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横須賀の街に着いて潤子(うるこ)の家に向かう

電車が横須賀の街に着いた。改札を通り抜けると潤子(うるこ)が待っていた。
「みつき、久しぶり、ってそんなに経ってないか。でももう何ヵ月も会っていない感じ」
「潤子、身長伸びた?」
「数日で伸びるわけないじゃない。でも気分的になんだか成長はしている雰囲気はあるわ」
私は駅内に以外と観光客の姿が多いことに気づいた。でも横須賀って失礼かもしれないけど観光地だっけ?
「潤子の家ってどんな感じなの。けっこう広いのかな?」
「うん、お店は一階で二階が住宅になっている。意外と広い感じよ。早くみつきにアップルパイを食べさせたいな。自慢みたいだけど、きっと大好きになると思う。お客さんがたぶんいっぱいいるかもしれないけどね。ここの駅から少し歩くけどかまわないかな?」
「ええ、歩くことは大好きだから心配しないで。でもよかった。天気が良くて。こんなに気持ちのいい日って、とくに海をすぐ近くに見られる所って東京にはあまりないからね。ここから鎌倉とか湘南って間近なんでしょ。なんか羨ましいわね」私は青く澄み渡った空を眺めた。
「ほんと神奈川は風光明媚な所がいっぱいあるの。海が近いから美味しい魚もとれるからね。私、刺身が大好きでね。ちょくちょく回転寿司に通っている。みつきは食べ物で何が好きなの?」
「私出身が北海道だから、お魚はよく食べるわ。それにジンギスカンとか、味噌ラーメンなんかもね。よく実家から色々と北海道の食材が届くのよ。じゃがいもとかね」
「そうなんだ。北海道か。いつか私も行ってみたいな」潤子は私の腕に触れてから私の横顔を見た。
「みつき身長何センチ?」
「女性にしては高いかな。168センチある」
「へえー、大きいわね。私もクラスでは高いほうだけどね。モデルのスカウトに会ったことはないの?」
「実は一回だけある。でも興味なかったから断ったけど。出版社で働いていることに誇りをもっているの。そうだ、潤子の自費出版の小説、何度も読み返したわ。とても小学生が書いたものとは考えられない。この小説以外にどれだけ小説を書いているの?」
「五作品かな。でも自分でもあまりに幼稚な部分があるからお蔵入りしているけどね。これは酷すぎる、って感じ」潤子は悩ましそうな、それでいてとても愛嬌のある表情をして言った。
「そっか、それは残念だね。でも有名な作家だって、何作も駄作を書いて成長していくものだからね。あまり心配しないほうかいいわ。言えることは、何度も悩みながら、苦しみながら書いているうちになにか啓発を与えられたような、まるで自分が物語を書くマシーンになったみたいな、そんな状況になることがあるの。そう言った小説家が何人もいるわ。とにかくなんでもいいから文章を刻むことね。例えば最近私がある小説家に言ったことだけど、筆が進まないときには、自分の今悩んでいるその思いをそのまま書き出すこと、そう言ったんだけど、それが突破口になって、とても晴れやかな気分になったって語っていたわ。潤子はそんな気分になったことはある?」
「そうね、その時にはとりあえず、書くことを諦めて、大好きな本を読む。書きたくなるまでね。すると読んだ内容が消化されて、思いもかけない発想が訪れることがあるの。小説って教師みたいなところがあるからね。でも全てというわけではない。反面教師みたいに駄作からも学ぶことがある。でも私も修練の最中だから人のことはあまり言えないんだけど。でもこれって酷すぎるみたいな作品にはちょくちょく出会うけど」
「それは、たぶん芸能人が気ままに書いた小説を言っているのだと思う。はっきり言っちゃえば売れればそれで良いのよ。話題性って大事だから。私もこんな人の担当になんかなりたくない。だってこの人ルックスは良いけど文章を書かせるとまるで幼稚園児を相手にしているみたいに感じるんだもの。そう思えることがあるんだ。でもそこを忍耐して添削しているんだけど。ほんと相手を傷つけないで、優しく誉めながら文章を直してもらう。潤子、大変よ、編集者は。思っているよりも」
私たちは坂を登って小高く広い区画に来た。新興住宅団地だった。いたるところで建設工事が始まっている。全て建て売り住宅みたいでサイコロのような形をしていた。大工さんが建物の壁に寄りかかり、缶コーヒーを飲んでいた。とても様になっている。美しい光景だった。
「ここの団地を過ぎると林を抜けて私の住んでいる家がある」
「そこの林道を通るのね」
「そうよ。なんか異世界に入っていく感じがするでしょう。夜歩くときはけっこう恐ろしいわよ」潤子は声を潜め言った。
「大丈夫、私、幽霊なんて信じないから」
林道に入っていくと、風に揺られる葉の囁きが気分を高揚させる。林の先に一軒の大きな家が見える。これが潤子の住んでいる喫茶店か。なんか、スタジオジブリの映画に出てきそうな家だな。
「あの家が私の住んでいるところよ。なかなかでしょう」
「うん、別荘みたいじゃない。なんか、わくわくする。秘密の隠れ家に来たみたい。もし近所にこんな場所があるんなら、毎日でも入り浸りたいわね。リーマンが仕事を終えて馴染みの居酒屋に行くみたいにね。横須賀か、あまりにも遠すぎる」
「そうよね、でも今の時代、ネット環境が整っているから、みつきの職場に出向かなくても仕事できるんじゃない」
