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固まる決意

仕事は山積みだった。

最優先のタスクをこなしていたものの、就業時間になっても終わる目途が立たない。

「お疲れ様でした~!お先に失礼しまぁ~す」

私のことを横目にあざ笑うような表情で通り過ぎていった進藤さん。

ダメダメ。今は仕事に集中しなくちゃ。

ドライアイが悪化してパソコン画面が霞む。

目薬を差し、栄養ドリンクを飲みパソコンに向かい合っていると、

「これ、あたしが入力します」

デスクの上にあった書類を篠原さんが手に取った。

「でも、もう就業時間過ぎてるから――」

「たまには頼ってください。さっきも言いましたよね?」

「……じゃあ、お願いしてもいい?」

「もちろんです!あたし、入力だけは早いので!」

「助かる。ありがとう」

篠原さんは小さく頭を下げて自分のデスクに駆けていく。

そういえば、流川にも言われてたなぁ。もっと周りを頼って仕事を振れって。

今考えれば私は全てを自分で抱え込もうとしていた。

限界なのに限界だと言えずにいたのかもしれない。


「ありがとう、篠原さん!本当に助かりました……!」

時計の針が午後10時を回った頃、ようやくやるべき仕事が終わった。

「遅くまで付き合わせてごめんね。今度何か美味しい物ご馳走するね」

「そんなのはいいんです!でも……」

「でも?」

「今度、あたしの彼氏の話、聞いてもらってもいいですか……!?」

「そんなのもちろん全然いいけどそんなことでいいの?」

「はい!!実は、あたしの彼氏課長なんです!」

「……え」

開いた口が塞がらない。課長は独身だし、人柄も柔らかくて良い上司だ。

だけど、彼の年齢は確か――45歳だったはず!!

「あたし達、12歳差なんです。だから、佐山さんが大学生と付き合ってるって聞いてすごく親近感が湧いちゃって。あたし達もあたしが大学生の時から付き合ってるんですよ」


「12歳差!?」

すごい!上には上がいたもんだ……!!

「はい!まだ社内の誰にも言ってないんですけど、近々結婚したいと思っていて」

「そ、そうなの!?」

篠原さん、社内でも可愛いって人気だったのにまさか課長と付き合っていたなんて。

どうして課長が進藤さんになびかなかったのかその理由も今ハッキリと分かった。

うん。よくよく考えれば二人はお似合いだ。

人生ってものはいつなにが起こるのか分からないものだ……!


「お疲れ様でした」

「お疲れ様!ありがとね!!」

フロアから出て行く篠原さんの背中を見送った後、私は荷物をまとめた。

会社を出たら真っすぐ猫塚くんの家に向かうつもりだった。

きちんと向かい合おう。そして、本音で話そう。

あのことも……全部打ち明けてみよう。もう隠し事はしない。

ありのままの私を彼に見せると決めた。

そのとき、静まり返ったフロアに誰がか入ってきた。

「まだいたのか?」

それは出張から戻ってきた流川だった。

「お疲れ。今帰るところ」

「そうか。ていうか、お前目腫れてない?」

「うん。ちょっとね」

「昨日のあれか?」

「……うん」

正直に頷くと、流川が「ごめん」と小さく謝った。

「お前と彼氏の仲を無理矢理裂こうとしたつもりはなかった」

「分かってるよ」

流川はそんなことをする男じゃない。

「ねぇ、流川。私は流川のこと同期としてすごく尊敬してる。誰よりも仕事ができるし、口は悪いけど言ってること大体当たってるし。悔しいぐらいに完璧だし」

そこまで言ってから私は決意を込めて流川の目を見つめた。

「だけど、私は流川とは付き合えない。私は猫塚くんが好きなの。その気持ちは絶対に変わらない」

「佐山……」

「諦めないって言ってくれたけど、私は流川に心変わりしない」

だから、流川は私じゃない誰かをまた愛してあげて。そしてその誰かに愛してもらって。

流川には幸せになってほしい。

「俺はお前のそういうところが好きだった」

「え?」

「仕事はできるのにバカで鈍感で不器用で変な女」

「やっぱりそれ私のことだったの?」

「当たってるだろ?」

「もっと違う言い方あるでしょ」

「それがお前のいいところだよ」

流川はフッと笑った。その笑顔につられて私も笑う。

「俺、入社式の日からお前のこと意識するようになった」

「そうだったの?」

「自分だって精いっぱいなくせに、困ってる奴がいるとすぐに声かけてさ。いつからかお節介バカのお前から目が離せなくなってた」

あぁ……確かに言われてみれば入社式の日にストッキングが破れてしまった子がいた。

困ったようにしていたその子に『私、替え持ってますよ』と声をかけた。

それが京子だったりする。

「一見するとモテそうで男遊びしてそうなのに実は純粋で男に免疫がないお前から目が離せなくていつの間にか好きになってた。いつお前に言おうかって悩んでるうちに大学生に取られるとか……俺もバカだな」

