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社会

 生き物というのは利己的で身勝手な存在だ。自身が生きるために平然と他者を踏みにじる。例外もあるとはいえ自然の中だとそれが顕著で、弱肉強食とは言い得て妙だろう。
 そんな生き物の中で、人は変わった生き物だと思う。社会という枠組みを形成する生き物は他にも存在するが、それでも利己的で身勝手なくせに他者の顔色を窺いながら生きていくというのは珍しい部類に入る。
 観察する分には面白いが、その中に入りたいかと問われれば、それは違うと答えるだろう。こういうのは外野で眺めているから面白いのだ。
 そんな人だが、仮面を被るのが非常に巧い。憎悪を抱きながら笑みを浮かべるなんて器用な芸当を平然とこなすのだから。
 もっとも、中には利他的な行動をする変な存在というのも居る。数が増えれば増えるだけ、そういった存在もまた増えていくだろう。
 さて、そんな混沌とした人の社会である。むしろよくそんなので社会を維持出来ると感心してしまいそうになるが、この辺りは人が弱い存在だからだろう。群れなければ人は簡単に滅んでしまうだろうから。
 それを理解して、群れて社会を形成していく。そして、その枠組みを本格的に壊さない範囲で生きていくというのが人の生き方だ。
 まぁそれはさておき、その群れが一定の力を得たところで、人はその群れを国と呼称する。ハードゥスに限らず、人が存在する世界では、この国というモノが必ず存在していた。
 現在ハードゥスには無数の国家が存在している。一つの大陸でも結構な数の国家が在り、大国のみに絞って数えてみても、人が居る大陸では何処も十前後の国家が存続しているほどだ。
 国とは、つまりは人の群れである。群れとは、種族、血族、身内、仲間、家族などなど色々言い方はあるが、要は同じグループということであった。
 そのグループにはグループの思惑があり、目指している方向性というのが存在する。隣接するからというだけで、別のグループが同じ思想なわけもなく、そうすると必然的に対立する部分が生まれてくるものだ。
 何が言いたいかといえば、国家間というのは個人間よりも面倒だということだろうか。そう簡単には折り合いなどつけられるわけがない。
 その地域は比較的平和であった。昔に大きな争いがあったらしいが、その後は大きな争いは存在しない。だからこそ平和である。少なくとも表面上は。
 平和な世界で発達するモノといえば文化だろうか。後は経済か。他にも色々あるだろうが、困ったことに、平和な時代の戦争というのはその経済で行われるらしい。まぁ、人以外に国を行き来しているモノと言えば、金か物だろうからそれも当然かもしれないが。
 故に、平和な時代では富の大きさが国の力となるようで、それに伴い台頭してきたのが商人だった。
 商人間の争いが、そのまま国家間の争いに繋がるケースだって存在するほどで、新しい戦争の形とも言えるだろう。
 ただ、表面上は静かなので非常に地味だ。れいはそれらの事情を理解出来るので観ていて面白くはあるが、少し前まで賑やかな武力衝突の戦争ばかりだっただけに、その地味さは管理補佐の間では不評のようだった。
 もっとも、だから介入するということにはならないのだが、少し管理が雑になっている気もがしないでもない。
「………………それでも問題はないでしょうが」
 そんな状況に、れいは小さく呟く。ただし、れいの価値観による問題とはハードゥスに対しての話なので、人の世で問題が起きないとは言えなかった。
 そして、この辺りから人は自分の行動に対して責任を取る時代と言えばいいのだろうか、祈る時代から自覚を持って行動しなければならない自己責任の時代へと突入したのかもしれない。
「………………いつかハードゥスにも感謝が世界の根幹になる日が訪れるのでしょうか?」
 れいは今後のことを考え、そう言葉を漏らす。
 自己責任の時代の遥か先、社会が円熟しきった時に訪れる時代の一つに、感謝の時代というモノがあった。それはそのまま全ての物事に感謝する時代で、その時代には貨幣などというものは存在せず、心よりの感謝を持って世界が回っているという不思議な時代。
 その時代には競争は存在せず、人々は平穏を望むだけの存在であった。本当の意味で平和な時代。だが、変革が非常に起きにくい時代でもあった。
 管理者としてはとても管理しやすい時代ではあるのだが、刺激が無いので観ていて退屈な時代でもあった。それに、その先に待っている可能性の一つに滅びの時代というものがあるので、ある意味文明の終焉の時代とも言える時代。
 れいとしては、そんな穏やかながらも退屈な時代が訪れるのは微妙なところであった。もっとも、そんな時代が訪れるにしてもあと数千年先か、それとも数万年先か、もしくはそれ以上かだろうが。

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