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第三話 ほら、脱いで、剥いで、さらけ出しあそばせ。

  私は水戸芽衣子。二十五歳。埼玉県出身。東京都在住。蟹座。O型。OL。使ってるシャンプーはボタニストの黒。

 私は中学生のころ、テニス部に所属していた。本当はサッカー部やバスケ部のマネージャーになりたかったが、マネージャーになるような子は、みんなきゃぴきゃぴ可愛くて、当時の私はというと、思春期特有のアブラギッシュなニキビ面に、そのニキビを覆い隠すような前髪長めのボブヘアーだったから、クラスの端っこで同類たちと「マネージャーになるなんてあざといよね」「女が進んで男の雑用したがるなんて」と、昨今のジェンダー評論家にも引けを取らない論調で、妬み嫉んでいた。
 そんな私にも、青春とやらは存在した。テニス部で二つ年上の神木先輩は、私がサービスエースを空振りした後ろで、爽やかな笑顔をもってボールを拾い、「もっと、腕を伸ばすイメージで打つといいよ」と、茶色がかった前髪をたなびかせた。はたから見れば、何の変哲もない普通の出来事。でも、これが私の初恋だった。
 神木先輩は強かった。細マッチョの長身、すらりと伸びた腕の最高到達点から繰り出されるサーブは、うちの市内で受け止められる人はいなかった。
私は先輩の出場する試合には、おなかが痛くても行ったし、偶然二人きりで帰ることになったときには、公園で長話もした。その時おごってもらったカルピスソーダは、いつもより数倍甘酸っぱく感じたし、味がしないような気もした。





 最近よく、私に話しかけてくる人がいる。
「えーと、じゃあ立花さんは書類の整理お願いできるかな?」
若くて仕事ができて、身長も高くて、
「え~! 高木さん彼女いないんですか~!? いが~い!」
後輩からも慕われていて、
「いやいや、僕、モテないですから」
何よりイケメンなその男。
「それより、お口にクリーム、ついてますよ。お昼にケーキ食べました?」

高木圭介。

「きゃー! これは萌えポイントだわ!」「高木くんかっこいー!」「いいな―、私も明日ほっぺにクリームつけるー!」
 オフィスのパキラに水をやっていると、女子社員どもの浮かれた声が聞こえてきた。確かに高木くんはかっこいいが、それを社内みんなで共有することになんの意味があるのか。どうせお前らは高木くんには選ばれないし、ワンチャンあっても股間の穴にしか興味を示されず、挙句の果てにはそのガバガバの穴と一緒に、親友(笑)に鼻水でもたらしながら「忘れられない」とか言って電話するのが落ちだろうが――。
と、昔の私なら思っていただろう。でも今は違う。今の私は大人だから、そんなことは思わないのである。
 高木くんは営業部の若手社員で、いわゆる出世街道というやつに乗っているらしい二十四歳。彼の黒髪マッシュからは、いつもフローラル系の甘い香りがする。
「あ、水戸さん。おはようございます」
彼は最近、うちの部署に来るたび私に声をかけてくる。
「あ、おはよう高木くん」
ふっと彼のほうを向いた瞬間、ジョウロの代わりにしていたコップが、私の握力の一瞬の隙をついて、床まで一直線に滑り落ちた。
「あ!」
「大丈夫ですか芽衣子さん」
カラン!!ラン!ラン、ランランラ……ン……。プラスチック製のコップが水をあたりにまき散らし、床に対して非日常でド派手な、皆の視線を一瞬にして集める音を爆音で立てた。
 ああ、やばい、おわったやらかした。そう思う隙もなく彼は私に駆け寄った。
「え?」
彼は私の手を取って、ケガがないことを確認したかと思えば、私をオフィスの外に連れ出した。
「芽衣子さん、いや、水戸さん、すみません、僕が話しかけたばかりに」
会社の廊下で彼は、悲しそうに眉を潜め、私に目線をあわせる。
「いや大丈夫。大丈夫だよ。ごめんねありがとう」
私のその言葉を聞いてか聞かずか、彼は「あ、すいません芽衣子さんだなんて」と言いながら恥ずかしそうに、「もし濡れていたところがあれば、これで拭いてください」と、紺に黄色のスカーフ柄の、綺麗なハンカチを私に両手で手渡した。
 あんなにイケメンでちやほやされているのに、どこか垢抜け切っていないというか、でも、彼のそういった一面が、みんなを惹きつけてやまないのかもしれない。


