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キスの答え ①

 ――その翌日は、わたしも彼も絶不調だった。
 お互いにミスを連発し、社内のみんなに多大な迷惑をかけていた。……特にわたしが。

 彼にキスをされたのがもちろん原因ではあるのだけれど、彼がわたしの質問に答えてくれなかったことで、顔を合わせれば気まずい空気が流れていたのだ。

 せっかく春休みに入ったので、学校の制服ではなく大人っぽいオーダーメイドのスーツとパンプスで出社していたのに、そのせいで彼に褒めてもらいにくくなっていた。

「――桐島さん。この資料、誤字だらけよ。悪いけど作り直してくれる?」

「あっ、ハイっ! すみません! すぐやらせて頂きますっ!」

 彼がプリントアウトした資料は、誤字脱字のオンパレード。普段はテキパキと仕事をする彼にしては珍しいミスだった。彼はそのまま資料のファイルを再び開き、ひたすらバックスペースキーを連打していた。 
 きっと彼も気まずかったのだろう。首の皮一枚繋がったとはいえ(だからわたしは、「クビになんてしない」と言ったのに!)、ボスの機嫌を損ねたと彼は思い込んでいたようだから。

 ……そういうわたしも、彼のことばかりは言えず。

「――あっ、会長! そのメールは転送されたメールだから、ちゃんと村上社長宛てに送り返して下さいって言ったじゃないですか! そのまま山崎専務に返信しちゃいけないって!」

 作り直した資料を持ってきた彼が、わたしがその時送信したばかりのメール画面を見て()(たけ)びをあげていた。

「あー、そうだった……。ゴメン。……やだもう! 何やってんだろ、わたし!」

 気を取り直して同じメールを村上社長宛てに送信し直し、誤って送信してしまった山崎専務には、内線電話で陳謝した。

「――あ、山崎さん? 篠沢です。ゴメンなさい! 村上さんに返さなきゃいけないメール、ボーッとしててそのまま貴方のところに返信しちゃって。申し訳ないんだけど、そのメールはそっちで削除してもらえます? ……ええ、お願いします」

 受話器を戻したわたしは、はぁ~~~~っと深い息を吐いた。会長に就任して三ヶ月が経とうとしていたけれど、こんな初歩的なミスはこれが初めてだった。

「……すみません、会長。全部僕のせいですよね? 昨日、あんな大それたマネをしてしまったから……」

「違うわよ。貴方ひとりの責任じゃない。あんまり自分を責めないで。……わたしも仕事に身が入ってないのよ。そろそろ一息入れようかな」

「あっ、じゃあコーヒー淹れてきましょうかね」

 うん、とわたしが頷いたところで、彼のスーツの内ポケットからスマホの振動音がした。

「ちょ、ちょっと失礼します。……げ」 

 わたしに断りを入れてからディスプレイを確かめた彼は、珍しくウンザリ顔になっていた。……誰からだろう? と、わたしは首を傾げた。

「もしもし? ……うん、まだ仕事中。会長室にいるけど。……はぁっ!? 今すぐ近くまで来てる!? マジかよ! っていうか、(おれ)の仕事中に電話してくるなって言ったろ!? だいたい、そんなこと俺の意思だけじゃ決められないって!」

 電話に出た彼は、いつもの丁寧な口調ではなくぞんざいなもの言いだった。一人称も「俺」になっていたけれど、それだけ親しい間柄の人からの電話なのだとわたしも直感で気づいた。
 ……まさか、相手は女性!? と思ったけれど、彼は女性に対してでもそんなぞんざいな口調にはならないはずで。

「……ねえ桐島さん。お電話、どなたから?」

 おずおずとわたしが訊ねると、スマホを耳から離して「兄からです」と即答してくれた。

「お兄さまって……、確か飲食関係で働いてらっしゃるっていう、四歳年上の……」

 わたしはとっさに、その半年ほど前、彼から聞いた彼のお兄さまについての話を思い出した。

「そうです。今日はもうバイトが入ってないからって、今丸ノ内まで来てるって言うんですよ。それで、会長に一言挨拶したいから会社まで行ってもいいか、って。……どうしましょうか?」

