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キスの答え ③

「ただいま、桐島さん。お兄さまをお連れしたわよ。――どうぞ、お入りください」

「よう、貢! ちゃんと働いてっかー?」

 わたしがドアを開けて、悠さんを中へ招き入れると、悠さんは軽い調子で彼に手を挙げた。途端に、彼の眉がヒクヒクと動いた。

「兄貴……。まさかホントに来るなんて思ってなかったよ……。っていうか絢乃さ……、会長。兄とお二人でなんか楽しそうでしたね」

 彼は明らかに動揺していたようで、オフィスでは「会長」と呼ぶようお願いしていたのに、危うくわたしのことを名前で呼びかけていた。

「えっ、そうだっけ? お兄さま、お話してみたらけっこうステキな人よね」

「いやいや、絢乃ちゃんが可愛いからだって。オレも話してて楽しかったもん」

「…………」

 そのまま応接スペースのソファーに座ったわたしたち――特に悠さんを、彼は睨みつけていた。
 彼の心境はきっと、「会長に馴れ馴れしくすんな!」という感じだったのだろうか。今思えば、お兄さまに軽く嫉妬していたのかもしれない。

「あっ、桐島さん。わたしとお兄さまに、コーヒーお願いね。わたしはいつもの」 

「オレのはブラックな。頼むわ」

「……………………。分かりました」

 彼は長い沈黙の後、諦めたようにお茶汲みに向かった。当たり前のように客としてふんぞり返るお兄さまに、ひとこと抗議しようとして白旗を揚げたらしい。

「ありゃりゃ……。なんかアイツを追い出したみたいで申し訳ねえなぁ」

「そうですねぇ。別に追い出したつもりはないんですけど、お客様のおもてなしも秘書の仕事ですから、仕方ないです」

 二人きりになった途端、悠さんはバツが悪そうに頭を掻いた。わたしの返事は正論ではあったのだけれど、ちょっとクールすぎたかなと思う。

「――ところでさぁ、昨日の件なんだけど。アイツ、絢乃ちゃんにちゃんと理由話した?」

 悠さんが、ズバリ本題に切り込んできた。わたしは首を傾げながら答えた。

「いえ、ハッキリとは……。『魔が差した』とか『血迷った』とか『トチ狂った』とか、似たような意味の言い訳はしてましたけど」

「やっぱなぁ。アイツ、思いっきりはぐらかしたんだろ? ホントは惚れた弱みだったクセに、素直じゃねえからアイツは」

 なるほど、と納得しかけて、わたしは耳を疑った。

「……えっ? 悠さん、いま何ておっしゃいました?」

「うん? だから、惚れた弱みって。アイツさぁ、初めて会った時から絢乃ちゃんのこと好きなんだとさ。……あれ、聞いてない?」

「聞いてないです。っていうか彼、わたしが訊いた時答えてくれませんでしたもん。『はい』とも『いいえ』とも」

 わたしは沈んだ声でそう言って、首を横に振った。
 どうして彼は、答えてくれなかったのか。その時のわたしには理由が分からずにモヤモヤしていた。――悠さんがこうしてヒントを与えてくれるまでは。

「貢さん、どうして返事してくれなかったんでしょうね? 『はい』って言ったら、わたしに嫌われると思ったのかなぁ……。そんなこと絶対ないのに」

 わたしはまだ彼に信頼されていないのかと、ちょっと悲しくなった。でも悠さん曰く、実はそうではなかったらしい。

「そりゃあ、告白するみたいになるからためらったんじゃねえかな。かと言って、とっさにウソつけるほどアイツ器用じゃねえし。何より、絢乃ちゃんと気まずくなるのがイヤだったんじゃねえかとオレは思うよ。……まあ、思いっきり逆効果になっちまってるみたいだけど」

「はい……」

 彼はわたしとの信頼関係を壊したくなくて、よかれと思って答えなかった。でもそのせいで、却ってわたしと彼はギクシャクしてしまっていた。これが逆効果といわずして何というのだろうか。