 
「愛子ちゃんお昼何食べる?」
「う~ん、おにぎりとあと、」
愛子ちゃんと二人でコンビニに来たのは、何気に初めてだった。いつも愛子ちゃんたちとは食堂のごはんを食べるから、今日愛子ちゃんが私をコンビニに誘ったのにはびっくりした。
この前安住さんとお昼ごはん食べたから、今日は愛子ちゃんたちと食べよっかなぁ、なんて考えていると、私、愛子ちゃんたちとも仲良くしてるし、安住さんとも仲良くできてるし、すごく順調なんじゃないか、今。と、少し誇らしい気持ちになってくる。このままみんなが仲良くできる架け橋に、なれるんじゃないか。キャサリンさんに出会ってから、明らかに私は変わった。安住さんともまた喋れるようになったし、ねこみちゃんを励ますこともできた。そんなこと、普通の人でもなかなかできないと思うし、ねこみちゃんをきっかけに、自分にも少し自信が出てきた気がする。いいぞ芽衣子。順調だぞ。
コンビニのカップラーメンのコーナーでほくそ笑む。今日のお昼は何を食べよう。
「ねえ、芽衣子ちゃんちょっといい?」
「どうしたの?」
 愛子ちゃんは珍しく、どこか不安げな顔をしていた。最近化粧乗りもよくない。
「あの、ハンカチ貸してくれない? 今日私忘れちゃってさ」
愛子ちゃんの綺麗な、茶色みがかった前髪が揺らめく。
「あ、全然いいよ!」
取り出そうとポケットに手を突っ込むと、高木くんに貸してもらったハンカチが邪魔して、なかなか出てこない。このハンカチを見られるとどんな恨みを買うかわからないから、絶対にばれないようにしないと。
「はい。」
愛子ちゃんは、ありがとう、とそれを受け取り、私たちは会社に帰った。
最近愛子ちゃんは、なぜか元気がないように見える。私たちの話にも上の空だし、スマホとにらめっこしている時間が増えているように思う。美沙ちゃんや茉莉ちゃんは何か事情を知っているんだろうか。なにか、恋の病にでもかかっていたりするのだろうか。でも、もし恋の病だとしたら、それはそれでとても面白いなと思うし、だってあの女帝愛子ちゃんが、思い通りにできない男なんていないだろうから、もしほんとに恋の病だったら、愛子ちゃんにも案外かわいい一面があるなと、安心さえする。もしそうなら私は応援してあげよう。なんてったって私は、OLヒーローキャサリンちゃんだからな! がはは。
 トイレから出て手を洗うと、しまった、ハンカチは愛子ちゃんに貸したままだから、手を拭くものがない。仕方がないので高木くんのハンカチを使おうとポケットから取り出すと、一瞬人影の気配がした。やばい、ハンカチ見られた……? 振り向くと、もう誰もいない。でも、明らかにフローラルとバニラの、大人っぽく上品で、でも甘さをしっかりと脳裏に焼き付けるその匂いが、薄い雲のように漂っている。この香水は――、

――愛子……、ちゃん……?



