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8 夢見草の夢(Ⅱ)

 シェリンは、夢見草の彼岸の夢に沈み、さらに深い記憶を辿っていた。
「娘よ、これは彼岸の夢の中。さらに深く、過去世の夢へと沈むのだ。お前の捜す唄も見つかるだろう」
 どこからともなく、声が聞こえた。
 そうだ、わたしは唄を捜しているのだと、彼女は思った。


 彼女は、ふと、目を覚ました。まだ窓の外は暗い。夜明けはまだ先だ。
 彼女は思う。何故こんな時間に目が覚めてしまったのだろうかと。
 そして、思い出した。とても不吉な夢を見たことを。
 そうだ、あの人が危ないのではないか。岩屋に一人でいるはずの、怪我をしたあの人が。

 まだ薄暗い道を彼女は走った。二重の虹が架かる泉のほとりの、崩れかけた遺跡の中にある、あの岩屋へと。
 彼女は叫ぶ。大切な人の名前は、考えずとも自然に口からこぼれ出た。
「アスナール!」
 彼女は岩屋の中へと駆け込んだ。彼女は叫んだ。大切な人の名前を。
「アスナール!」
 岩屋の中へと駆け込む。
「エルリーダ、どうかしたのか? そんな真っ青な顔をして」
 アスナールは無事でいた。動けるようになっていた彼は、すでに寝床から起き、岩屋の中に湧き出す水で喉を潤すところだった。
「良かった、アスナール。わたし、とても心配で」
 エルリーダは、息を弾ませながら言った。
「何をそんなに心配を? ここは滅多に人も来ない安全な場所だと、君が言ったのに」
 アスナールが穏やかに微笑む。
「不吉な夢を見たの」
「どんな夢だった?」
 エルリーダは首を振った。
「覚えていない。でも、目が覚めたら、胸がどきどきして不安で堪らなくなったの。貴方が無事か気になったの」
 アスナールは、エルリーダの手を取って近くの岩に腰かけさせた。
「僕は大丈夫。君のお陰で、もうこんなに元気を取り戻せた。もし誰か不審な者が入ってきても、捕まる前に逃げることが出来る」
「本当に?」
「安心して」
 アスナールは、力強く頷いた。
「良かった」
 エルリーダは、ようやく落ち着くことが出来た。
「ごめんなさい。今朝は食事を持ってこなかった。慌ててしまって」
「昨日の蒸し芋と果物がまだあるから大丈夫。心配は無いから、神殿の仕事に行っておいで」
「またお昼に来るわ」
 手を振って見送るアスナールを、エルリーダは何度も振り返りながら、神殿での勤めに向かった。
 その様子を誰かに盗み見られるなど、考えもしなかった。

 昼の休み、泉のほとりで花を摘み、食べ物を持って再び岩屋を訪れたエルリーダは、岩屋の入り口近くで見知らぬ男に出会った。その男の身なりは、風雪に晒されて古びてはいたが、元は立派な物であったに違いなかった。男は、腰に帯びていた剣を地面に置くと、エルリーダに告げた。
「私は、東の国の大臣の息子でガンダイルという者。アスナール様を捜してここまで来た。この近くで、それらしき若者を見掛けたと風の噂に聞いた。東の国では王が陣没され、年若い王子も北の国に連れ去られた。このままでは滅びるしかない。密かに森番の子として育てられたアスナール様に是非ともお帰りいただかねばならない」
「あなたが、東の国のお方だという証拠はあるのですか?」
 男は、懐から何かを取り出して見せた。それは鈍く光る古びた銀の指輪で、そこに刻まれた紋章は、確かに東の国の王家のものであった。
 アスナールに会うと、男は腰を屈め、エルリーダに告げた言葉を繰り返した。
 アスナールは、その男の言葉を安易に信じようとはしなかったが、王子として生まれたアスナールが森番の仔として育てられた経緯を涙ながらに語る男の様子に、少なからず心を動かされたようだった。
 それでもなお 躊躇(とまど)うアスナールに、ガンダイルと名乗る男は告げた。
「どうぞ左腕をお見せ下さい。アスナール様には、三つ並んだ星の形のあざがございました」
 エルリーダは、気が遠くなるのを感じた。幼い頃から兄妹のように育ったアスナールの左腕に珍しい星の形のあざがあったことを思い出したのだ。
 アスナールが袖を (まく)ると、そこには、三つ並んだ星の形のあざが確かにあった。
 ガンダイルは両眼から涙を零し、感激に打ち震えながら、アスナールの両手を取って握りしめた。
「やはりアスナール様だった。よくぞ御無事で。御立派になられた。皆が待っています。さあ、私とともに参りましょう」
「でも、この方は、まだ長旅が出来る程には回復なさっていないのです」
 エルリーダは、声が震えるのを抑えることが出来なかった。
 しかし、ガンダイルは、北の国の兵が近くまで迫っていることを説き、アスナールに旅立ちを決意させたのだった。
「やっと会えたのに、アスナール。あなたがどこの誰でもいい。どうしても行かなければならないなら、わたしも行きたい」
 エルリーダは、両目に涙を溜めて言った。
「僕も行きたくはない。けれど、行かなければならない。君と共に平和な東の国に帰れるならどんなに良いだろう。しかし、まだ国は荒れている。途中にどんな危険があるかも分からない。だから、エルリーダ、君はここで、あの泉のほとりで待っていてくれるだろうか。きっと帰ってくる。約束するから」
「わたしずっと待っているから。だから、きっと無事で居て」
 エルリーダとアスナールは、互いに目と目を見交わして誓った。
 それでも、エルリーダの悲しみは消えなかった。北の国と西の国が (いくさ)をやめない限り、東の国に平和は訪れないだろう。アスナールの旅路に終わりは無いのかもしれないのだ。
 アスナールは、自らの足でしっかりと歩き、ガンダイルと共に国境へと旅立っていった。エルリーダは哀しみの涙を耐えてアスナールを見送った。

