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1 憂愁の貴公子

 ウルクストリアのラダムナ宮殿に近い閑静な上屋敷通りである。
  篠突(しのつ)くストーレの闇が訪れる頃、翡翠鳥の館には弔問客が訪れ始めた。貴族豪族達は目立たぬようにひっそりと少人数で訪れ、喪に服していることを示す灰地に黒い紋章が染められた垂れ幕が掛けられた門をくぐった。丞相テムルル・テイグの葬儀は、地位に似つかわしくない少人数でしめやかに執り行われ、ストーレが止み冠の月が上る頃には早々と片付けられた。

 仮にも一国の 丞相(じょうしょう)である。本来ならば盛大な国葬が執り行われ、貴族豪族に限らず大勢が参列し、衛星国や属国からも弔問客が訪れ、その輝かしい業績が大々的に報じられる、そんな葬儀になるはずであったが、そうならなかったのには理由があった。
 一つには、クリュス島の火山爆発による被害が甚大で、貴族豪族達からも死傷者が出たこと。貴族豪族達は身元を隠しての円形闘技場=COROSIAW観覧であり、死に物狂いで逃げ帰った後は口を閉ざして外出も控え、貴族豪族の代表者からなる議定所も、円形闘技場=COROSIAWで殺害されたらしい丞相テムルル・テイグの葬儀を盛大に行うことには難色を示したのである。
 宗主ソルエル・ダル・ウルク・ラ・グリマ六世とウルクストリア政府も、クリュス島での出来事は公にしたくなかった。円形闘技場=COROSIAWの存在は公然の秘密であったからである。
 テムルル・テイグの後妻レリデも、丞相テムルル・テイグ本人が円形闘技場=COROSIAWを訪れていたという不名誉を公にはしたくなかった。レリデは、正式喪装の黒い 面紗(ヴェール)に不機嫌な顔を隠し、葬儀の間中ついに一言も言葉を発しなかった。
 要するに、丞相テムルル・テイグの葬儀を盛大に執り行いたいという者は、誰一人いなかったのである。

 それでも、 (ちまた)巷では根拠のない噂話が飛び交った。
「トルキル大連が、ロウギ・セトを連れてクリュス島に逃亡したんで、テムルル丞相はそれを追ったらしいよ」
「それで、トルキル大連は逃げ切るためにテムルル丞相を殺ったらしい」
「いやいや逆だよ。テムルル丞相は円形闘技場=COROSIAWの常連だったんだよ。それを知られて相手を消そうとして、逆に自分が殺られたんだよ」
「円形闘技場=COROSIAWって何だい?」
「トルキル市から見えるクリュス島にあるらしい。火山島で鍛冶場があって、昔から無頼漢の縄張りで、宗主陛下でさえ|迂闊《うかつ》には手を出せないってさ」
「噴火したんだろ? この辺りも少し揺れたし、怪我人も出たらしい」
「島が爆発したのは、ロウギ・セトの仕業とか」
「テムルル丞相が死んだらしいけど、ロウギ・セトとトルキル大連はどうなったって?」
「政府の実権は、次は誰が握るのかね」
「さあ、どうせ庶民には関係ない話さ」


 シルニンは、テムルル丞相の葬儀が終わって暫く後、ストーレの闇に紛れて再び翡翠鳥の館を訪問した。テムルル丞相の子息テムルル・エイグに内密の相談を持ち掛けられたからだった。家人の目の無い私室にて会いたいとの伝言だった。
 シルニンは、 丞相(じょうしょう)の子息であるテムルル・エイグの顔を知ってはいたが、公の場に滅多に顔を出さない彼について多くは知らなかった。親しい間柄でもないテムルル・エイグが、わざわざ私室に自分を呼び入れるほどの相談とは、一体何であろうか。
 シルニンは思った。いくら丞相の子息とは言え太夫の一人にすぎないテムルル・エイグが、年齢も経験も遥かに上であるシルニンを呼びつけるのは無礼である。だが、父親を亡くして喪に服している今は、外出はもちろん人に会うことも控えなければならない。喪明けはまだ先である。政敵の多かったテムルル・テイグであるから、もしかしたら、その息子のエイグには、頼れる者がいないのかもしれぬと。

 シルニンは、テムルル家の召使いに案内され、テムルル・エイグの私室に向かう廊下を歩いていた。通称“翡翠鳥の館”と呼ばれているテムルル家の屋敷は、廊下沿いに大きな窓が続き、広い中庭や向かいの部屋を見渡せる開放的な作りになっていた。廊下にも庭にも高価そうな照明具が幾つもあり、贅沢そうな (しつら)いを照らしていた。
「ちょうど今見えている正面が、エイグ様の私室にございます」
 召使いがそう言って頭を下げた時、示されたエイグの私室の扉が開き、テムルル・テイグの後妻レリデが、滑るように出てくるのが見えた。葬儀の際は面紗を被っていて顔は見えなかったが、宮廷の晩餐会などでも姿を目にしており、顔は知っていた。第一皇子を生んだ次妃リルデの母親であるから、もう若くはないはずだったが、その匂うような美しさに、シルニンは、はっと息を呑んだ。
 それにしてもと、シルニンは訝しく思った。なぜこのような時間に息子の私室を訪れていたのであろうか。
 貴族の慣習として、ストーレの闇の時間に女性が自室を出るのは好ましくないとされている。家族間であってもその慣習は従うべきものであり、夫婦の間でも、夫が妻の私室を訪れることはあっても、その逆は無い。ましてや、テムルル・テイグの後妻レリデとエイグとは義理の間柄である。
 立ち止まっているシルニンに、テムルル家の召使いが声を掛けた。
「シルニン様、如何なさいましたか?」
 シルニンは我に返った。
「いや、何でもない。行こう」