「ごめん、流川……」

「謝るなって。お前の気持ちはもう分かったし。俺も諦めて先に進む」

「うん……。お互い、幸せになろう?」

「だな。これからはライバルってことで」

「えー、手加減してよね!?」

「それは出来ない」

「そういうところ頭固いんだから!!」

「お前も俺とそんなに変わんねぇだろ?」

流川、ありがとう。私の為にきっと普段と変わらぬ態度で接してくれているんだよね。

流川にはきっといつかいい彼女ができるよ。そして、結婚して子供も生まれて幸せな家庭を築ける。

流川ならきっと――。

「それと、この間の広川コーポレーションの書類ミスの件だけど」

「うん」

「あれ、やっぱり進藤だ。アイツが金額を書き換えてた」

「え……」

「それに、今日佐山ミス連発しただろ?」

「なんでそれを……」

「アイツ、お前のパソコン勝手に弄ってデータ書き換えてる。昨日、俺達が出張にでてる間に進藤が会社に戻ってきたって話を課長に聞いた。多分、そのときにお前に嫌がらせするためにデータを書き換えたんだろ」

「嘘。だけど、私のパソコンパスワードが――」

そこまで言ってハッとする。パスワードは忘れないように自分の誕生日に設定してある。

進藤さんなら私のパスワードを知っていてもおかしくはない。

「パスワードは複雑なものにすぐに変えた方がいい。明日、アイツに直接問いただす。悪いがお前はこのまま黙っててくれ」

「でも……」

「俺一人の方が解決しやすいし、悪いようにはしない。分かったな?」

「うん……」

流川の言葉に私は小さく頷いた。

「よし。話は終わった。さっさと彼氏のとこいけ。で、ちゃんと仲直りしてこい」

ポンッと流川に背中を押される。

「流川……」

「頑張れよ、佐山」

「……うん。行ってきます!!」

私は笑顔で流川に手を振ると、会社を後にした。


猫塚くんのもとにもうスマートフォンは戻っただろうか。

一橋さん……猫塚くんのマンションにまだいるのかな……?

【今から家に行きます。ちゃんと話し合いたいです】

ラインを送ってみたものの反応はない。

気持ちがどんよりと重たくなる。

でも、ここで挫けるわけにはいかないと心を奮い立たせる。

こんな風に彼氏のことで思い悩んだりしたこと、今までにあっただろうか。

彼氏の言葉に一喜一憂したり、気持ちがすれ違って涙したり……。

こんなの初めてだ。自分が自分じゃないみたい。

猫塚くんと出会って私は少しだけ変われた気がする。

猫塚くんは私にたくさんの初めてを教えてくれた。

マンションに向かう途中、私は母に電話をかけた。

「もしもし、お母さん?私だけど」

『玲菜?どうしたの、こんなに遅く』

「ごめん、突然。でも、今どうしてもお母さんに話しておきたいことがあって」

『うん。何?お見合い受ける気になってくれた?』

「お見合いは受けないよ。私、彼氏がいるから」

『それは聞いたけど―-』

「彼、今大学生の21歳なの。私より6歳年下」

『6歳年下!?あ、アンタどこでそんな若い子を引っかけたのよ!?』

「引っ掛けたって言い方やめてくれる?」

母の反応は普通かもしれない。27歳の女と21歳の大学生の男が付き合うっていうのはそれぐらいの驚きがあってもおかしくはない。

「結婚も出産も何もかもまだ分からない。未定です。でも、私は彼が好き。彼以外の人とお見合いをする気は一切ないから」

『玲菜……』

「だから、今はそっと見守ってほしい」

本心を口にすると、なんだか心がスッと軽くなった。

母は黙っている。呆れているんだろうか。それとも、失望してる……?

『そう。分かった……。お見合いの話は断っておくよ』

意外にも母は落ち着いていた。

「ありがとう、お母さん」

『なんか初めてだね。玲菜が好きな男の人の話をするなんて』

「ふっ、そうかもね。今回は本気なの。ていうか、初恋かも。こんな年になって情けないけど」

『まったくしょうがない娘ね。まあその男性とうまくいくように頑張りなさいよ』

母はそう言うと、電話を切った。

私は「よしっ!!」と自分に気合を入れ直すと、再び猫塚くんのマンションを目指して歩き出した。

マンションの前に着き、エントランスに設置してある機械で部屋の番号を打ち込み呼び出しボタンを押す。

でも、中から反応はない。

まさか、猫塚くん……一橋さんと一緒にいるからって居留守つかってる……?