 オフィスの窓ガラスから見える景色が、夕闇に染まり始め、ビルの白やオレンジのぽつぽつとした明かりが、まるで星空のようだな、なんてチープな比喩表現をしてみるくらいには、今日はなぜか気分が晴れていた。
 帰り支度をしていると、「水戸さん」と呼ばれたので、顔を上げると、高木くんが立っていた。
「水戸さん、今朝はすみませんでした……」
高い身長のてっぺんにある小づくりでかわいらしい顔が、申し訳なさそうにクニャと曲がる。高い鼻が少しうつむく。
「いやいやほんとに大丈夫だよ! 高木くんあの後ハンカチ貸してくれたし、ありがとうね」
彼の切れ長の目が少しゆるみ、一歩近づいてきたかと思えば、
「お詫びと言っては何ですが、今日これから、お食事でも行きませんか?」
と、彼の薄い唇からは想像もつかなかった、衝撃的な一言を放った。
「へ?」
「僕、最近いい店見つけたんですよ」
「いや、でも、ええ、」
彼は私の左肩をトン、と叩き、
「今晩は僕に任せてください。」
と、耳元でささやいた。もちろんうれしくないわけではない。でも、私の内に刻み込まれた遺伝子が、少しだけ黄色点滅の信号を出していた。
 私は爽やかな急流にさらわれるように、外に出た。



 真木ビルの十階にあるイタリアンレストラン、“ブルーバード”の窓際の席は、東京のオフィス街の光が店内の装飾と合わさり、飲み込まれそうになるほどうっとりとした気分にさせるようで、私なんかが来ても大丈夫なのかと、少しひるんだ。
「すみません突然誘ってしまって。この前取引先の人にここ教えてもらって。いいなって」
「ううん。こっちこそ誘ってくれてありがとう。高木くんって若いのに仕事できるの、すごいなっていつも思ってたよ」
「いや、周りに恵まれただけですよ。てか水戸さんも歳、僕とあんまり変わらないでしょ。」
 凛とした目元から気恥ずかしさのようなものがトロンとこぼれ、その表情から、ナイフでフォアグラを切る仕草から、すべてにこなれ感があふれる彼のその言葉は、なぜかこちらを安心させる。
「高木くんって、モテるでしょ」
「え?」
 私はお酒も入って気も大きくなり、少し戸惑わせてやろうと試みた。彼がこちらを見て、目大きく開かせる。
「だって、イケメンだし、背も高いし、仕事もできるし。完璧じゃない?」
「いや、そんなことないですよ。そういう芽衣子さんだって……、モテるでしょ」
「何よその投げやりな言い方!」
 自然と笑みがこぼれる。高木くんはまるで子犬のような笑みを浮かべて、投げやりじゃないですよ。とほほを緩ませ眉毛を困らせた。
「あ、」
「え?」
 彼が突然私の口元に手を伸ばしてきた。
「お米、口についてましたよ」
「ああ、あ、あ、ありがとう」
「あと、また芽衣子さんだなんて、すみません」
 やばい。この人、かわいいし、…………かっこいいし、もしかして、水戸芽衣子二十五歳独身ワンルーム住み、新たな恋の予感なのか? 今までさんざん、悩める男の右手だと言われてきた私が……? 幸せになってもいい順番が回ってきたのか……!? ――なんてな。
「いや、大丈夫だよ。大丈夫。私も下の名前で呼ばれた方が、なんていうかその、楽だし」
「そういえば芽衣子さん、僕もう一軒いい店知ってるんですけど、よかったら行きませんか?」
 妙な説得力を持った彼の、血管の浮き出た前腕が、ゆらりとグラスをつかむ。知っている。私はこのやり口を知っている。違う店っていうのは大体ラブホテルで、ホテルの前で休憩か、トイレを申し出てくるのだ。さしづめ、私がトイレに行っている間に近くのホテルでも調べていたのだろう。高木め、やはり男の子だな……。――――でも、ほんとに違う店だったら? おしゃれなバーとか、確かに私もたまには仕事仲間といっぱい飲みたいし、高木くんなんて女に困ってないと思うし……。ただ、本当に飲みたいだけなのかも……。私が普段からののしっていた頭の緩い女たちも、こういった戸惑いの中で、己の葛藤と戦っていたのだろうか。
「店の前まで行ってから考えてもいい?」
「全然いいですよ! うれしいです!」
 彼は長い前髪の先を払うように頭を動かし、切れ長の目をポメラニアンのように輝かせた。



