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流星の奇跡

 静かな音楽が流れるほの暗い店内。壁面に据えられた大型モニターの1つに、紺碧の星空が映し出されていた。時折、放射状に星が流れる。
「綺麗だよね。本物見に行く?」
「えーどこに? この辺りで見える所なんて無いやん」
 そんな会話がどこからともなく聞こえてくる。
 モニターの映像は精密なCGであるらしかったが、今年も双子座流星群が見られる季節が訪れ、新聞やテレビの報道によると今夜はそのピークらしかった。

  紗夜(さや)は、足の向くまま入ってきてしまった店内で、戸惑いながら立っていた。
 賑やかな会話は苦手だ。かと言って一人で部屋に閉じこもっているのも辛い。当てもなく夜の町に出て来たけれど、気が付くとこの店の前に来ていて、自然にドアを開けていた。紗夜は、自分は何故ここに来たのだろうと不思議に思った。

「どうぞ、こちらの席、空いてますよ」
 マスターの声だった。
「あの、私……」
 マスターは、仙人のような謎めいた笑顔を浮かべた。仙人に会ったことはないけれど、もし会ったら、きっとこんな微笑みで相手を見るんじゃないかと紗夜は思った。
「遠慮なさらずに」
 マスターが、今度はにっこりと笑った。
 その笑顔に誘われ、紗夜は黙ってカウンターのスツールに座る。
「ご注文はどうします?」
 マスターが、グラスを磨きながら言った。まるで、注文しなくても構いませんよ、みたいな言い方だった。視線はグラスに向けられたまま。
「あの、しばらく見ていたらいけませんか?」
 きらきらと輝くグラスや、注がれる美しい色のお酒や、南国風の花や果物の飾りや、そんなものをじっと眺めていたいような、そんな気持ちがした。 
「あ、でも、何か注文しなきゃ駄目ですよね、」
 紗夜は慌てて付け加えた。
 マスターは、いささかの乱れもない動作でグラスを磨きながら答えた。
「いいえ、かまいませんよ。席は空いているし、当分は新しいお客さんは来ないし、その席は今夜は貴女の席ですから」
 謎めいた返事ではあったが、マスターの声には、不機嫌な色合いもわざとらしさも感じられなかった。
「ありがとう」
 不思議なことを言うマスターだと思いながらも、紗夜はお礼を言った。
「どういたしまして」
 マスターは、静かな笑みを浮かべ、グラスを磨く。
「あ、やっぱり何かお酒ください」
 マスターは軽く頷くと、流れるような動作で幾種類かの液体をシェイクし、カクテル・グラスに注いで、静かに差し出した。
 清楚な貴婦人のような気品さえ感じさせるカクテルは、飲んでしまうのが惜しいほどに美しい。
 紗夜はぎこちなくグラスを持ち上げ、そっと口をつけた。
「あ、おいしい」
 その一言に、マスターの顔がほころぶ。
「ホワイト・レディというカクテルです。お嬢さんのイメージに合わせて」
「お嬢さんだなんて。私、そんなに若くはないし……それに、黒い服を着ているのに。今日は妹の命日だから」
「妹さんの命日ですか。仲の良い姉妹だったのでしょうね」
 心に染み入るような響きの声だった。
 負けまいとして己を閉ざし、非難にも冷遇にも孤独にも耐えてきた張り詰めた心の糸は、ふとした優しさには弱いものだ。
 紗夜は、今夜初めて足を運んだカフェバーのマスターの、わざとらしくも押し付けがましくもない、穏やかで自然な、さりげない言葉に、張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩むのを感じた。
「私、妹を捨てたんです。仲が良かったなんて、きっと表面だけ。いつだって妹のことを忘れたかった」
 マスターはグラスを磨く手を止め、紗夜の顔をじっと見た。彼女が泣いているのではないかと思ったのかもしれない。
 紗夜は泣いてはいなかった。つぶらな瞳は手元のカクテル・グラスに向けられてはいたが、本当に見ていたのは何なのか。
「妹の 摩夜(まや)と私は双子でした。体が繋がった結合双生児でした」
 それは、紗夜にとって、懺悔にも等しい告白だった。