いやいや、そんなことするはずがない。

だとしたら――。そこでハッと思いつく。

「今日、バイトかも?」

この時間、猫塚くんがバイトに入っていてもおかしくない。

私はすぐさま踵を返して猫塚くんのマンションに背を向けると、今度はコンビニを目指して歩き出した。

「いない……」

ぐるりとコンビニの中を見渡したものの猫塚くんの姿がない。

だとしたらどこにいるの……?

コンビニを飛び出して途方に暮れる。

また猫塚くんの家に行ってみようか……。

でももうこんな時間だし……――。

時計の針は23時を回っている。

だけど、じっとしていられない。猫塚くんに会いたいというその強い想いだけが私を突き動かしていた。

「――いいじゃん。すぐそこだからちょっとうち寄ってきなよ?」

彼のマンションへ再び足を向けた時、数メートル先におぼつかない足取りの女性の後姿を捕えた。

男が彼女の体を支えるように歩いているものの違和感を覚える。

もしかして酔ってるの……?大丈夫かな……。

いぶかしく思いながら通り過ぎようとしたとき、ハッとする。

そこにいたのは顔を真っ赤にした一橋さんだった。

「ど、どうしたの?あなた、顔真っ赤よ?」

「あぁー、佐山おばさんじゃん!!」

彼女からお酒の匂いが漂ってくる。泥酔しているのか目の焦点は定まらずうつろな目を私に向ける。

ていうか、今、佐山おばさんって言った!?

「ちょっと、こんな時間に何してるの?」

「えー、別にあたしが何してようが関係ないでしょ~?」

「関係ある!!あなた、猫塚くんの高校時代からのお友達でしょ?」

それに――。チラリと彼女を支えていた男に目を向ける。

「あの、あなたは?」

男に尋ねると、一橋さんが私と男の会話に割って入った。

「アプリでマッチングしたから会って一緒にお酒飲んでたの。悪い~?」

「初対面ってこと?」

「そうそう。おばさんにはわかんないでしょ~?」

「なんとなくわかります!!」

悪態をついてくる彼女の腕を私はガシッと掴んだ。

「何だっていいけど、あなた猫塚くんに会いに行くんじゃなかったの?」

もう立っているのもやっとの状態の彼女。どれだけ強いお酒を飲まされたんだろう。

もしもこの男が意図的に飲ませたんだとしたら……。

「もういいの。あんな男しらない!」

「何をヤケになってるの?」

「佐山おばさんには関係ない!ほっといて!!ねぇ、早くおうち連れてって~?」

「えっ。マジ?うち来てくれんの?」

私の腕を振り払って、チャラチャラとした男の腕に自分の腕を絡ませて歩き出す一橋さん。

男の下心丸出しの目を見た私は再び彼女の腕をガシッと掴んだ。

「初対面の男の家にこんな状態で遊びに行くな!!このバカ女!!」

怒鳴りつけた瞬間、彼女は目を見開いた。

「こんな時間に泥酔した状態で行くなんて何やってもOKですって言ってるようなものでしょ!?あなたは頭もいいし顔だって可愛いし、何よりまだ若い!!自分を安売りするのはやめなさい!!」

私の言葉に一橋さんが唇を震わせる。

「なんで……なんであたしが怒られなくちゃいけないのよぉ!」

私達のやりとりを見つめていた男は「なんかめんどくせぇ……。俺、帰るわ」と言って逃げ出していく。

「アンタなんて大っ嫌い。大っ嫌いなんだから……!!」

一橋さんは口では私を罵りながらも体を震わせていた。

「まったく。私のことは嫌いでもいいけど、自分のこともっと大切にしなさいよ」

「うるさい、バカ!!」

「はいはい。バカでも何でもいいけど落ち着いて?」

私はシクシクと涙を流す一橋さんをギュッと抱きしめて背中をポンポンッと叩いた。

結局、私は彼女をその場に残すわけにもいかずタクシーで家まで送り届けることにした。

家に着く頃には彼女の酔いは冷めはじめ、自分のしようとしていたことを客観的にみられるぐらいまで冷静になっていた。

「あの……」

ぼんやりと窓の外を眺めていると、彼女が申し訳なさそうに声をかけてきた。

「色々ごめんなさい……」

「謝らなくていいけど、何があったの?」

あそこまで泥酔したにはきっと理由があるはずだ。

「昨日、あたしこうちゃんに……フラれました」

「え?」

「佐山さんに話したことも……本当は全部嘘なんです。あたしがこうちゃんと付き合う可能性なんてずっと0%だったんです」

目に大粒の涙を浮かべながら顔を歪める一橋さん。

「ど、どういうこと?」

「昨日、こうちゃんの家に行ったって言うのも、Hしたっていうもの……全部私の嘘です」

「なんでそんな嘘を……?」

一橋さんは全てを話してくれた。

昨日の夜、一橋さんは偶然一人で居酒屋から出てきた酔っぱらった様子の猫塚くんを見つけた。

支えは必要ない、一人にしてくれと頼む猫塚くんの言葉には従わずに介抱しながら歩いていたときに私と流川を見つけて猫塚くんに『こうちゃんの彼女が男の人といた』と言い、路地裏まで私達を追ってきたらしい。

