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恋も、仕事も ②


****

 ――コンコン。いつものように、ドアがノックされた。
 これはわたしたち二人の間で、彼がトレーを持っているのでドアを開けてほしいという合図、ということになっていた。

「はいはい! 今開けるわね」

 わたしもこの頃にはもう慣れたもので、自然にスッと席を立って中からドアを開けてあげるようになっていた。

(おそ)れ入ります」と彼はいつものように頭を下げると、わたしのデスクの上にホカホカと湯気の立っているカップと、チョコレートケーキと小さなフォークが載っているお皿を置いた。

「ありがとう、桐島さん。わぁ、美味しそう! さっそく頂くわね」

 いただきます、と手を合わせ、わたしはしっとりした生地のチョコレートケーキをフォークで口に運んだ。

「……ん、美味し~い!」

 冷蔵庫で冷やされていたらしいケーキはヒンヤリ冷たくて、チョコレートの味も濃厚で、わたし好みの甘めのミルク入りコーヒーにもよく合った。

「会長に喜んで頂けてよかったです。お出しした甲斐がありましたね」

 彼もわたしの反応を見て、ホッとしたような、ちょっと誇らしげなような表情でそう言った。

 わたしはこのチョコレートケーキを食べながら、実は密かにバレンタインデーの作戦を練っていた。
 ――バレンタインの贈り物、チョコレートケーキにしようかなぁ。でも、初めてのバレンタインでそれはさすがに重いかな……。なんて思いながら。

 ……それはさておき。

「――会長、その本は……。もしかして、経営のお勉強を?」

 まだ自分の席に戻っていなかった彼は、わたしのデスクの上に広げたままだった本に目を留めた。

「うん。わたしなりに学んでおかなきゃ、と思って読んでたんだけど……。なかなか難しいものね。ビジネス書って、書く人によって主張したいポイントが違うんだもの」
 
 わたしはコーヒーをまた一口飲んでから、肩をすくめた。

「でも、今読んでるこの本には、色々と参考になりそうなことが書いてあったわ」

「そうですか……。それにしても、学校でのお勉強に会長としてのお仕事に、その合間を縫って経営のお勉強に……。絢乃会長も大変ですよね。あまりご無理はなさらないで下さいね」

 彼の言葉からは、わたしのことを心から心配してくれていることがジーンと伝わってきた。彼に恋をしていたわたしは、もちろんそんな一言にすら胸がキュンとなった。

「心配してくれてありがとう。でも、わたしは大丈夫! だってホラ、まだ若いし。――でも、貴方からの忠告は真摯に受け止めます」

 若いから倒れない、というのはただの屁理屈だ。わたしはただでさえ、世間一般の女子高生とは比べものにならないほどハードな日常を送っていたのだから。
 彼にしてみれば、わたしはほんの少し前に父を病で亡くしたばかり。そのうえ、娘のわたしにまで倒れられては困るという理由もあったのかもしれない。

「分かって頂けたならよかったです。会長、たまにお帰りの車の中で居眠りなさってるじゃないですか。僕が気づいてないとでも思ってらしたんですか?」

「う…………っ、知ってたのね……」

 わたしはたじろいだ。そして、彼の言っていたことは事実だった。
 本当に時々なのだけれど、わたしは疲れが溜まっている時には帰りの車内でうとうとと微睡(まどろ)んでいることがあった。でも、優しい彼はわたしが自然に目を覚ますまでムリに起こすようなことはしないで、わざわざ遠回りをしてくれていた。

「ああ、別に会長を責めてるわけじゃないんですよ? ただ、会長は責任感の強い方ですから、ご自分ひとりで何もかも背負い込まないで、たまには僕を頼って下さい。そのための秘書なんですからね」

「……うん、分かった。ありがとう。ホントに大変な時は、いつでも貴方にグチを聞いてもらうわね」

 彼のこのアドバイスは、わたしにとって何よりありがたかった。わたしも誰かに寄りかかってもいいのだと、ちょっと救いが見出せた気がした。

「――さて、僕もボチボチ資料作成にかかりますかね」

 彼はやっと自分の席に戻り、デスクトップパソコンを起動させると、テキパキと仕事を始めた。
 それを横目に、わたしも美味しいコーヒーとケーキを味わいながら経営学の本に目を通し、また新たに受信したメールの返信もこなしていた。