 繁華街を抜け、駅につながる大きい道路を横断する。煌びやかな看板の群れが姿を消し、少しの罪悪感を孕んだビルの集まるブロックへと入っていく。
 彼はその中の一つのビルの前で立ち止まり、私の肩まで右手を回した。
「ここですよ、入りましょう」
と、いつもと変わらぬトーンでそう言った。目線の高さに水色の看板があり、“ブルーオーシャン・宿泊一万~。休憩五千~。”と書いてある。
「ねえ、ほんとにここ?」
彼は「そうです」と笑顔で答えた。黒のスーツの隙間に、街灯に照らされたネクタイピンがきらりと光る。薄い唇がにっこりと笑う。肩をつかまれているから彼との距離も近く、その分、淡い石鹸のような香りと、ムスクの甘い香りが、私の脳を刺激する。ああ、私は今、彼に捕まっている。あんなにかわいい笑顔で、爽やかな口ぶりで、私をだました。でも彼になら……、今日ぐらい……、脳みそが揺れる。私の右肩に触れている、彼の手が気になる。華奢で長い指。広い手のひら。もう少し、近くで触ってみたいかもしれない。
 そのまま、まるで寄生されたハラビロカマキリが、自分の意識とは関係なく水辺へいざなわれるように、私たちはビルへと吸い込まれた。
 ホテルのソファに座っていると、彼が肩を抱いてきた。私の顔を覗き込むようにして話しかける。
「僕、前から芽衣子さんのこと、かわいらしい人だなって思ってたんですよ。気づいてました?」
「ほんとに? 高木くん、その言葉今まで何人の女性に言ってきたの」
ああ、顔が近い。股間の奥底が熱く、その熱が放射状に体を巡り、もう喉元まで登ってきている。
「今日が初めてですよ」
彼は私の耳元でそうつぶやく。もう我慢できない。
「うそばっかり」
そう言うと私は強引に、彼の唇にむしゃぶりついた。彼は少し驚いていたが、すぐに私の舌を受け入れ、胸を揉んだ。彼の唾液に絡まる舌を感じるたびに、脳髄から、甘ったるく熱い快楽の液体が、ズルズルと降りてくる。それが子宮に達する瞬間、私の身体は意図せず小刻みに反応し、呼吸も荒くなる。恥ずかしい。恥ずかしいけど、もっと、もっと欲しい……。
「ベッド行きましょう」
 彼がそう言い、私の肩を抱きあげた。彼もきっと酩酊してる。だって、男のほうがこういうことって、したがるでしょ? 私だけじゃないはず。
 彼が私をベッドに押し倒すと、一瞬キスをされ、服を一枚一枚脱がされる。彼のそれが肥大化していき、私のそこに、布越しに、少しだけあたる。ああ、はやくして、お願い、と、情けない表情を見せてしまう。
