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第33話 何、その磁気圏から目線

「腹の具合?」結城が叫び、
「腹の」時中が呟き、
「お腹ですか」本原が溜息混じりに囁いた。
「うん、そう」鯰(なまず)が頷くのが目に見えるようだったが、無論姿はなく声のみだ。「岩っちからの質問」
「何故そんな質問を?」天津が、彼にしては険しい部類の表情で訊く。「地球から、どうして」
「話せば奥深い話になるけどね」鯰は飄々と答える。「生物が食う為に働く、その為に体の具合を悪くする、っていうサイクルはどうなのかってこと」
「――」天津はぱちぱちと瞬きを繰り返し、話を咀嚼している様子だった。
「おお、なるほど」結城が一人腕組みし頷く。「そもそも何の為に働いてんのかってことっすね」
「私は食べる為にだけ働くというのは違うと思います」本原が静かなる異議を唱えた。「仕事とは、人間が、自分の存在意義を確かめるものだと思うんです。自分がこの世に、何をする為に生きているのかを」
「自己実現というやつか」時中が受け応える。「まあ人間の仕事というのは確かにそれが大きいのだろうな。食う事は二の次というか、下層の欲求だ」
「うーむ」結城が腕組みしたまま目を閉じ顔を岩天井に向ける。「深いなあ。うん、これは奥深い命題だ」
「で」鯰は特に感動した風でもなく質問を繰り返す。「あんたらのお腹の具合はどうなの? 健康で健全なの?」
「ああ、はい」結城は腕を解いた。「すこぶる快調っす」
「――特に問題はない」時中が慎重に答える。
「――」本原は応えずにいた。
「彼女は?」鯰が催促する。
「答えないといけないのですか」本原が、天津の方を見て問う。
「いえ、結構です」天津は首を振る。「強制されるようなことは全くありません」微笑む。
「あー、そうだね。女性にこういう質問はちょっと、あれかもねえ」結城は間延びした声で腕を頭の後ろに組む。「セクハラ? じゃないか、何だろう。腹ハラ?」
「ハラスメントになるのか、これが」時中が懐疑的に問う。「健康に関する単純な質問だろう」
「私がハラスメントだと感じるのであれば、ハラスメントになるはずです」本原が厳しい表情で言った。
「そうだよね」結城はまた腕を解いて下ろし、本原に向けて指を振った。「本原さんは腹ハラだと感じるんだよね、これ」
「いいえ」本原は首を振った。「感じません」
「ええっ」結城は頭を両手で抑えた。「じゃあ腹ハラじゃないんじゃん」
「そんなふざけたハラスメントではないと思います」本原は断言した。「ハラスメントになるのだとしたら、これは地球さまから我々弱小なる生き物に対する警告を含めた嫌がらせ、つまり惑星規模のパワーハラスメント、アースハラスメント、アーハラだと思います」
「――」本原の説明の途中から、時中は目を細め何度も首を横に振り始めた。
「おお」結城は両の拳を握り締めた。「アーハラか」叫ぶ。「じゃあクーたんを起動して戦ってもらうしかないのか」
「クーたんは地球さまとは戦いません」本原はぎぬろと音もせんばかりに結城を睨めつけ、かぶりを振った。
「そうか、戦わないのか」結城はふたたび腕組みした。「そうだよな、クーたんて組合の人じゃないもんな」それから不意に口許を抑えて忍び笑いをする。「組合のク」
「結城さん」天津が慌てて両手を上げ、泣きそうな顔で制する。
 本原は何も言わず結城の方に視線も向けてはいなかったが、その手の中に何かを握り締めているようだった。

「神は人間を、自分たちの為に働かせる目的で造った」

 出し抜けに鯰が言葉を挟んできた。三人の新入社員は同時にはっと顔を上げ、それから揃って天津を見た。いつも優しげに、また気弱げに微笑んでいる研修担当は今、表情を硬くして三人の眸を順繰りに見つめ返していた。

     ◇◆◇

 ――自己実現、かあ……
 地球は、何というのだろうか、“感慨”と人間たちが呼ぶものに似た感覚を味わっていた。
 ――そうか、ただ食べる為だけに仕事をしているんじゃあ、ないというのか。

 ずず
 ず
 ずず
 …………

 岩の滑りゆく微かな音が、しばらく聞こえていた。
 ――けど。
 地球はまた想った。
 ――そもそも神は人間を、働かせるために造ったって……言ってたよな。

 ず
 ず
 ずず
 ず
 …………

 プレートは緩やかに、そうとはわからないほど緩やかに、滑り動いてゆく。それと同じように、地球の想いもまた少しずつ、ごく僅かずつ、現れては儚く消えてゆきながら、それでも確かに積もってゆくのだ。
 ――スサノオは、無駄使いさせる為だって……言ってた。

 ずず
 ずずずず
 …………
 ず
 ずず

 ――そして人間自身は、自分の存在意義を確かめる為だって……言う。

 ず
 ずず
 …………

 ――“食う”事は、下層の欲求だって……言う。

 ずず
 …………
 …………
 ずず

 ――じゃあ人間は、神の為に何をしているというんだろう?