     〇   〇   〇

 紗夜と摩夜は、体の繋がった結合双生児として生まれた。
 二人の成長のためには、なるべく早期に2人の分離手術をすることが望ましかったが、それには大きな問題があった。
 いくつかの臓器と脊椎の一部を二人が共有していることと、共有していない臓器についても、摩夜には未発達で正常に機能できない臓器があったのだ。分離手術により姉の紗夜は自由な体を得られるが、妹の摩夜は歩くこともできず、二十歳まで生きられるかどうかも分からない。
 紗夜と摩夜の二人は、結合双生児のまま幼稚園に通い、小学校に上がった。
 はじめは周囲から奇異の目を向けられたが、やがて、紗夜と摩夜の二人はそんな視線に慣れていき、周囲もまた結合双生児の存在に慣れていった。決して平坦な毎日ではなかったが、結合状態のまま二人は成長していった。

 分離手術をすることに決まったのは、中学校に入ってからだった。結合状態での生活は、すでに限界に達していた。医学の進歩は目覚しく、困難を極める分離手術自体も以前ほど難しいものではなくなっていたが、分離手術をするという決定は、紗夜の未来のために、摩夜の未来を諦めるという選択にほかならなかった。
 分離手術は成功し、長いリハビリを経て退院した紗夜は、難関の高校に進学した。分離され一人となった紗夜を、周囲は再び奇異の目で見た。
 摩夜は退院できなかった。自分の体を支えることも、食べ物を食べて消化吸収することも難しかった。日に日に衰弱し、機器に繋がれ、おそらくは、もう死ぬまで病院で過ごすしかない。
 それでも摩夜は、紗夜が病院を訪れるとベッド上や車椅子から微笑みかけ、か細い両腕を差し伸べて紗夜を迎えるのだった。その無垢な笑顔が、紗夜の心を責め苛むとも知らずに。

 大学に進学した紗夜は、アメリカへの留学を決めた。日本にいること、摩夜のそばにいることが辛く、逃れたかったのだ。もう日本には帰らないつもりだった。
 留学する前に、幼い頃に妹の摩夜と一緒に見た双子座流星群を見に行こうと思った。
 願いを託すため、そして、決別のために。

 久しぶりに訪れた故郷M市の海岸は、昔とほとんど変わっていなかった。黒々とした松林によって市街地の明かりから遮断され、降るような星空が紗夜を迎えた。
「紗夜ちゃんじゃない?」
 聞き覚えのあるその声は、高校時代の生徒会の先輩だった。
「奇遇だね。僕も流星群を見に来たんだよ」
 生徒会長や体育部長のような目立つ存在ではなく、地味ではあったけれど、庶務を担っていた先輩は常に誠実に仕事をこなしていた。
 今もあの頃と同じような地味なメガネを掛け、あの頃と変わらない誠実な笑顔だった。
「君もあの頃と変わらないね。一目で分かったよ」
「私は変わりました。いろいろあったから」
「うん、いろいろあるよね。生きてるとね。でも、僕の目からは、君はあの頃のままだよ。毎日を本当に一生懸命に生きていた。きらきらと眩しかったよ」
 その他にどんな話をしたのか、紗夜はあまり覚えていない。ただ、先輩が紗夜の瞳を見つめ、来年も一緒に流星を見ようと言ったことは、今もはっきりと思い出せる。
「でも、私、もうすぐアメリカに留学するんです」
「留学かあ。じゃあ、5年後の今夜、またここで」
「5年後も、まだ日本に帰らないかもしれません」
「それでも、5年後の今夜、ここで待っているよ。もし会えなくても、次の5年後にまた待つよ。次の5年後も、その次の5年後も」
 その時自分が何と答えたのか、紗夜は思い出せない。

