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第9話 こんなこと言うと自慢に聞こえるかも知れませんげへへへ

「ほい」恵比寿はどこか気の抜けた掛け声とともに、鯰の池の水面に腰から下げた瓢箪をぽんと投げ入れた。
 一瞬、水面に黄金色の波がさわわ、と沸き立ち、それはすぐに消えた。後にはゆらゆらと、水面に瓢箪が長閑な風情でたゆたう。
「はは」鯰が水中でせせら笑う。「かるっ」
「うるさいなあ」恵比寿は口を尖らせる。「でも除けられないくせに」
「ふん」鯰は水中でぷいとそっぽを向く。「鹿島っちのやつの方がずっと重いし」
「わかってるよ、んなこたあ」恵比寿は頭の後ろに手を組んで大きく溜息をつきながら、オフィスチェアーの上にどかりと腰を下ろした。「あの人のんは特別製だし」
「鹿島っち、いつまで出雲にいるの?」鯰が訊く。
「んー」恵比寿は頭の後ろで手を組んだまま、壁のカレンダーに眼をやる。「二十五日までだったかな」
「なんか、いい加減だよね」鯰はまたしても嫌味を言う。「一応会社のくせに、そんなんでいいの? 報連相」
「あーもー」さすがの恵比寿も多少苛ついてきたようだった。「黙れ魚」そう言って缶入りのハイボールを取り上げ、呷る。それはすっかりぬるまっていた。「ていうか、鹿島っちいうな」恵比寿は眼を細めて池の水面を睨んだ、それは木之花の物真似だった。「心配しなくても、お前の好きな要石(かなめいし)がすぐにまたお前を抑えつけてくれるから」
「ふん」鯰はもう一度、池の水の中でそっぽを向いた。

「咲ちゃん」室内に入るなり天津は声を掛けた。「ちょっと、エビッさんの様子見て来て」
「どうしたの?」木之花は事務室内の掃除中のようで、片手に化繊のモップを持ったまま振り向いた。「出た?」
「ああ」天津は眉をひそめた。「鯰がうろついてるっぽい」
「は」木之花は短く嘆息した。「また飲んでるのね、あの人」
「鹿島さんいないとホント気ぃ抜くよね」天津は相変わらず眉をひそめたまま腕組みする。
「いても、気ぃ抜く」木之花はスチール棚の上にモップを放り投げ、つかつかと室を出た。「ちょっと行って来る」
「お願いしゃーす」天津はその背に敬礼をし、自分もまたすぐ研修室へと取って返す。

「天津さん、急にどうしたんだろうね」結城が、はるか遠くを見透かすように額に手をかざし、実際には三メートルと離れていないドアの方を見遣る。「研修再開したかと思うと突然『ちょっと待ってて下さい』って出てっちゃってさ」
「お手洗いではないでしょうか」本原が推測を述べる。
 時中は興味がないとでも言わんばかりに無反応だった。
「すいません、お待たせしました」直後に天津がドアを開け入って来た。
「ああ、大丈夫でしたか」結城が笑顔で迎える。「間に合いましたか」
「え?」天津はきょとんと眼を丸くするが、「あ、えーと、はい」と適当に頷いた。「では、始めましょう」

