父が望んだから、彼はわたしの婿になる決意をしたのだと思った。でも、彼の答えはわたしが想像していたのとは違っていた。

「もちろん、その約束を果たしたかったのもありますが、これは僕自身が決めたことです。僕はこれまで、上司であるあなたに守られてきました。でも、僕も男なので……、守られてばかりではダメだと思ったんです。僕じゃ頼りないかもしれませんが、これからは僕にもあなたの人生を守らせて頂けませんか?」

「…………うん、ありがと」

 わたしの目から、一年前と同じように涙が溢れた。それを見た途端、彼が毅然(きぜん)とした態度から一変してオロオロし始めた。

「……えっ!? スミマセン! 僕、会長を泣かせてしまうようなことを何か――」

「ううん、違うの。これは嬉し涙。……ゴメンなさい。わたしね、もう貴方との恋はもうダメかもしれないって思ったこともあったから……。だから、こうしてプロポーズしてもらえたことが嬉しいの。今、すごく幸せなの」

 わたしは泣き笑いの顔で答えた。この涙はちょうど一年前、父がもうすぐいなくなってしまうことにショックを受けて流したのとは違う、幸せの涙だった。 

「僕はまだ、あなたを幸せにする自信はありませんけど、あなたの笑顔を守ることくらいはできます。こんな冴えない僕ですが、よろしくお願いします!」

「こちらこそよろしく! 二人で幸せになろうね!」

 指で涙を拭ったわたしは、椅子から立ち上がって彼に抱きついた。多分、泣いたせいでアイメイクはボロボロで、パンダみたいな顔になっていたと思う。
ロマンチックな展開が台無しだったけれど、そんなの気にしなかった。

「――あのね、桐島さん。わたしも今まで貴方に話してなかったことがあるの」

「……へっ?」

 彼の耳元で囁くと、彼が素っ頓狂な声を上げた。彼は耳まで真っ赤だった。

「実はわたしも、貴方と同じで一目惚れだったのよ」

「ええっ!? 僕のどこにそんな要素が……」

「パパが倒れた時、本気で心配してくれてたでしょ? それに、わたしのことをすごく気遣ってくれてて。その時の真剣で、でもあったかい眼差しにわたしは一目惚れしたの」

 彼は恋愛小説のヒーローに向いているほど、ずば抜けてイケメンというわけではない(自分の恋人に対してなんてひどい評価だろうかと、わたし自身も呆れるけれど)。でも、心がキレイな人だ。真っすぐで、純粋で、芯が強い。そういう人だから、わたしは彼に惹かれたのだと思う。

「そうだったんですか……。知りませんでした」

 わたしの告白を、彼は惚けたように聞いていた。わたしはすぐに彼から離れた。

「――そうだ、大事な話! 貴方はわたしと結婚したら、ウチに一緒に住んでもらうことになるんだけど。それは大丈夫ね?」

 我が家に婿入りする時の絶対条件が、代々(というか父と母の代だけだったのだけれど)「篠沢邸での同居」となっているのだ。
 彼は我が家に来たこともあるし、我が家には部屋があり余っているので、家族が一人や二人増えたってどうってことはない。あとは彼にそこまでの覚悟ができているかどうかだけだった。
 とはいっても、彼は(しゅうとめ)になる母とはもう一年近く一緒に働いていたわけだし、あと我が家にいるのは住み込みの使用人だけだったのだけれど。

「もちろん大丈夫です。結婚前になったら、今住んでいるアパートは引き払います。あと、僕の両親にもお会いして頂きたいんですが」

「分かってるわ。まぁ、悠さんとはもう知り合いだけど、ご両親にもご挨拶に伺うわね」

 彼と悠さんを育てたご両親には、お会いするのがすごく楽しみだった。職業は伺っていたけれど、実際にどんな方たちなのかはお会いしてみないと分からなかったから。

「はい。両親にも僕からそう伝えておきます」

 父が亡くなってから、わたしの家族は母だけになってしまっていたけれど。彼との結婚で、楽しい家族が一気に増えそうだ。

「でも、式を挙げるのはパパの一周忌が済んで、わたしが高校を卒業してからね。希望としては、やっぱり六月かな。新宿にね、ウチのグループが所有してる結婚式場があるの。式はそこで挙げたいな」

「〝六月の花嫁(ジューン・ブライド)〟ですか。いいですねぇ……」

 ――わたしは、彼と初めて出会った夜のことを思い返していた。 

「――ねぇ桐島さん、覚えてる? わたしと貴方が初めて出会った夜、わたしが言ったこと。『貴方も次男だから、わたしのお婿さん候補に十分当てはまる』って」

「ああ……。そういえばあの時、そんなことおっしゃってましたね」

 彼は覚えていてくれたのだ。わたしがあの時、何気なく言った一言を。

「僕は忘れてませんでしたよ。あの言葉のインパクトはスゴかったですから。特に、意識している女性から言われると」

 彼は照れ臭そうに、頬をポリポリ掻いていた。

「あの時は候補の一人でしかなかったのにね。まさかホントに、貴方がわたしのお婿さんになってくれる日が来るなんて、あの時は思ってもみなかった」

 ――あの一言を発した夜から十四ヶ月後、それは現実の話として、わたしと彼との結婚準備は進んでいくこととなった。

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