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検査

 薄暗い浴室。
 日光を通さない細長い小窓。
 車椅子を背にし、濡れた洗い場に座り込む女の子。鏡に向かって・・・
 お前を見る度に吐き気がする。もうお前を見たくない。表情も顔も、体も匂いも何もかも、お前の全てが嫌い。消えてしまえ。もう消えてしまえぇーっ‼
 と、鏡を両手で叩いて自分を睨んでいた少女。
「ああああああああああぁぁぁーっ‼」
 拳を握った手で鏡を叩き、叩き、叩き続けた。悲しみを涙の(しずく)に変えながら同時に彼女は、まるで心の苦しみを血の(しずく)に変えていた。落ち着いた時には、ガラスも心も割れた状態で、体が重く頭も何も考えずに真っ白になっていた。包帯を巻きつつ唯一浮かんできたのは・・・
 今日も厚労省に顔を出さないと。という用事であった。
 車椅子に這い上がると、両手の痛みに襲われて思わず悲痛な表情を浮かべた。自動車椅子を動かしてか弱い体の少女は目的地へ向かった。彼女は幼い時に『南海トラフ巨大地震』と呼称される過去最大の大震災の際に、両親も自由も奪われた。何もかも失った少女はただ、水面(みなも)に浮かぶ浮荷(うきに)のように、社会という海を漂流していた。それは毎日、毎日。
「本日も新東京磁気浮上(じきふじよう)鉄道をご利用下さいまして有り難うございます」
 という駅構内放送が少し離れた所で微かに聞こえながら、車椅子が厚労省の前に止まった。何故呼ばれたか彼女は知らない。せめて迎えの車を用意して欲しかったのだが、それが叶わず自力で行くことになった。天変地異以来、どうやら人間の価値が益々あやふやで不確かなものになり、しばしば経済的かつ政治的配慮が優先されることが多い。自閉症時代になって尚更。
 それは2020年より社会はそれ以来、自閉症またはアスペルガー症候群を持った人を積極的に上に立たせることによって、文明は素晴らしい発展を成し遂げることができた。その一方、人への共感ができずに相手を理解し得ない、しかも全体像を見ようとしない細かい処ばかりにこだわる指導者に導かれて、社会は益々非人間的になってしまった。
 自閉症時代では、人に求められているのは感情ではない、効率性だ。
 私は要らない歯車なのかな。と彼女が思う。
 暑苦しい真夏日、その中でビルのガラスからの反射光すら鬱陶(うつとう)しく想う。どこまでも空高く続く摩天楼(まてんろう)を仰向けた顔で見上げると、少女はとても窮屈な思いをした。まるで社会そのものが超高層ビルという形で具体化して、見下ろされる自分が何の役も立たない、振り返る価値もない(ちり)のような存在であると感じた。深いため息をついて彼女が中へ入った。
「無限に広がる2088年の可能性。第四宇宙遠征に今すぐ応募!」
 という広告放送がガラスに映りエレベーター内に響いた。
 第四遠征は確か、銀河の辺境で初めて植民地設立を目的とした、軍と民間企業の連携企画だとか。最近は、子供の憧れの職業が随分変わったそうだ。第二、第三遠征の功績が広く称えられた影響で彼らに夢を訊くと『宇宙植民になりたい』という理想的な未来図しか返ってこない。無理もないかな。だってロボットに仕事を奪われたり、在宅勤務をさせられたり、VRで一生を送ったり、よく考えたら宇宙植民以外は、退屈極まりない人生が待ち受けているに違いない。外を出て体を動かして社会に貢献できる仕事は、軍人や植民とか或いは公務員も政治家も中々、そういうのしか残っていない。ま、それは私と関係ない。いくら宇宙を旅出して新しい人生を手に入れようとしても、人間の大半にはその願いが叶わない。体の不自由な小娘なら尚更。
 と、自分の脚を見てその事実に突き刺されて、少女は唇を噛んだ。
 機械化の次は自動化。自動化の次はデジタル化。デジタル化の次は何だ? 精神転送なのか。『人間』という要素はどこにあるの? 社会が進化する度に我々が何かを否定しているような気がする。そう思わずには・・・いられないんだ。
 どれだけ自分を否定すれば気が済むのか。それなら、元々人間が存在するんじゃなかった。人がいないほうがよかった。私も存在するんじゃなかった。いないほうがよかった。生まれてしまったから、『人生』という地獄を生きなければいかなくなったんだ。あの世? 存在する訳ないだろ! 今の人生が充分生き地獄だから! これ以上苦しむ意味はあるの⁈
 と、広告パネルを強く叩く自分の暴れる姿を、彼女が想像してみた。