 黒いブラのフロントホックが外され、ピンク色の恥ずかしいところが露わになると、彼はそれを嘗め回した。瞬間、胸の突起からの直射的な快感が、脳と股間を刺激する。思わず体をくねらせてしまうと、彼がもう片方の手を、私の股間にあてがった。パンスト越しに割れ目に沿って、さらさらと撫でるだけ。
「お願い……、もっと……、触って」
 我慢できずに彼の手を、私の股間に強く押しあてる。
「ああ……、」
 足を大きく開くと、彼もそれに合わせて激しく擦る。蒸れたパンストから汁がにじむ。たまらず腰を動かすと、彼の手がパンツの中に入ってきた。細く艶めかしいそれが、私のヌルヌルになったあそこに食い込むと、私の突起を淫乱にしごく。
「あ、だめ、だめ」
震える私の身体に寄り添い、喘ぐ唇に彼が舌をねじ込む。声も出せない。ただただ快楽に溺れる。好きでもない人のそれに、屈服する。これが、女なのか。
 下も全部脱がされ、私のドロドロになった穴に、人差し指と中指が挿入されると、それが上下に動かされる。クチュクチュと、卑猥で恥ずかしい音が鳴る。子宮から何か、私にとって特別だったものが溢れてくる。
「僕のこと、好き?」
 乱れる呼吸と快楽の中で、最善の言葉を必死に探り出す。でも、もう、むり、いく、いってしまう……! 一瞬にして全身に力が入る。その時、
「まだダメだよ」
手が……、止まった……。
「なんで、」
 行き場を失った強烈なオーガズムが、私の身体中で暴れまわり、高熱と共に心臓と脳を蝕む。気が狂いそうなほどの欲求と苦悶に襲われる。
「僕のこと、好きって言ってくれたら、つづきしてあげる」
 彼は濡れた指を上にして、私に覆いかぶさる。
「なんで……、はずかしい……」
「じゃあダメ。もう触ってあげない」
 彼は意地悪に微笑む。なんで、なんで……。
「すき! だいすき! 高木くんのことが、だいすきです!」
「そう、いい子だね」
 彼は私の頭を左手で撫で、
「ご褒美あげるよ」
と、パンパンに腫れあがったあそこを露出させた。
 私の足を両手で広げ、ゆっくりとそこにあてがう。先っぽがぬるぬると、私の突起に擦れる。
「入れるよ」
 その瞬間、彼のあそこが私の穴を押し広げて入ってくる。ああ、大きい、気持ちいい。彼のそれで穴は掻き回され、ふたりの音だけが、部屋中に鳴り響く。このまま溶けてしまいたい。溶けて、もっと彼と混ざり合いたい。
「すき! 高木くん、だいすき!」