 エルリーダは肩を落として岩屋に戻った。
 ほんのしばらく前まではアスナールの笑顔があった岩屋。少しでもアスナールの思い出のそばに居たいと思った。
 誰も居ないはずの岩屋。しかし、その中に見知らぬ男の姿があった。エルリーダを振り返った男は、片目を失っており、痛々しいまでに傷付き疲れた様子だった。
「アスナール王子を捜している。私は東の国の大臣の息子トウレイク。王子がここで身を休めていると風の噂に聞いた。今となっては、森番の子として育てられたアスナール様だけが東の国の希望なのだ」
 その男は、 (せき)を切ったように語った。
 エルリーダは驚き答えた。
「あなたと同じことを言った男が居たわ。それともあなたは北の国から放たれた刺客なの?」
「しまった、遅かったか。先に来たというその男こそ、私の右目と紋章指輪を奪った北の国の刺客だ」
 男が言い終わるより先に、エルリーダは駆け出していた。
 アル=シュカルの泉の上から、美しかった二重の虹が消えていた。そして、泉のほとりには、日頃は人に姿を見せることの無い白い獣、一角が群れていた。
「お願い。わたしをアスナールのそばに連れていって。アスナールを助けて」
 一頭が、エルリーダを目の端に捉え、駆け寄る。エルリーダがその背中につかまると、一角は国境の森に向かって疾風のように走った。
 そのあまりの速さに、冷たい風が固まりとなってエルリーダを襲った。息はつまり、身体は凍えた。それでも、エルリーダは死んでも一角の背中から落ちるまいと、必死に一角の体にしがみついた。

 やがて、エルリーダは国境の森にアスナールの姿を見つけた。
 良かった、アスナールは無事だ。
「アスナール!」と呼び掛けようとした時だった。
 何者かが茂みから飛び出した。抜身《ぬきみ》の剣を手にアスナールの背後に襲いかかる。エルリーダは、声を出せなかった。
 間一髪でアスナールは振り向き様に身をかわす。ガンダイルと名乗っていた男が剣を抜いたかと思うと、強襲者ではなくアスナールの胸を刺し貫いた。
「アスナール!」
 エルリーダの絶叫が昼下がりの国境にこだました。
 男は、アスナールの胸から剣を引き抜くと、今度はエルリーダに向かって来ようとした。エルリーダは動けない。
 鋭い悲鳴の叫び!
 その叫びは、エルリーダのものではない。血の臭いに怯えた一角が、鋭い叫びを上げて駆け去ったのだ。
 振り落とされ、一人取り残されたエルリーダ。
 ああ、わたしも殺される。けれど、それでも構わない。アスナールの血を吸った同じ剣で殺されるのなら、ほかにどんな望みがあろうか。
 血濡れた剣を振りかざす男が、エルリーダの目前に迫る。
 エルリーダは瞳を閉じた。
「アスナール、今、そばへ」