 エレベーターが上昇しながら昇降路(しょうこうろ)の壁面照明が、点々と冷たい青い光を放っていた。速度が早まると共にそれらがボヤけてしまい、一つの青い筋となった。という錯覚を眺めながら、旅出したい気持ちも、逃げ出したい気持ちも、そのような激しい感情に襲われた。心の奥底に押し殺そうとしても青い光でまた込み上げてしまう。更にガラスに映る醜い自分を直視すると嫌悪感すら覚える。彼女はガラスがとてもお嫌いわけだ。そして指定された階に着くと・・・
「お、マリちゃん、こっちこっち」
 と一人の中年男性が手招いた。
「おはようございます先生」
 さえない外見でも彼は一応心理学者であって障害者へのカウンセリングをやっている。
「うん、入って」
 自動車椅子は無気力で無表情の彼女を殺風景の相談室の中へ運んだ。シンプルな椅子と白い机は唯一の家具セットであり、室内奥にあるもう一枚のドア以外は何も目立たない。机を二人で挟んで、眼鏡を掛け直す中年は今更、彼女の包帯で巻かれた手を見掛ける。
「おい、どうしたその手! また転んだのか?」
 うつむいた少女は両手を隠す。
「何でもありません」
「ダメじゃないか、マリちゃん。もっと自分を大切にしようよ~」
「・・・」
 彼女は黙り込んだ。
 大切にするかどうか、それはこっちの問題だ。私の健康など案じてない癖に。私は社会愛玩のモルモットか。ここ最近、何回も呼ばれて検査とか検査で、もう検査三昧だ。
 重苦しい沈黙はやがて、バタンと勢いよく閉まるドアに破られる。
「へっ⁈」
 と思い沈めた少女がビックリした。
「はは、風よ、風。ドアが開けっ放しだったから」
「・・・」
 再び会話に空白が生じる前に彼は気を取り直そうとする。
「えぇっと、今日はさ、ちょっと身体検査があるんだ」
 また検査か。
 と思う彼女は、急に守勢をとり無愛想にこう応える。
「必要ですか、それ」
「まぁ、そりゃさ、やらないと福祉は貰えないよ」
 デリカシーの無い男は辛い現実を投げた。それは家族のいない娘には、福祉は生活の唯一の生命線であること。彼女には金も財産も何も残っていない。という状況下で幹細胞治療は(おろ)かパワードスーツも先端医療は到底叶わない。バイオニック義肢も、切断手術が伴うのでつまり自分の脚をあらかじめ切り落とさないと装着できないという、彼女にとっては論外である。
「・・・」
「でさ、普段の検査より少し違うと聞いた」
「どういう検査ですか」
「いや、だからさ、詳細が分からないよ」
「・・・」
「だ、だ、大丈夫さ! えっらい(偉い)医師たちがやってくれるからさ、何の心配もないよ!」
 と中年は突然に立ち上がり、身振り手振り、謎の振る舞いで興奮した様子を見せた。
「え?」
「もーうぅすーんごい驚いた! いきなり防衛省の人たちがやって来て、『是非マリちゃんのこれからの面倒を見たい』ってさ!」
 と彼が中年らしくない声の弾み方で見苦しい一面をさらしていた。人間は必ず権威者と遭遇すると子供のように自慢げに(はしや)いでしまう。彼も例外ではなかった訳だ。
 それとも或いは、圧力を掛けられて自分の感情を整理できずに慌てているのかも知れない。兎にも角にも、彼の常軌を逸した振る舞いが非常に可笑しく見えた。
 え? 防衛省?
 と内心に思った彼女。
「マリちゃんはさ、何か特別な事情をお持ちなのかなぁ~?」
 と小娘の反応を探った。
 一方彼女は、ニヤついた気持ち悪い中年男性に激しくイライラした。
 私の事情よりも、自分の事情がよっぽど特別に見えるんだけど。
 と言いたいところだが・・・
「一体何の話ですか」
 というか、さっきからコイツの額が汗で凄いことになってるんだけど。やっぱりキモい。
 と、中年に対する悪口を彼女が脳内で吐いていた。
「まぁまぁ、とりあえずこっちへ」
 と彼が車椅子のハンドルを汗ばんだ手で掴み強く握って、勝手に動かし始めた。
「ちょっと何⁈」
 マリは何故か胸騒ぎがした。
 すると背後に立つ彼が前に屈み、娘の耳元で和らげた声でこう(ささや)く・・・
「大丈夫さぁ~、案内するからぁ~」
 その時背筋に悪寒が走り、危機本能が騒いだ。
 そこで先程の室内奥の謎の引き戸が自動的に開いて、その向こうが暗くて何も見えなかった。
「ちょっと待って先生! 一体何するつもりだ⁈」
「大丈夫大丈夫、ただの検査ですよ~」
 そして少女は隣部屋の暗闇に飲み込まれ、その姿が完全に消えていった。

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