雨降って…… ③
「そんな……」
彼がわたしとの恋をシンデレラになぞらえていたことには驚いたけれど、ここまで自分の育ちを卑下されると、わたしも悲しくなってきた。
「あの人に言われたとおりです。僕と絢乃さんとでは、どう考えても釣り合いません。僕では、あなたの育った家柄の一員になる資格が足りません。ですから、仕事上の関係と恋愛関係までに留めておいて、結婚は僕ではなく他の男性と――」
「いい加減にしてよ! 貴方のわたしへの想いって、その程度のものだったの? お互いの境遇の違いだけにこだわって、釣り合わないなら身を引くなんて簡単に言えるような。貴方がそんな意気地なしだとは思わなかった」
「絢乃さ――」
「……もう、いい」
わたしは彼に背を向けた。雨に濡れた石畳には、傘を差して立っているわたしの姿がぼんやりと滲んでいた。
「もう疲れちゃった。わたし、貴方っていう人が分からない。こんなにつらいなら、もうやめよう? ただのボスと秘書の関係からやり直そう?」
「……えっ?」
「わたし、明日は出社しないから、会社のことはママに頼んでおく。一日離れて、お互い冷静になった方がいいと思うの」
「……はぁ」
冷静にならなければならなかったのは、私の方だ。もう頭の中がぐちゃぐちゃで、彼の顔を見て何かを言うのには堪えられない状態だった。
初めての恋愛で、自分から引導を渡すってどうなんだろう? 恋には絶対的な正解がないので、自分でもこれで本当にいいのかと迷ってはいた。
「……ねぇ、一つだけ訊かせてくれる? 貴方がわたしを好きな気持ちは、本物だったって信じていいのよね?」
「はい、もちろんです」
彼は力強く肯定した。どうせなら、否定してくれればよかったのに。せっかく引導を渡したのに、これではすっきりしない。心の中にモヤモヤが募っていって、わたしは今にも泣き出しそうな状態だった。
「――服、びしょ濡れだから、風邪引かないようにね。じゃあ」
わたしは一度も彼を振り返ることなく、速足で石畳の上を歩きだした。
――これで本当によかったのだろうか? 本当に彼だけが悪かったのだろうか? わたしに悪いところはなかったのだろうか……?
その途中で頭をよぎるのは、そんな答えの出ない自問自答ばかり。初恋の終わりがこんなにも惨めなんて、想像すらしていなかった。……いや、まだ終わったかどうかすら分かっていなかったけれど。
「――ただいま……」
どうにか泣き出さずに玄関まで辿り着き、家の中へ声をかけると、母がすっ飛んできた。
「おかえりなさい。……絢乃、何かあったの?」
母はわたしの様子がおかしいことにすぐ気づいたらしく、眉をひそめて訊ねてきた。
「ママ……、わたしの初恋、終わっちゃったかもしれない……」
わたしはそのまま、母の胸に抱き着いて号泣し出した。あんなに泣いたのは、父が亡くなって以来だったと思う。
「ちょっと、落ち着いて! とにかく、二階へ行きましょう」
「……うん」
わたしは泣きじゃくりながら、母に背中をさすられて二階の自分の部屋へ向かった。
肉親を失うことはもちろん悲しいことだけれど、好きな人を自分から振るということも、それと同じくらい心に傷を負うことだったのだ。
こんな時くらいは、普通の十八歳の女の子に戻って思いっきり泣いていたかった。
二人してベッドの縁に腰かけ、母はわたしが泣き止むのを待って、両手を握ってくれた。
「冷たい手……。とりあえず、お風呂に入ってらっしゃい。お湯を張ってる間に、話聞かせてもらおうかしらね」
一度バスルームに消えた母は、水音がする中すぐに戻ってきた。
「――で、桐島くんと何があったの?」
わたしはそれまでの数ヶ月間に渡る彼とのすれ違いや、彼にわたしとの結婚の意思がないらしいこと、その原因はわたし自身にもあったかもしれないことを母に聞いてもらった。
「――わたし、もうどうしていいか……。彼のことホントに好きなのに、こんな終わり方って自分でも納得がいかなくて。……わたしと貢、もうダメなのかなぁ……?」