****

「――会長、もう六時ですね。そろそろお帰りになりますか?」

 外が暗くなってきた頃、彼が腕時計に目を遣り、わたしに訊ねた。
 わたしもパソコンの時刻表示を確かめると、シャットダウンして答えた。

「もうこんな時間? ……そうね、じゃあ送迎お願い」

 わたしの終業時間は、基本的には他の社員の人たちより一時間遅い夕方六時である。仕事の内容によってはそれよりだいぶ早く帰れる日もあるし、少し遅くなる日もある。
 それは秘書である彼の場合も同じ。彼も社員なので、多分定時は夕方五時のはずなのだけれど、上司(ボス)であるわたしの送迎係も兼ねているため、必然的に退社時間がわたしと同じになるのだ。その分、残業代と役職手当もキチンと上乗せされている分、他の部署より月給がいいのである。
 この日は急ぎの仕事もあまりなく、わりとヒマな方だったので、わたしの〝定時〟である六時に退社することができた。

 丸ノ内のオフィスから自由ヶ丘の自宅までは、時間帯にもよるけれど車でニ十分くらい。それだけの時間があれば、車内でちょっとした仮眠がとれる。

 そしていつも必ず、わたしは後部座席ではなく助手席に乗り込む。これは後部座席だとふんぞり返って見えそうでイヤなのと、恋するオトメとしては、好きな人との距離が少しでも近い方がいいという理由もあった。……二つ目の理由は、口が裂けても彼には言えなかったけれど。そして、今でも言っていないけれど。

「――絢乃さん、もうすぐ着きますよ」

 この日は眠っていなかったわたしは、家のゲートが見えたあたりですでに帰り支度を済ませていた。でも、会社ではわたしのことを「会長」と呼ぶ彼が、終業後には「絢乃さん」と名前で呼んでくれるのが好きで、外の景色をボーッと眺めているフリをしていた。

「……うん。ありがとう」

 ゲートの前に着くと、彼はいつも自分が先に降りて、外から(うやうや)しく助手席のドアを開けてくれた。

「絢乃さん、足元に気をつけて降りて下さいね」

「ありがとう、桐島さん」

「明日もまた、学校が終わる頃に僕にメッセージを下さい。お迎えに上がりますので。お疲れさまでした」

「お疲れさま。じゃあ、また明日ね」

 彼はわたしが玄関アプローチへと足を踏み出すのを見届けた後、車に乗り込んで帰っていった。でも、彼は知らないと思う。車に乗り込む彼の姿を、わたしもチラチラ振り返って見ていたことを。
 ……また明日も彼に会える。そう思えるから、わたしは大変な毎日でも頑張れていたのだと、今はそう思える。

「――ママ、史子さん、ただいま!」

 わたしは元気よく玄関のドアを開けて、先に帰宅していた母と、お手伝いの史子さんに大きな声で呼びかけた。

****

 ――翌日、六限目の終了間際。

〈桐島さん、お疲れさま! 
 もうすぐ学校が終わるから、迎えに来てね☆ ママによろしく。〉

 チャイムが鳴る直前に、わたしは約束どおり、スマホから彼にメッセージを送った。

〈了解しました。今から会社を出ます〉

 その返信を確認すると、わたしはスマホカバーを閉じた。

 ――終礼後、帰り支度をしていると、里歩が声をかけてきた。

「絢乃、お疲れー☆ 今日もこれから会社行くんでしょ?」

「うん。桐島さんが迎えに来てくれるの。里歩は、今日部活?」

「うん、そうだよ。――しっかしまぁ、マメな彼氏だよねぇ。毎日毎日送り迎えしてくれるなんてさ」

「か……っ、彼氏!? 違うから! 彼はまだそんなんじゃ……」

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