 さっきあったことはすべて忘れたくて、一度家へ帰って変身して、すぐまた夜の街に飛び出した。時計を見ると十一時三十分。ふとした瞬間にさっきのことがフラッシュバックして、恥ずかしさと情けなさで狂い死にそうになるから、酔いが醒めないようにエビスビールを片手に持っている。そうだ。私はもう芽衣子じゃない。今からはキャサリンよ。かっこいい女は適度に火遊びするものよ。そう、あれは火遊び。高木くんのベッドでの言葉が、私の頭の中でごちゃごちゃに飛び交う。それを、おもちゃ箱の中から、一番お気に入りの飛行機を探す男の子のようなやり方で、私は彼のある言葉を探していた。

 やっぱり、私は、高木くんのことが…………。

 絡み合った糸の玉をほどきながら、中心にある本当の自分の気持ちを探りつつも、その核心には触れたくない。自分の醜さに気づきたくないし、なによりもうこれ以上、傷つきたくない。おもちゃ箱には、うっすらと亀裂が入っているようにも見えた。
 今日の飲み屋街は人通りが少なく、店の看板だけが張り切って、ピカピカと通りを照らしている。
 ふと路地裏に視線を向けると、背の高い男の子にしがみつきながら泣きじゃくる女の子がいた。
 私は三分の一ほど残ったビールを一息に飲み干し、ワイン専門バー・バレルの扉を開けた。
 淡い暖色の裸の電球がいくつも連なりカウンターを飾っている。ワインセラーがカウンター奥とテーブル席の壁側にあり、カウンター席とテーブル席の間には大きな蛇口のついた樽が二つと、季節のフルーツが漬けてあるサングリアの瓶が四つ、煌びやかに鎮座している。上質な赤ワインに漬けられたオレンジの輪切りに、小さく可愛らしいベリーたちが照らされている。なるほど、今はいちごやびわが美味しいのか。せっかくなのでいちごのサングリアと、生ハム二種盛りを頼んだ。
 待っている間に周りを見渡してみると、そこそこ広い店内にちらほらと客が入っていた。
「コウくん、もう、こうして話すの、何回目なんだろうね」
 近くのテーブル席が、何やら香ばしい。少し様子を見てみよう。
「うん。でももうこれ以上一緒にいても、僕ら二人にとって良くないと思うんだ」
 コウという男のほうから別れを切り出しているのか、女性のほうより数段落ち着いて見える。センター分けの黒髪、薄茶色の柄シャツに黒のスラックスを履いている。
「やっぱりコウくんは、最初から私のことなんて好きじゃなかったの、どうせ私よりかわいい子なんていっぱいいるし、もう二十五歳でコウくんより年上のばばあだし、」
 二十五はばばあ……! 二十五はもうばばあなの……!? 女性は肩まである栗色の髪をかわいらしく巻いており、淡いピンクのワンピースを着ている。さっきから、かなりの量の赤ワインを飲んでいる。
「ちがうよ、ほんとに好きだったよ! いつもそういう風になるのやめてくれよ……!」
 コウの、ほんとに好きだった、という言葉を聞いてから、女性は何かを噛み締めるように泣き始めた。ちゃんと愛してもらっていたのに、それに気づけなかった、過ぎる時間が二人を引き離し、もう、二度と戻れないかもしれないところまで来てしまった。そういった涙に、私はみえた。
「そ、そうだよね、私が悪かったの、今日だって……、でも、久しぶりに二人で居酒屋とか、来れて楽しかった。私今日楽しみにしてたんだ」
 女性は涙でぐしょぐしょになった口角をにっこりと上げた。
「ごめん……。」
 コウは苦しそうに俯く。
「みそらさん、今まで本当に好きでした。でも、でも、もう、やっぱり別れましょう」
 そう言うとコウは、店を出て行ってしまった。
 テーブル席に一人残されたみそらは、うつ伏せになったまま動かず、静かにすすり泣いていた。
「……あの、みそらさん、私と一緒に飲みませんか?」
 私が声をかけると、え? と顔をあげた。くっきり二重の瞼に、ぱっちりした目と小づくりな鼻がかわいらしい女性だった。
「――なんで私の名前知ってるの……?」