「そうなの、でもなかなか社会はそのことに抵抗があるみたいね。在宅勤務の人って羨ましいな。私も編集長に提案してみようかな。答えはわかっているけど」
林を通り抜けて、家の玄関前に女性が立っていた。手を振っている。
「私のお母さん」潤子は嬉しそうに言った。
潤子のお母さんのいる所に着くと、潤子の母親は、潤子を抱き締めてから頬に軽くキスをした。潤子は満足そうな可愛らしい子猫のようだった。母は私を見てにっこりと笑った。そして右手を差し出した。私も右手を伸ばしてその手を握った。
「じゃあ、店に入ろうか」潤子は喫茶店のドアを開けた。店内はお客がたくさんいて、賑わっている。
「コーヒーと甘いリンゴの匂いがする。とても良い香り。素敵なお店だね」私はまるで柑橘類の香水の匂いを嗅いでいるようだった。
「さあ、カウンターの席に座りましょう。みつきの為に開けといたから。あそこにいるのが私のお父さん」カウンターの奥で潤子の父親は忙しそうに、それでいてまるで幸せを噛み締めるように働いていた。
「潤子のお父さん、なんか楽しそうだね。素敵な笑顔」
「そうなの、仕事中毒っていうか、お客さんで賑わっているのが楽しくて楽しくて仕方がないの。それもアップルパイを食べて賛嘆の声が聞こえる度に満足そうに歓喜するの。お母さんもそうだけどね。お客さんから直に声をかけられることが、ほんと唯一の喜びみたい。それじゃ、席に着こうか」 
私と潤子はカウンター席に座った。テーブルはマホガニーでできているらしく、光沢を放っていた。潤子のお父さんは、ちょっと待っててと、言わんばかりに手をあげてジェスチャーした。私は店内を見渡して、全てが木材をふんだんに使用した木目が浮き彫りになっていて、とても落ち着ける場所であることに気づいた。きっと馴染み客が多いのだろう。みんな寛いでいる様子だった。
「ちょっと待っててね。コーヒーをもってくるから」潤子は父親の隣でコーヒーを淹れる為に仕事を始めた。とてもテキパキとしていて、おそらく幼いときから、仕事を教わっていたのであろうことが動作からわかった。私はその潤子の姿を見ながら、彼女が大人になれば、きっと大勢の男たちが彼女目当てのために来客するであろうということを予想した。ほんとなんて可愛いんだろう。潤子はコーヒーをお盆にのせて運んできた。湯気をたてたアップルパイもある。
「お待たせ、コーヒーもうちで焙煎した豆から淹れているんだよ。じっくり香りと味を楽しんでね。私、まだ小学生だけど、一日に5杯は飲んでいるの。アップルパイは食事みたいなものね。朝食にいつも食べているんだ」
「いただきます。ほんと良い香り。バターと小麦粉の匂いがする。なんか、ザ・天然記念物っていう感じかな。見た目も生地全体が輝いている」私はフォークを使ってアップルパイを口に含んだ。
「ああ、なんて自然なんだろう。そしてとても素朴。なんか、おばあちゃんが真心を込めて作ったっていう感じがする。何故だろう、初めて食べたのに、頭の中の記憶を司る部分が、懐かしいでしょう、って呼びかけている。ほんとナチュラル」
「これが本当のアップルパイよ。みんな、みつきのような反応をしめすの。私も将来は小説を書きながらこのお店で働きたいなあって思っているの。お客さんの喜びに満ちた表情を見るのってとても幸せでしょう。最高の仕事だと思うわ」
「そうね、お客さんも嬉しそう。母親が愛する我が子のために作った、愛情深い家庭料理って感じかな。なんか忘れることのできない味だわ」私はじっくりと味わいながら食べた。コーヒーも複雑な個性的な味がした。思わず吐息が漏れた。
コーヒーとアップルパイを食べ終わると潤子は言った。
「私の部屋にいきましょう。きっとみつきも気に入ってもらえるわ」
私たちは二階に上がる階段に向かった。潤子の部屋のドアを開けると、その部屋のなかには本棚が四つあった。ほとんどが文庫本でハードカバーも見られた。
「うわあ、凄い。ほんと小説が好きなのね。驚いたわ。まるで小さな本屋さんか図書館みたい」
「そうでしょ、私の宝物。想像力を働かせて違う世界に誘われる、最高だよね」潤子は本棚に近づき、本を撫でた。
私も本棚に対面した。そして本の背表紙を見つめた。そこにはマルセル・プルーストの失われた時を求めての全冊、トマス・ピンチョンのヴァイランドとか、ガルシア・マルケスの小説があった。私でも読むのが難しい本がならんでいた。
「潤子、本が大好きなんだね」
「そうね、でもほとんどが中古本なの。ブックオフとか東京の古本屋とかネットで買っているわ」
潤子の想像力が並大抵ではないことがわかった。この読書量が反映されているのだろう。私は自分の部屋を思い浮かべて恥じた。本棚はひとつ、自分の担当している作家の本がほとんどだった。これじゃ、編集者とは言えない。もっと読書量を増やさなければ。失礼かもしれないけど、こんな幼い少女がこんなにも本を愛し、色々な理想をもっている。彼女から励まし、勇気と自信をもらった。私も頑張れる。この日は私にとって、記念的な一日となった。この出会い、出来事は終生忘れないであろう。潤子がいとおしそうに本棚を眺めていた。まるで歳を経た魔女のような魅力を放っていた。私もその一員なんだ、魔法を使えそうな感じがした。きっとこれから日本中にその力を行使することができる。そう感じた。

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