 瞳を閉じて立ち尽くすエルリーダの耳に、剣が石に跳ね返る金属音が響いた。
 エルリーダが目を開けると、ガンダイルと名乗った男が、エルリーダの背後の何かに向けて目を見開き、驚愕に体を震わせていた。何かを言おうとして口を開いたまま、取り落とした剣をそのまま捨て置いて、もう一人の強襲者ともども、転《まろ》ぶように逃げ去った。
 ガンダイルと強襲者は、何に怯えたのか。そんなことはどうでも良い。
 エルリーダは無我夢中で、倒れたアスナールの元に駆け寄った。アスナールはおびただしい血を流し、だが、微かに息があった。
「アスナール! 死なないで!」
 エルリーダの溢れる涙が、アスナールの青白い顔を濡らす。
 アスナールの手が僅かに動き、エルリーダの袖に触れた。
「アスナール! アスナール! わたしを一人にしないで、お願い」
 アスナールが力なく手を伸ばし、エルリーダの頬の涙を拭う。
「……泣かないで……」
 アスナールが、今にも絶えそうな息遣いで言った。
「エルリーダ……僕は永遠に君のもの……君はただ一人の、僕の大切な人……」
 苦し気な息を振り絞る切れ切れなアスナールの言葉。
「分かっているわ、アスナール。もう何も言わないで。今、傷口を押えるから」
 アスナールは微笑を浮かべ、力なく首を振ったように見えた。
「あの唄を……祈りのあの唄を……見送りに……」
 エルリーダは頷く。

 泉のほとりの古い遺跡の中で、エルリーダがアスナールに語った言葉。
「わたし達ナーランの谷の者は、ナーヤの導きのまま心静かにアル=シュカルの泉の上に掛かる二重の虹に祈る。安らかな時が続きますようにと」
 そして、アスナールに聞かせた祈りの唄。美しい言葉と素朴な旋律の、語り掛けるようなあの唄。

 エルリーダは、歌おうとした。
 けれど、歌うことは出来なかった。
 アスナールは、エルリーダの腕の中で、息絶えていた。エルリーダの唄を聞く前に。

 アスナールの閉じて開かない (まぶた)に、エルリーダの涙が落ちては流れる。どんなに呼び掛けても、体をゆすっても、もうアスナールは応えない。エルリーダの腕の中で、アスナールの体は冷たくなっていく。
「アスナール、もう一度、目を開けて。もう一度、微笑んで。もう一度、声を聞かせて……」
 エルリーダには、もう叫ぶ力も残っていなかった。かたわらには、ガンダイルの落としていった剣。ゆっくりと、それを拾い上げる。
「アスナールの血を吸った剣よ。あたしの胸も貫くがいい」
 涙とアスナールの血で濡れた手で、血濡れた剣を自らの胸に突き立てる。
 その剣を、何者かが取り上げた。
 エルリーダが目を上げると、燃えるような朱金の瞳が彼女を見据えていた。
「娘よ、哀しむがいい。だが、その想いを遂げるのは今ではない」
 エルリーダの目の前に、不思議な人間が立っていた。いや、正確には、その人間は、宙に浮かんでいた。
「……あなたは……誰?」
 エルリーダは身動きも出来ず、呟くように訊いた。
 目の前の何者かは、意味ありげに笑った。
 辺りが急に暗くなり、山も森も空も見えなくなった。男とも女とも知れないその人影は、銀色の長い髪を靡かせ、赤銅色の肌は闇に溶け、姿は次第に見えなくなり、声だけが響いた。
「生まれ育った惑星が存在する限り、魂は故郷の星に輪廻転生し、お前達は螺旋状に絡まる運命の糸に手繰り寄せられ、再び巡り会うだろう。それが 天則(リタ)なのだ。惑星セナンの太陽にスーパー・ノヴァを起こそう。セナンも消えて無くなる。アスナールは惑星メイザに、エルリーダは惑星テラに転生させよう。それがお前達の新しい故郷。お前達はそれぞれメイザとテラで転生を続けるのだ。再び巡り会うことの無いように」
 
 遠い細波のようにその声を聞きながら、エルリーダは、煌めく星空を見たような気がした。
 声は続いていた。
「だが、千年、万年、遠い時の流れの果てには、私の思惑も届かぬ 運命(さだめ)が、お前達を再び巡り会わせるかもしれない。娘よ、今の哀しみを忘れるな。そして、唄を忘れるな。お前が思い出したいと願っていた唄。その唄がお前に力を与えるだろう。唄を胸に、目覚めよ。時は近付いている」

 遠くに声を聞きながら、エルリーダは、セナンの太陽が膨張し、惑星セナンが飲み込まれるのを見たと思った。
 その閃光が、エルリーダの意識を一瞬のうちに消し去った。

しおり