     ◇◆◇

「神は人間の仕事に、満足してるの?」鯰が訊く。「って、言ってる」
「もちろん」天津はすぐに頷く。「言うまでもない」
「でも人間は、神の為に働いてるなんてこれっぽっちも思っていないんじゃないの?」鯰はまた訊く。「宗教に関わる仕事をしてる人間は別としてさ」
「宗教というのは」天津は目を閉じた。「乱暴に言ってしまえば、人間が作ったものだ」
 沈黙が流れた。
「すみません」天津は小さな声で詫びる。「もちろん我々はその“仕事”に対しても満足して、感謝しています」
「でも人間が考えてやってる“仕事”って、神がやらせたかったことに相違ないの?」鯰の問いは続く。「人間が、勘違いしてることはないの?」
「――」そこに到って天津の言葉は途絶えた。
「勘違い?」結城が叫び、
「何を勘違いしていると言うんだ」時中が呟き、
「私たちは神さまのご意志に添うことができていないというのでしょうか」本原が悲哀の籠もった声で囁く。
「勘違い、というのではない」天津は言葉を絞り出した。「けれど我々の予測していた以上に、人間という生物は」そこで天津の言葉は何かに圧し潰されたかのように途切れた。
「進化し過ぎた」結城が指を振って叫び、
「馬鹿だった」時中が最低音のトーンで呟き、
「神さまを敬う気持ちを忘れてしまった」本原が絶望と畏れの籠もった声で囁く。
「いえ」天津は少しだけ笑った。「人間は、ストイックなんです」
「ストイック?」結城が叫び、
「つまり禁欲的だというのですか」時中が呟き、
「まあ、そんな」本原が溜息混じりに囁いた。
「はい」天津はゆっくりと瞬きした。「それはもう、我々が不思議に思うほどに――先ほどお話にあった自己実現にしろ、宗教にしろ、人間たちが自ら、理論や禁忌、善と悪、正と負、なすべきこととなさざるべきこと、そういったルールを整えて、そして天が、自然が、神がそう告げているのだとして、自らを戒める」
「そうか」結城が突然納得したような声を挙げる。「そういえば歓迎会のとき木之花さんが、戦を起こすのはいつだって人間だっつってましたよね」
「つまり、なんでもかんでも神の所為にする事に神は不満を持っていると?」時中が問う。
「不満、というのではありません」天津は慌てて両手を振った。「ただ、どうして……とは、思います」
「どうして、とは?」時中が更に訊く。
「どうしてそこまで、自分を――つまり人間自身を厳しく律して追い込むのか」
 一同は黙した。
「もっと自分を、赦してあげてもいいんじゃないか――そうすれば自分以外の者に対しても、赦すことができるんじゃないかと」
「赦す?」結城が訊く。「ルールとか守らなくてもいいってことすか?」
「それは無理だ」時中が間髪を入れずに反論する。「それこそ地球崩壊の憂き目を見ることになる」
「そうですね」天津は頷く。「ルール、マナー、モラル、そして時間……人間が生きるのに当って、こういったものはすでに必要不可欠のものとなっています。現に我々でさえこの仕事を、時計の刻む時間に沿って、労働基準法を遵守した社内規定にのっとった上で、行わせていただいてます」
「へえー」結城が目を丸くする。「社内規定ってのがあるんすか」
「研修室の棚に冊子として置いてある」時中が冷たく言い放った。「会社なら社内規定があるのは当然の事だ」
「へえー」結城は目を丸くしたまま時中を見た。「さすが」
「それよりも、赦す話はどうなったんですか」本原が社内規定を圧し退けるように言葉を挟む。
「はい」天津は少しだけ肩をすくめた。「赦す、というと人は、それこそ神が人間に対して行う寛大な行為であると感覚的に思うことも多いようですが、我々にはそんな大それたことなんて、端からできはしないんですよ」
「どうして」本原が茫然と訊き返す。「神さまは人間をお赦しにならないのですか」
「はじめに言った言葉の通りです」天津は微笑んだ。「我々は人間の仕事に満足しているし、感謝している、ただそれだけです」
「――」本原は溜息も囁きも忘れ、ただ茫然と天津を見ていた。
「先ほどの、ハラスメントの件についても、若干関係しているかもです」天津は少し首を傾げた。「地球の活動が要因となって人間が危害を被った時、人間はかつて――それを自然天然の、あるいは神の、怒りだと表現していましたよね」
「――」新人たちははっとしたように一瞬だけ目を見交わし合った。
「ハラスメントを受けた時、もしかしたらそれは自分の能力の低さや努力不足、あるいは人格的な未熟さが要因であって、悪いのは自分なのだと考える事がある」
「逆に自分以外の者に対して能力の低さや努力不足、人格的な未熟さを感じるとき、一歩間違えるとそれはその相手に対するハラスメントにつながってしまう恐れがある」時中が低く続ける。
「はい」天津は頷く。「辛い目、苦しい目、痛い目に遭った時、自分の罪を赦して欲しいと祈る生物は、人間だけです」
「おお」結城が胸に拳を当てる。「そうだ。俺もある。就活うまくいかない時、これからは心を入れかえて真面目に清らかに生きますから助けてくださいって、神に祈った」
「冒涜ですね」本原が溜息混じりに囁く。
「そんなことないわよ」結城は声を裏返して反論した。「あたしは真剣に、真摯な気持ちで神さまに祈ったのよ」興奮した時の癖で女言葉になる。
「そのため」天津は静かに話を続けた。「人間は、危機を事前に察知するという能力を、自ら遠ざけていったんです」

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