     〇   〇   〇

「それで、5年後に先輩とは会えたのですか?」
 じっと話を聞いていたマスターが、ゆっくりとした口調で尋ねた。相変わらずグラスを磨きながら。
「いいえ、会えませんでした」
 紗夜はぽつりと答えた。
「まだ帰国していなかった?」
「約束の5年目の双子座流星群の夜が近づくと、私は迷いました。5年後の約束なんて先輩はもう忘れたかもしれない。覚えていても、気持ちが変わったかもしれない。一人で流星を眺め、孤独を抱えてアメリカに戻ることになるのではないかと。その矢先、妹が危篤だと連絡がありました。私は、本当は妹には会いたくなかったのです。特に、危篤に陥った妹には。けれど、会わなければ一生後悔すると説得され、帰国しました。そして、その夜、私は病院で妹を看取ったのです。先輩との約束の、5年目の夜でした」
 紗夜がそこまで話した時、マスターはグラスを磨く手を止め、じっと紗夜の話に耳を傾けていた。
「辛かったでしょうね」
 マスターは、妹を亡くしたことを言ったのか、先輩に会えなかったことか。その両方なのか。
「意識を取り戻した妹は、私に会えて嬉しいと言い、最期だから機械から自由になりたいと言いました。死期を悟っていたのです。機械をはずされ、妹は安らかに微笑んで、最高に幸せな気分だと言いました。もう夜中でした。やがて安らかな寝息をたて始めた妹の傍らで、私もいつの間にか眠ってしまい、夢を見ました。妹と一緒に流星群を眺め、お願い事をしている夢でした」
 紗夜は、ぽつぽつと語り、続けた。
「ふと気付くと、ベッドで眠っていたはずの妹がいませんでした。驚いて捜しまわり、やっと見つけた場所は、病院の屋上でした。歩けるはずもないのに、妹がどうやって屋上まで行ったかは分かりませんが、妹は屋上の手すりの所に倒れていました。『流れ星にお願いしたよ。昔みたいに』と妹は言いました。『紗夜の願いが叶いますように』それが、摩夜の最期の言葉でした」
 紗夜は言葉を切り、マスターも黙っていた。
 店内に流れる静かな音楽だけが、しばし二人を包む。
 やがてマスターが口を開いた。
「妹さんの願いは、あなたの幸せだったのでしょうね」
 紗夜は、目を伏せ、静かに答えた。
「あの夜の 転寝(うたたね)の夢で自分が星に何を願ったのか、私は思い出せないんです。『妹が生きられますように』とは願わず、『先輩に会えますように』だったのかもしれない。私は薄情な愚か者です。きっと、妹の幸せよりも自分の幸せを願ったんでしょう」
 マスターは再びカクテル・グラスに手を伸ばし、念入りに磨き上げた。そして、流れるようにシェイカーを振ると、磨き上げた2つのカクテル・グラスにホワイト・レディを注いだ。
「妹さんに。そして、あなたに」
 紗夜はマスターを見上げた。
「幼い頃と同じように、妹さんはきっと今もあなたの傍にいますよ。誰よりもあなたの幸せを願って」
「そうでしょうか」
「そうに決まっています」
 そして、マスターは付け加えた。
「先輩にもきっと会えますよ」
 紗夜はため息のように笑った。
「でも、もう10年も前の約束です」
「では、今夜は2回目の約束の夜で、それであなたはM市に帰ってきたのですね」
 紗夜は小さく首を振った。
「分かりません。約束のあの場所に行っても、もう星空は見えないし、そのことは先輩も知っているはずです。奇跡でも起きない限り、もうあの場所で流星は見えないし、先輩に会うこともないでしょう」
「カジノ特区になって、あの海岸付近はラスベガス並みになってしまいましたからね。サマーサイドと名付けられて、有名になって。先輩はそれでも待っているかもしれませんよ」
「もういいんです」
 紗夜は、ホワイト・レディのグラスを取り上げ、もう一つのグラスの縁に軽くコンと当てると、コクリとそれを飲んだ。
「これ、本当においしい」
 ホワイト・レディを飲む紗夜を見守るようにして、マスターは口を開いた。
「それでも行くべきでは? あなたの心がそれを望んでいるなら」
 紗夜は手にしたカクテル・グラスを見つめ、首を振る。
 マスターは、心を見透かすような目で、紗夜をじっと見た。
「奇跡はね、待っていても起きません。信じる力が起こすのです。さあ、行きなさい。タクシーに飛び乗って」