 彼はお兄さまへの返事に困っているようだった。こればかりはわたしの許可が必要で、自分一人では決められないと、わたしの許可を(あお)いでいるらしかった。
 通話は保留にしているようだったけれど、あまり相手をお待たせするのは申し訳ないとわたしも思った。

「桐島さん、代わって?」

 わたしは自分の言葉で伝えた方がいいと判断して、スマホを貸してくれるよう、彼に手のひらを見せた。

「……えっ? ……ああ、はい」

 彼のスマホを受け取ると、わたしは素早く保留モードを解除して通話を再開した。

「もしもし、お電話代わりました。会長の篠沢絢乃です。桐島さんのお兄さまですよね? 弟さんにはいつもお世話になっております」

『えっ、絢乃ちゃん!? 本人!? マジかー。あ、オレ、貢の兄で桐島(ひさし)っていいます。ウチの()(てい)がお世話になってるね。っていうか、オレのことはアイツから聞いてるんだよね?』

 初めて話す彼のお兄さま・悠さんは、思っていた以上に気さくな人だった。
 弟の雇い主であるわたしを「ちゃん」付けで呼び、まるで妹にでも話しかけるような口調に、わたしはちょっとビックリした。
 実の弟である彼は、お兄さまのこういう馴れ馴れしい態度にイラっときていたのかもしれない。

『――絢乃ちゃん? もしもし、聞こえてる?』 

「あ、はい。すみません、聞こえてますよ。お兄さまのことも、貢さんから伺ってます。今、このビルの近くにいらっしゃるんですよね?」

 わたしは返事が遅れてしまったことをお詫びして、悠さんの質問に答えた。

『うん。えーっとね、東京駅から西に行ったとこ? そのあたり。これから絢乃ちゃんに会いに行きたいんだけど、時間あるかな?』

「ええ、大丈夫です。もう急ぎの仕事もないですし、悠さんは桐島さんの身内で、大事なお客様ですから」

「ちょ……、ちょっと絢乃さん!?」

 横で彼が目を\剥《む》いていたけれど、わたしはあえて見ないフリをした。

『そっか、ありがとね。……んでさ、やっぱし正式なアポって必要なのかな?』

 悠さんが訊きたいのは、事前に連絡を取って会う約束を取り付けなければならないのか、ということらしかったので。

「う~ん、そうですね……。じゃあ、このお電話をアポということにしましょう! 受付にはわたしから話を通しておきますので、悠さんは何も気にせずにおいで下さい。いらっしゃった時に受付にひと声かけて下されば、一階までお迎えに参ります」

『うん、ありがと。じゃ、あと五分くらいでそっちに着くと思うから。アイツによろしく☆ んじゃね』

 通話が切れると、わたしは彼にスマホを返した。受け取った彼は恨めしそうに、わたしを睨んでいた。
 彼の言いたいことは、わたしにも察しがついていたけれど。

「……なに?」

「『なに?』じゃないでしょう! 僕の意思を無視して、何勝手に決めてるんですか!」

 あえてすっとぼけて見せたわたしに、彼は(あん)(じょう)猛抗議してきた。

「ゴメンね、つい二人だけで話が盛り上がっちゃって」

「盛り上がらなくていいんです! これから一階の受付にも連絡するんでしょう? 会長のお願いはもう、命令と同じなんですよ? 誰も断れないじゃないですか!」

「だからゴメンってば。――もしかして、貴方はお兄さまにいらしてほしくないの?」

 彼がここまでムキになっていた理由が何となく想像できて、わたしはその疑問をぶつけてみた。

「そっ、そんなことはないですけど……。僕はただ、僕にひと言確認を取ってほしかっただけです」

 彼は実兄に職場に来てほしくなかったわけではないらしい。そこで、わたしは彼ら兄弟の仲が決して悪いわけではないのだと分かった。

「それは、わたしの配慮が欠けてたわね。ゴメンなさい。――さて、じゃあ受付に内線かけとくかな」

 再びデスクの上の受話器を上げ、内線番号を押している間に、わたしは彼に言った。

「お客様をおもてなしすることも、会長の大事な仕事なのよ」

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