そのあと、一橋さんは猫塚くんのことを追いかけて『好きだ』と告白したらしい。

私よりも自分の方がずっと猫塚くんのことを大切にできる……そう伝えた。

でも、猫塚くんは彼女の告白をきっぱりと断ったらしい。

「本当はスマホも……こうちゃんが酔っぱらってるのをいいことに……あたし、歩きながらズボンから盗ったんです」

「え……?どうして?」

「ロックかかってたから何もできなかったけど、こうちゃんのスマホ使って佐山さんとの仲壊してやろうって思ってた」

「そうなの……?すごい怖いことかんがえてたのね……」

今の大学生ってこんな恐ろしいことをするものなの……?

なんだか背筋がゾッとする。

「あたし、どんな手段を使ってもこうちゃんを手に入れたかった。それぐらい好きだったの。でも、こうちゃんの目に映ってるのは佐山さんで。あたしのほうがずっと前からこうちゃんのこと見てたのに。だから悔しくて……。でも、やっぱりスマホ盗んだりそんなことしちゃいけないって思って……それで佐山さんの会社に行ったんです」

「え?じゃあ、猫塚くんのスマホを私に渡そうとして会社に来たの?」

「はい。こうちゃんにスマホを返しにいくのもなんか怖くて。だから、佐山さんに返してもらおうって思ってたんです。でも、佐山さんの会社の綺麗なお姉さんに佐山さんが会社の男と遊びまくってるって話を聞いて……。許せなくて……。どうにかして佐山さんとこうちゃんの仲を壊せないかって考えたんです。あたし、最低な女なんです……」

「一橋さん……」

「それなのに、佐山さんはすごく大人で今だってこんなあたしのことを見捨てずにタクシーで送ってくれるぐらいいい人で。こうちゃんが好きになる気持ちも悔しいけど分かっちゃって。だけど、やっぱり悔しくて。それで、それで……」

可愛い顔が台無しになってしまうぐらいぐちゃぐちゃな顔をした一橋さんはバッグの中から取り出したスマホを私に差し出した。

「これ、こうちゃんに返して下さい。さっき話したこと、こうちゃんに言ってもいいです。あたし……それぐらい最低なことをしたから。本当は自分の口から謝ろうと思って一日、こうちゃんのこと探し回ったんです。でも、マンションにいってもバイト先に行ってもいなくて……。多分、佐山さんの家じゃないかな」

「えっ?うち?」

「こうちゃん、昨日佐山さんと男の人がキスしそうになってる場面目撃した後、すごい落ち込んでて。『彼女が他の男と浮気してるのを見たから』だと思ってたんです。でも、違った。こうちゃんはあの場で逃げ出してしまった自分を責めてたんです」

「っ……」

「一瞬、自分よりあの男の人の方が佐山さんを幸せにできるかもしれないって考えた自分が嫌だったって。こうちゃんも佐山さんも互いに遠慮しすぎなんですよ。言いたいこと言い合わないと」

「そうだね」

「お互い好き同士なんだから年齢とかそんなの関係ないでしょ!?二人がうまくいかないと、あたしがこうちゃんを諦めた意味がなくなっちゃう!」

一橋さんは目に浮かぶ涙をぐっと手の甲で拭った。

「なんか佐山さんと話してこうちゃんへの未練が立ち切れたような気がします。あたし、まだ若いし可愛いですよね?絶対こうちゃんよりいい男見つけますから!!」

タクシーが彼女の自宅前に停まる。

「あ、お金……」

「いいよ。でも、もう二度と佐山おばさんって言わないでね?」

にっこりと笑って忠告すると、「今度はお姉さんって言いますよ」と言い残して一橋さんはタクシーを降りた。

不思議な子だ。あれこれ酷いことを言われたのになんだか憎めない。

ドアが閉まる。

「すみません、――へお願いします」

私は自宅の住所を運転手に告げ、深々とシートに腰かけた。

猫塚くんがうちにいるかもしれないと思うだけで胸が高鳴る。

会いたい。今すぐ、猫塚くん。会って言いたい。

あなたが好きだって。この気持ちを今すぐあなたに伝えたい――。

しおり