「……あの、貢さんはどうしてわたしのことを……? 悠さん、何かご存じですか?」

「うん、知ってるよ。――アイツ、キミに救われたんだって言ってた」

「救われた……?」

 意外な言葉に、わたしは目を瞠った。

「絢乃ちゃんは知らねえだろうな。……キミに初めて会った半年前さ、あの頃アイツ、上司からのパワハラに悩まされてて。オレにも電話で『会社辞めたい』ってこぼすほど追い詰められてたんだ」

「はい……、あ、いえ。そういえば彼、言ってました。あのパーティーも、上司から代理で出てくれって言われたのを断れなかった、って。――でもまさか、彼がそんなに悩んでたなんて……」

 わたしは胸を痛めた。
 彼は人が好いうえに、真面目で不器用な人だ。もしかしたら、上司からのパワハラもあれが初めてのことではなかったかもしれないのだと、思い当たった。

「貢さんって、その頃日常的にパワハラを?」

「そのとおりだよ。その上司、普段からアイツのお人好しにつけ込んで自分の任された仕事を押し付けたり、ミスったら責任をアイツにおっ被せたり、無理難題言ったりってまぁヒドかったんだってさ。そりゃぁ、会社辞めたくもなるよなぁ。オレなら絶対(ぜってぇ)ムリ」

 彼が上司――多分、総務課長の島谷(しまたに)さんだろう――から受けていたらしいパワハラは、わたしの想像を遥かに超えるほどひどいものだった。
 わたしは組織のトップとしては、こんな人物が管理職を務めていることが情けなくなり、またひとりの女の子としては、好きな人の苦悩に気づいてあげられなかった自分を恨めしく思った。

「でも、絢乃ちゃんと出会ったことでアイツは、会社を辞めるのを思い留まったらしいんだ。辞める必要ないじゃん、部署変われば済むことじゃん、ってさ」

「へえ……。じゃあ、わたしに救われたっていうのは、そういう意味だったんですね」

 わたしはやっと、悠さんがおっしゃったことの意味を理解した。と同時に、彼があの後すぐに転属を希望した事情も分かった。
 わたしは自分でも気づかないうちに、彼の人生を変えるキッカケを作っていたのだ。

「そういうこと。……んで、今更ながら訊くけど。もしかして絢乃ちゃんも、アイツのこと好きなのか?」

「…………はい!?」

 悠さんの直球すぎる質問に、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。とっさにごまかすことも考えたけれど、それが図星だということはわたしの態度だけでもうバレバレのようだった。

「どうして……そう思われたんですか?」

「だってさぁ、アイツが受けてたパワハラの話で心痛めてくれてたみたいだし、アイツに嫌われたくないみたいだから、もしかしてそうなんかなーって」

「…………」

 思いっきり急所を衝かれたわたしは、いたたまれずに俯いてモジモジした。この人の洞察力は\侮《あなど》れないと、最後は素直に認めた。

「……はい。わたしも出会った瞬間から、貢さんに惹かれてたんです。初めての恋ですし、職場ではボスと秘書という間柄なので、告白しようかどうかも決めかねてたんですけど……。あのキスがあって、このままじゃいけないなぁって思い始めてたところでした」

 彼本人がその場にいたら、わたしはここまで自分の想いを吐き出せていたかどうか分からない。でも悠さんは一切口を挟まず、冷やかすこともせず、うんうんと相槌を打ちながら耳を傾けて下さっていた。

「……なんて、悠さんに打ち明けても仕方ないですよね。わたし、何やってるんだろ。――あの、ここでわたしからお聞きになったこと、貢さんには内緒にして頂けますか?」

 わたしは何だか顔が熱くなり、火照りを冷ますように両手でパタパタと(あお)ぎながら、悠さんにお伺いを立ててみた。

「分かってるって☆ オレね、こう見えて口は堅いんだなー。そん代わり、アイツの気持ちをオレから聞いたってことも、内緒で頼むよ」

「はいっ! もちろんです」

 ちょうどその会話が終わったところで、ドアの外からコンコン、とノックの音がした。

「――あ、貢さんが戻ってきたみたいです。あのノック、彼からの『ドア開けて下さい』っていう合図なんですよ」

 わたしはすぐに立ち上がり、トレーを持っているであろう彼のために、中からドアを開けてあげた。

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