バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

恋も、仕事も ④

 だから、この日の帰りの車内での彼の行動には、わたしもさすがに驚きを隠せなかった。
 まさか、彼があんな大胆な行動を起こすなんて……。

****

 ――この日はわたしもだいぶ疲れが溜まっていて、彼の車に乗り込むなり眠り込んでしまった。
 もう本当に完全熟睡で、彼に話しかけられていたのかどうかも分からなかった。

 三十分くらい眠っていたような気がする。――もしかしたら、眠っていたわたしに気を遣った彼が、わざわざ遠回りしてくれていたのかもしれない。
 車が一時停止したかと思うと、突然、唇に何か柔らかな感触を覚えて、わたしはその拍子にパッと目を覚ました。

「…………んっ!?」

 目を覚ましたわたしは、車が大きな交差点で信号待ちだったことを知り、続いて彼が運転席でハッとした表情をしていることに気がついた。なぜか少し青ざめていたような気もする。

「……なに? 今のって……。 ――って桐島さん!?」

「絢乃さん、申し訳ありません! 僕はあなたにとんでもないことを……っ! 本当に失礼極まりないことを……」

 彼はわたしに謝罪したかと思うと、この世の終わりでも来たかのようにガックリと項垂れた。はぁ~~~~っと大きく息を()きながら。

 わたしにも一応は恋愛の知識があったので、自分の身に起きたことが何なのかは何となく理解ができていた。――あの感触は、多分キスだと。
 でも、もちろん初めてのキスだったので、怒ってはいなかったけれど簡単には受け入れられず。気がついたら彼にこんなことを言っていた。

「……桐島さん。わたし、さっきのがファーストキスだったの」

「はい……」

 彼は絶望感に打ちのめされていたのか、呻くように返事をした。このままわたしにクビにされるかもしれない、と思っていたらしい。

 その直後、信号が青に変わった。 

「信号変わってるよ。……別にわたし、怒ってないから。今は運転に集中して」

「……はい」

 怒っていないと言っているのに、彼はわたしの顔色を窺い、素直すぎるくらい素直に返事をして、再びアクセルペダルを踏んだ。

 好きな人からのキス。いくら初めてだったとはいえ、怒るわけがない。わたしも正直()(まど)いはしたけれど、それで彼を解雇しようなんて気はさらさらなかった。
 彼に辞められて一番困るのは、誰でもないわたし自身だったのだから。

 それよりも、わたしには彼がどうしてあんな行動に出たのか、その方が気になっていた。

 彼だってもちろん、わたしを困らせる気はなかったのだろう。多分、わたしの寝顔を眺めているうちに、衝動的にキスしてしまったのだと思う。
 そして、わたしがそれで目を覚ましてしまったのでハッと我に返り、どっと後悔が押し寄せたのだろう。

 真面目な彼のことだから、それで動揺してしまったのは分からなくもない。でも……、そこまでわたしに怯える必要なんてなかったのに。一体、わたしのことを何だと思っていたんだろう?
 わたしはただ、彼のことが好きなひとりの女の子でしかないのに。

「――あの、絢乃さん。着きましたけど……」

「うん。――ちょっと待って、桐島さん。さっきの弁解、ちゃんと聞かせて?」

 家のゲートの前に着いてもわたしは車を降りず、助手席で腕組みをして彼に向き直った。
 彼はそんなわたしが怖かったのか、オドオドしながらしどろもどろに弁解を始めた。

「……はい。あのですね、先ほどの僕は……その、魔が差したというか血迷ったというか、トチ狂ってしまったというか――」

「ご託はよろしい。っていうか全部同じ意味じゃない」

 そのせいで、彼の言い訳は全部似通った意味の言葉になっていたので、わたしはすかさずツッコミを入れた。

「あ……、すみません。とにかく、本当に衝動的な行動で、僕自身が一番驚いてるんです。ですからその……、お願いですからどうかクビにするのだけは……」

「クビになんてするわけないじゃない。貴方には辞めてもらっちゃ困るの。だから、そんなに怯えないで! わたしはホントに怒ってないから」

「……本当に、怒ってらっしゃらないんですか?」

「クドい! さっきからそう言ってるでしょ?」

「……ですよね」

 彼はそこでやっと安心できたらしい。少々引きつってはいたけれど、笑顔が戻っていた。

 そして、わたしは考えた。彼が衝動的にわたしにキスしたということは、それこそが彼の本能的な行動で、理性で抑えきれなかったのではないか、と。
 そこにひとつの仮説が成り立った。……つまり。

「――桐島さんって、わたしのこと好きなの?」

 思いきって疑問をぶつけてみたけれど、彼からの返事はなかった。

「……………………。お疲れさまでした。今日のことは、本当に反省してます。――明日から春休みだとおっしゃってましたね?」

 長~い沈黙で間を取った後は、一応普段通りの彼に戻っていた。わたしは何だかはぐらかされたような気がして、肩透かしを食らわされたような気持ちになった。

「……うん。学校は午前中で終わるから、昼食は家で摂ることにしてるの。だから、一時前に迎えに来て」

「了解しました。では、また明日。失礼します」

 彼はそれだけ言ってしまうと車からわたしを降ろし、さっさと帰ってしまった。

「結局、どっちなのよ……。どうして答えてくれなかったの……?」

 わたしには彼の本心が分からず、首を捻るだけだった。

しおり