     〇   〇   〇

「サマーサイドまで」 
 店を出ると折よく目の前を通りかかったタクシーに飛び乗り、紗夜は行き先を告げた。
 カジノ・ホールやホテルの続く道路を通り抜け、道路が途切れる海岸手前でタクシーを降りた紗夜は、何かにせかされるように砂浜を歩いた。
 サマーサイド全体から溢れ出る人工の光に照らされて、空は妙に明るく、星は見えない。こんな場所で流星群を見ようとする者などいるはずもなかったのだが。
 マスターの言葉で催眠術にでもかかったようにタクシーに飛び乗ってしまった紗夜。今になって冷静になり、紗夜は可笑しくなって笑った。馬鹿だなあと。
 しばらくぶらぶらと砂浜を散歩したら帰ろう。紗夜は砂を踏みしめた。
「もしかして、紗夜ちゃん」
 聞き覚えのある、いや、忘れもしない声だった。
「先輩……ですか?」
 サマーサイドから溢れ出る眩しいほどの光に照らし出されて、先輩が立っていた。
 先輩は、言葉を失ったように紗夜を見つめていた。
 紗夜もまた、しばし言葉を失う。
 やがて先輩が口を開いた。
「良かった。またここでこうして会えるなんて奇跡のようだよ」
 本当に奇跡だと紗夜も思った。約束から10年も経っているのに、もう流星の見えないこの場所に、先輩も来てくれたなんて。
「10年ぶりですね」
 安堵した紗夜は、喜びを表す言葉を見出せずにそう言った。
「5年ぶりじゃなかった? 最初の約束から5年目に、ここで一緒に流星を見たからね」
 先輩はにこにこと嬉しそうに言い、言葉を続けた。
「あの時は真夜中になっても君が来なくて、諦めようかと思っていたら、君が僕を見つけてくれたよね。時間がないと言って君はすぐに帰ってしまったけれど、次の5年目もその次の5年目も必ず来て下さいね、私が来なくても、ここで流星が見えなくなっても、必ずまた来て待っていて下さいねって、そう言って、僕は、必ずそうするよって約束した。本当に会えて嬉しいよ」
 先輩は嘘や冗談を言っているようには見えなかった。

 ああ、そうか、そうだったのか。紗夜は悟った。
 摩夜の命が尽きたあの夜、摩夜が何故ベッドを離れ、病院の屋上で流星を見ていたのか。
 摩夜は、紗夜を日本へと呼び寄せ、5年目の約束を果たせない紗夜の代わりに、幽体となってこの海岸を訪れたのに違いない。摩夜は、本当に心から紗夜の願いを叶えようとしてくれたのだ。

 本当のことを話さなければ。摩夜のことを。どんなに素晴らしい妹だったか。子ども時代に自分たち二人がどんなに深い絆で結ばれ、互いの幸せを願っていたか。いや、子ども時代だけではない。あのカフェバーのマスターが言ったように、摩夜はきっと今も自分の隣にいるのだ。

「また会ってくれるかな」と先輩が言った。
 紗夜はこっくりと頷いた。
「5年後じゃなくて、来年も……いいかな」
 紗夜は再びこっくりと頷く。
「明日も、なんて言ったら、呆れられるかな」
 頬が涙で濡れていることに、紗夜は自分で気付いていなかった。
 先輩の手が、紗夜の涙を拭おうとして、戸惑ったように止まる。
 紗夜は、慌てて指先で涙を拭った。先輩は、たぶん誤解したのだろう。
 先輩、この涙は違うんです。妹の摩夜の、今日は命日なんです。先輩と会えたことが嬉しくて泣いてるわけじゃないんです。でも、やっぱりそうなのかもしれない。
「私、先輩に話したいことがたくさんあるんです」
 涙声の紗夜に、先輩は優しく頷き、聞くよ、と言った。

 信じる心が奇跡を起こす。マスターの言った通りだと紗夜は思った。

 宝石箱のように光り輝いていたサマーサイドの明かりが、一瞬チカチカと点滅したかと思うと、一斉に消えた。
 辺りが闇に包まれ、驚いて見まわす二人の頭上で、妙に明るかった空がにわかに紺碧に染まった。
 いくつもの星が美しく流れた。東南の、ほとんど真上の、双子座のカストルとポルックスが寄り添う辺りから、いくつも、いくつも、いくつも、いくつも……。
「紗夜ちゃんが幸せでありますように」
「先輩が幸せでありますように」
 二人は無意識のうちに、心のうちで互いの幸せを願っていた。

 この夜に起きたサマーサイドを含むM市全域の停電は、多くの混乱が生じたが、幸いなことに人命にかかわる事故は1件も無かったという。調べても原因は分からず、謎の大停電として都市伝説になった。
 M市全域が闇に包まれた数時間の間、多くの人々が空を眺め、流星に願いを託した。
「争いや独善が消えて平和が訪れますように」
「誰もが他人を思いやれる優しい世界でありますように」
「新型コロナが世界から消えてなくなりますように」

 皆が願い、信じれば、きっと奇跡は起こる。
 この広い宇宙の、遥かな時の流れの中で、地球というひとつの惑星の、この同じ時代に生まれ、いくつもの国と地域に分かたれた中で、77億分の1の二人がめぐり合った奇跡のように。

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