母にこれだけの弱音を吐いたのは、もうどれくらいぶりだったろう? 普段は財閥のリーダーという重責を担っているために、母にすら素直に甘えることができずにいたけれど、この時だけはその重責から解放されて、母に思う存分甘えようと思った。
「そんなことないんじゃない? 彼だって、絢乃のこと本気で好きなんでしょう?」
「……うん。そう言ってたけど」
「だったら大丈夫! お互いにまだ気持ちが残ってるなら、終わりじゃないわ」
「……そっか」
「ええ。ところで絢乃、明日学校はどうするの? 具合が悪いなら、お休みしてもいいのよ」
「ううん、大丈夫。だって、わたしの本業はこっちだもん。勉強は待ってくれないから」
「……そう、分かった。でも、ムリはしないようにね。じゃあおやすみ」
――わたしは彼を嫌いになってなんかいない。そして、彼に嫌われたわけでもない。……そう思うと、まだ望みが絶たれたわけではないのだと、胸がスッと軽くなった気がした。
できれば、彼もわたしと同じ気持ちでいてくれたらいいな……。そう思いながら、母が部屋を出た後、わたしはバスタブに身を沈めた。
****
――翌朝。わたしは早々に朝食のフレンチトーストを平らげ、ブレザーを羽織った。
「じゃあママ、わたし学校に行ってくるね。今日一日、桐島さんのことよろしくお願いします」
「ええ、それはいいけど……。ホントに大丈夫? 顔色まだ悪いわよ?」
「大丈夫。具合悪くなったら保健室もあるし、里歩も唯ちゃんもいるし。――じゃ、行ってきます」
母の心配はありがったけれど、親友二人に心配をかけたくなくて、わたしは半分カラ元気で登校していった。
里歩と唯ちゃんと待ち合わせていた新宿駅へ向かう途中、わたしが考えていたのは、もっぱら彼のことだった。
ちなみに唯ちゃんのお家は恵比寿にあるのだけれど、彼女もJR山手線から京王線に乗り換えるために新宿駅を利用しているそうで、四月からは彼女も待ち合わせに加わっていたのである。――それはさておき。
前日の夜、彼は雨の中を傘も差さずにずっと車外にいてずぶ濡れになっていた。傘はちゃんと車の中に積み込んであったはずなのに。
秋の雨は冷たいし、かなりの大振りだったので、あのあと風邪を引いていたら……と思うとわたしも責任を感じていたのだ。
帰宅してから入浴後にも就寝前にもスマホをチェックしてみたけれど、彼からの着信もメッセージも一件も入っていなかったので、余計に心配になった。
彼はわたしに拒絶されたと思ったから、連絡するのをためらったのだろうか?
だからといって、わたしから連絡すると余計に話がこじれそうだったし……。別に意地を張っていたわけではないのだけれど、わたしから「ゴメン」と言ったところで、根本的な解決にはならなかっただろうから。
彼はきっと、伝統ある〝篠沢家〟という名家に婿入りすることに尻込みしていたというか、及び腰になってしまっていたのだろう。それをさも当然のことのように彼に押し付けてしまったのには、明らかにわたしに非があったと思う。それは反省すべき点だった。
もう一度、彼と話し合うことができたら……。彼の苦しみにもちゃんと耳を傾けて、彼の意思もちゃんと
「――お~い、絢乃~っ!」
「絢乃タ~ン、おはよ~!」
京王線のホームに、わたしと同じ制服姿の長身のショートボブと小柄なポニーテールが見えた。二人はわたしに向かって笑顔で手を振ってくれていた。
「里歩、唯ちゃん! おはよう!」
わたしも努めて精一杯の笑顔で手を振り、二人の親友の元へ駆け寄っていった。
この二人は、前日の夜に起きたわたしと彼との問題に無関係だから。あんなプライベートなことに、彼女たちを巻き込みたくなかったのだ。
****
――学校にいる間は、できるだけ彼のことを考えないようにしようと思っていたけれど。授業中にもお昼休みの間にも、わたしはスマホをチラチラ気にしていた。
さすがに仕事中にはメッセージも送れないだろうけれど、お昼休みになら……という淡い期待もあったのだ。でも、彼からの連絡は一度もなかった。