「結局男なんて、若くて可愛くて身体がえろけりゃ誰でもいいのよ! そんな男たちに限って釣った魚には餌をやらないし、自分は他の女に目移りする癖に、私がちょっと遊んだだけで鬼の形相で怒ってきて、じゃあ私をそこまで大切にするのかって言ったら全然そんなことはない! いっつも家に呼び出す癖に私の家には全然来ないし、結局独占欲なのよ! そこに愛なんてなくて独占欲。それだけなのよあいつらは。クソだよクソ……。でも、そんな奴らに限ってお話が上手で、優しくするのがうまくて、結局好きになってしまうんだけどなぁ~……」
 みそらさんは肩を少し上げて、自虐的な笑みを浮かべながら赤ワインをゴクンと飲みほした。
「それすっごくわかります! なんでクズ男って、あんなに魅力的なんですかねぇ~~…………。てか、みそらさん絶対モテるでしょ! 可愛いんだしおしゃれだし、過去の男なんて思い出ですよ、いいじゃないですか! 今度は新しい恋ですよ! 絶対そんなクズばかりじゃないですし、クズじゃなくてかっこいい人もいますよ!」
「むり! むりむり! もう私疲れたわ。私たぶん恋愛に向いてないし、付き合っても依存しちゃうし、私よりかわいい子なんていくらでもいるし、クズ男ばっかりに選ばれるし。いい人は私を選んでくれないのよ……」
 そう言い終わるとみそらさんは、あと、同い年なんだしため口で、みそらでいいわよ。と、大きな目を細めた。目尻のグリッターがキラキラと光る。
「私、もう一生誰にも愛されない気がする。今までだって愛の形をした何かに、騙され続けてきたし、ううぅ~~……」
 テーブルに頬っぺたをくっつけて、今にも泣きだしそうにわかりやすく絶望を感じていた。
 みそらさんのような恋愛しかできない人は、今までも何人か見てきたし、彼女らの相談にも何度か乗ったことはあるが、私はいつもなんて言っていいかわからなくなる。確かに愛に飢えてしまって、もう、この世の誰も自分のことなんて愛してくれないんじゃないのか、とか、好きな人からうまく愛を受取れなかった時の、わがままな絶望の味は、淹れたのを忘れて二日ほど放置してしまったダージリンより苦いし、つらいし、苦しい。でも私たちは、確かに今は誰かの特別な人ではないかもしれないけど、振り返ってみれば、私たちだって誰かの特別な人だった。誰かの一番だったし、その人はきっと、どんな形であろうと、私たちを忘れていない。私たちは、今も誰かの頭の中で、生き続けている。だからそこまで、寂しがる必要など、ないのかもしれない。
 私は殻の向かれた生エビをフォークで刺し、白熱電球の光にあてた。優しい黄色の光に照らされた身は、血の気なく透き通って、そのエビが生きていた頃の記憶なんて、故郷の海に置いてきたようだった。
「みそら、エビは好き?」
「え?」
 彼女は拍子抜けしたようにこちらを見る。
「ほら、エビってこうやって腰を曲げて、ピョン、ピョンって、まるで誰かに謝っているみたい」
「急にどうしたのよ」
「恋愛に向いてるとか向いてないとか、あの子はブスだとか、かわいいとか、いったい誰が決めたのかな、みーんなそんなことばっかり気にして、まるで誰かに向かってエビみたいに、ぺこぺこ謝りながら、生きてるみたい」
 ついこの前まで弱気だった私の人生の断片が、目の前に現れては、シャボン玉のようにはじけて消える。それは中学時代のエリカとの出来事や、過去の男たち、愛子ちゃんや豊島課長だった。はじけて消える瞬間、私は報われる気がした。透明のエビがシャボンの浮かぶ空中を跳ねて、私もそれに合わせて踊る。黄色のフリルがさらりと靡く。ああ、なんて残酷で美しい。いたいけな子エビちゃんたちと、暗く恐ろしい、海の世界。
「でも、そんなこと言ったって、みんなそうだし、実力が伴ってないのにそんな堂々としてたらバカみたいじゃない? 第一私はそんな能天気になれないの。無理なの。結局女は選ばれなきゃダメなのよ。みーんなショーウィンドウに並べられて、無理してポーズとって生きてんの」
 みそらはその繊細な指先で私のタバコを咥え、火をつけた。悲しげに虚ろな瞳が、これまで彼女に起こってきたであろう不幸を物語っている。
「……ねえみそら、ちょっと夜風にあたりましょうよ!」