 ノックもなく、ドアは開いた。
 が、その前にドアの向こうから近づいて来ていたヒールの音で、恵比寿には分かっていた。これから、何が起こるかを。ハイボール缶を口に当てたまま、眉をひょいと持ち上げる。
「お疲れ」ひとまずそう声掛けする。
「三百年前を忘れましたか」木之花は腰に両手を当て仁王立ちになって言った。「恵比寿課長」
「ごめんごめんごめん」恵比寿は笑いを顔に貼りつかせたままひとまず缶を机に置き謝る。「もうしないから」
「今、ここでまた大災害が起きていてもおかしくなかったんですよ」木之花は、先程恵比寿が鯰に向けて物真似したのと同じように眼を細めた。「始末書で済まない事態が」
「あ、うん、ふむん」
「鹿島取締役がお戻りになるまでは、恵比寿課長が鯰を抑えておく責任を担っていらっしゃるんですからね。そのことを今一度弁えていただくようお願いします」木之花の言葉は忌憚なく、真っ直ぐに恵比寿の胸に突き刺さった。
「はい。はい」
「そもそも、業務中に飲酒というのは、懲罰とか厳罰とかいう以前にあり得ないことですよ、課長」木之花は、恵比寿が机の上に置いたハイボールの缶をびしりと指差した。「人間社会においては」
「ああ、うん。はい」
「それでうたた寝した拍子に瓢箪が池から引っ張り上げられて、鯰を自由の身にさせたと、つまり職務が蔑ろにされたと、そういう事ですね」木之花は決して感情に任せて声を大にすることはしない。冷静に、怜悧に、事実をありのまま述べる。
「うん……多分」
「恵比寿課長」木之花は背を向けたまま呼んだ。「今、三人の新入社員が研修中だっていうの、ご存知ですか」
「え」恵比寿はきょとんとした。「あ、そうなの? ははー」何かに納得したかのように、池を振り向く。「それでか」
「何がですか」木之花がにこりともせず訊く。
「いや、鯰の奴それで研修の様子を見に行ってたのかと思って」恵比寿は笑顔を浮かべて木之花に答えた。「若い者がどうとかこうとか言いながら帰って来たから」
「その新人研修が行われている最中、地震ではないですが“ゴツン”というかなり大きな衝撃が、走りました。ご存知ないですか」
「うそ……まじ?」恵比寿はさすがに冷や汗を掻いた。「全然、気がつかなかった」
「では恐らく、現象が起きたのは研修室内と事務室周辺のみの範囲だったのだと思われます。が、これは明らかに、課長の職務怠慢による“鯰解放”が原因の一つと推定できます。この点については、鹿島取締役と社長に報告を上げさせていただきます」木之花は最後にそう言い、くるりと背を向けた。
「えー」恵比寿は無駄と知っていながらもひとまず懇願の声で追う。「そこ何とか頼むよー。咲ちゃん」
「よかったですね」木之花は恵比寿に背を向けたまま言った。「鯰が帰って来てくれて」
「あ、……まあ、ね」恵比寿は視線をさ迷わせた。
「でも次は帰って来ないかも知れませんよ、永久に」
「……」恵比寿は口の端を下げた。「はい」俯きそう言うしかなかった。「気をつけます」
「お願いします」木之花はその言葉とともにドアを閉めた。
 ふう。
 恵比寿は、唇をすぼめて息をつく。
「三百年前、か」机の上のハイボールをじっと見る。「忘れるわけ、ねえじゃんかよ」眼を閉じる。

「閃け、我が雷(いかずち)よ」

 それが、あの時最後に叫ばれた言葉だった。叫ばれた――誰にか。それは当時の“研修生”であり“新入社員”であった、若者だ。否、当時はそんな呼び方をされていなかった。
 ――確か“人足”とか呼ばれてたな……
 その若い男は、それを叫んだ直後、岩に呑まれた。ほんの、瞬きする間にだ。あの時も、自分の飲酒、うたた寝のせいで鯰は池から脱け出したのだ。
 だがそれが惨事の直接の原因ではないという結論になり、恵比寿は責任を問われることもなく、その身分は護られ、今に至る。それは、鹿島取締役が尽力してくれたお陰だ。恐らく皆、自分が鹿島のお陰で課長の椅子にふんぞり返ってのうのうと酒を喰らっているものと思っているのだろう。
 ――そんなわけ、あるか。
 恵比寿は小鼻に皺を寄せ唇を尖らせた。
 一日だって忘れちゃいない。忘れちゃあいないが、せめて真正面からそいつとぶつかり合うことを避けるために、今日も呑んだくれているだけだ。

     ◇◆◇

「我々のもとに、イベントの予約申請が届きます」天津はホワイトボードにマジックで書き記した模式図を指の第二関節の外側でコンコンと叩きながら説明した。「そして基本的には届いた順番に、我々が訪問してイベントを執り行います」
「一日何件ぐらい来るんですか、申請というのは」時中がいつものように先陣を切って質問する。
「そうですね、まあ大体一日に一、二件とかそれぐらいです」天津は小首を傾げる。「ぶっちゃけ、そんなに大量に需要があるわけのものでもないです」
「他にも競合会社がいるんですか」時中の質問は続く。「同業他社が」
「――はい」天津は考え深げにゆっくりと頷く。「けどまあ、実質うちがその道一番の専門業者といえると思います」
「というと」時中が顎をつまむ。「他社はそのイベントの専門ではなく、言葉は悪いですが“もののついで”にイベントまでやっている、という形ですか」
「はい」天津は頷く。「イベントにかかる力においては、うちが他社に劣ることは決してないです」

     ◇◆◇

「新入社員か」恵比寿は再び、ぬるまったハイボールの缶を取った。「今度ぁ、俺は会わない方がいいな……」独り呟く。
 そう、下手にかかずらわって、下手に情なんか沸いた日にゃ、たまったもんじゃない。もう、部下を失う悲劇なんか、まっぴらごめんだ。

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