 夜の東京は温かい。きっと、いろいろな悩みを抱えている人々が、夜でも電気をつけたままで、同じように悩める人々を待っていてくれているのだと思う。だからしんどくなっても、お酒を片手に河川敷などに出ると、マンションやビルの明かりなどで、少し和らぐ。
「みそらはさ、真面目なんだよ」
「そうなのかな」
 みそらは缶ビールを一口飲むと、ふう、とため息をついた。私もみそらも、綺麗なスカートなんて気にせず、川べりの土手に座り込んでいる。
「そうだよ。まじめで一途で、愛の渡し方を知ってる。素敵な女の子だよ」
「あはは、ありがとう」
 みそらは座りなおして、腕を伸ばした。
「私ね、いつもメンタルがやられるとさ、自分の悲しみに飲み込まれてしまうというか、必要以上にネガティブになってしまうの。それで周りの人たちを困らせてしまうのね。たぶんそれで、今回も彼氏に愛想を尽かされたの。…………やっぱり変わらなきゃだめなんだよね。じゃなきゃ私、本当に独りぼっちの、悲しい人になっちゃう」
 みそらはへへっと口角を上げて、ビールを一口飲んだ。
「みそらなら変われるよ。たぶんそうやってがんばってると、いい人にも巡り合えると思う」
「うん。ありがとう」
 みそらは腰を上げ、伸びをする。
「じゃあ、またね、お話しできて楽しかったよ。また連絡してね」
「うん。またね。みそら」
 人びとの悩み事が吐き出され、東京の川に流されていく。そんな暗くて綺麗な河川敷を、切り裂くようにして電車が通った。あれはきっと終電だろうか。私たちの悩みも、少し川に流しておいたから、明日からは少し体が、軽いかもしれない。
 みそらは、そういえば名前聞いてなかったね。と笑った。キャサリンって覚えておいて。と言うと、なにそれ? おかしい。と、私たちは笑い転げた。

「みそらさん!!!」

 その時、遠くから声が聞こえた。
「え? うそ、コウくん……? なんで……」
「ごめん、やっぱり、みそらさん以上に、僕を愛してくれた人なんていなかったんだ。だから、」
「ううん、私も、私こそごめんなさい。コウくん……、私、」
 水面に、夜のとばりが落ちていく。二人の長い影が歩き出し、まるで一つの船のように、川を渡ってゆく。街の明かりがぽつぽつと消えてゆき、もう、みそらたちは見えなくなってしまった。なんだか、胸の奥が温かいような、でも、少し寂しいような。私も、そろそろ歩き出さなくてはいけない。ふと、高木くんのことを考えてしまった。私がバーに入る前、散々探していた高木くんの言葉を、今ならはっきり視認できる。

 高木くんは、私に好きと、一度でも言ってくれていたかしら。

 いや、いいんだ。私はこれでいいんだ。街も静かな午前零時。私は一人で、家に帰った。またね、みそら。幸せになってね。


 *


 それから、私は神木先輩と様々なところへデートに行った。私はどこだろうと先輩と一緒なら楽しかったし、エリカたちとのいじめの罪悪感も、先輩といるときだけは忘れることができた。
 ある日、テニス部の中である噂が立った。
「神木先輩って、彼女いるらしいよ」
「えっまじで!?」
「うん。男テニの青先輩が言ってた」
「どこの子!? うちの学校!?」
「ん~、なんか他校の女子で、先輩の一個下らしい」
「は? うちらと同い年じゃん!」
「いいなぁ~その子」
 テニス部の女子更衣室で初めてその噂を聞いた時、胃の奥底がめくれ上がるような、強烈な吐き気がした。練習着のままグラウンドとは真逆の、人気のない理科室の前にあるトイレまで走り、生まれて初めて、ノロウイルス以外の原因で吐いた。来週には、先輩のお家でデートする予定だった。
 デート当日、私は先輩に何を言われても、上の空だった。一緒にスプラトゥーンをやっても、ゴッドイーターをやっても、まるで楽しくなかった。でも先輩は、私のそんな素振りなど、まったく気に留める様子もなかった。夕方、先輩は私に告白した。
「俺、水戸と一緒にいると楽しいし、なんか、守りたくなるっていうかさ……」
 彼の言葉の端々から、自信がにじみだしているように見えた。
「でも、先輩彼女いるんですよね……?」
「わたし、無理です。ごめんなさい」
 私が涙ぐみながらそう言うと、神木先輩は、なんでなんだよ! と、大声で怒鳴り始め、私を押し倒した。
「ふざけんな!! お前なんて、お前なんて歩くオナホールだろうが!!」
 私は泣き叫びながら、やめてください! と連呼し、先輩の腕にかみついた。あんなに美しかった先輩の右腕から、鉄棒の味があふれだした。
 私は水戸芽衣子。二十五歳。また来週。

しおり