 エイグの私室の前で召使いが扉を叩くと、すぐに中から返事があった。
 召使いは、シルニンに恭しく頭を下げた。
「どうぞお入りください。すぐに香茶か甘露酒をお持ちしましょう」
「では、甘露酒を」
 シルニンは扉を開けた。

 奥の椅子に腰掛けていたテムルル・エイグが、シルニンを見て立ち上がった。
「わざわざのお越し痛み入ります。シルニン殿をこのような場所にお呼びするなど、無礼であると心得てはいるのですが」
 思いがけずも謙虚なふるまいを見せるテムルル・エイグであった。
「なに、気にせずとも良い。突然父上を亡くされ、驚きと悲しみは如何ばかりかと、葬儀の後も気になっていたところであった」
「ありがたきお言葉。どうぞお掛けを」
 シルニンは、勧められるまま、テムルル・エイグとは斜向かいの長椅子に腰を下ろした。
 椅子の前に配置された卓には呼び鈴と香炉が置かれ、香炉からは薄い煙が広がって、甘美な香りが漂っている。
「父の死に驚いてはおりますが、悲しんでいるかと申しますと、そうとも言えません」
 テムルル・エイグが、探るような目でシルニンを見た。
「悲しんではいないと?」
 訝しみながら、シルニンは聞き返した。
「私は父をあまり好きではありませんでしたので」
 シルニンは頷いた。
「父と息子は、往々にして反目し合うからな」
 安堵のためか静かに息を吐き、テムルル・エイグは言葉を続けた。
「しかし、母と妹は気落ちしています。私は心配なのです。次妃とはいえ妹リルデはまだ年若く、母レリデは世間に疎い。成り上がり故に貴族の中に当てに出来る親戚も無く、政敵の多かった父亡き今、後ろ楯の無い妹リルデはいつ命を狙われるか分からず、母レリデは、夫を亡くした悲しみも然ることながら、娘リルデを心配して涙の乾く暇もないのです」
()もありなん」
 シルニンが同情するように言うと、テムルル・エイグは憂いに沈む横顔で、さらに言葉を続けた。
「母レリデは、田舎貴族の出とは言え気位が高く、他人の前では、たとえ自分の召使いの前でも、決して弱みを見せようとはしません。母レリデが唯一弱音を吐けるのは息子である私だけ」
「そうか、そうであったのか」
 シルニンは、エイグの私室を何故レリデが訪れていたのか納得した。愚痴や泣き言を聞かされるのは辛いものだ。シルニンにも覚えがある。妻の愚痴に言葉を挟もうものなら、愚痴の矛先は自分に向けられる。辛抱強く黙って聞き、相手の気が晴れるのを待つしかないのだ。
 エイグはなおも言葉を続けた。
「自分の身さえもおぼつかぬのに、母と妹とテムルル家を守らねばならない。長男として当然のことながら、シルニン殿もご存じの通り、今まで自由気ままに過ごしてきたゆえに、覚悟も準備もできずにいる不甲斐なさ。弱音を吐ける相手も無い私の胸中をお察しくださるだろうか」
 エイグは、深い憂いに顔を伏せ、目だけを上げてシルニンをじっと見た。
「あ、ああ、無論だとも」
 シルニンは、思わず息を呑んだ。テムルル・テイグの後妻レリデの匂うような美しさとはまた違った、 艶麗(えんれい)な横顔。 蠱惑的(こわくてき)ともいえる雰囲気。着飾って美を競う貴族豪族達の中には美男美女も多いが、テムルル・エイグは、それらとは別格の 凄艶(せいえん)なる貴公子だった。

 シルニンは迷った。放蕩息子という世間の評価とは裏腹の、思慮深い一面をも見せる、この並ではない若者に、どんな言葉を掛ければ良いのか。

「人は誰しも弱い。恥じることなど無い。わしで良ければ、いくらでも力になろう。わしには、まだ幼いが息子もいるし、こう見えて意外に顔が利くのだ」
 シルニンは緊張しながら、選び抜いた言葉を口にした。

 テムルル・エイグが顔を上げる。その表情がわずかに緩み、笑みを浮かべたように見えた。
 宝石のような緑色の瞳が煌めき、如何なる美姫もおよばぬであろう涼やかな横顔。これほど美しい生き物が存在し、しかも手を伸ばせば届く目の前で静かに笑みを浮かべている。
 シルニンは、テムルル・エイグの肩へと手を伸ばした。
「失礼いたします。甘露酒をお持ちしました」
 戸口で声がして、召使いが盆を運んでいた。
 伏し目のまま入ってきた召使いは、エイグとシルニンの前にある卓上に盆を置き、邪魔にならぬ場所に香炉をずらすと、甘露酒と盃を卓上に載せて盃に甘露酒を見たし、伏し目のまま盆を持って下がっていった。

 シルニンは、伸ばしかけていた手で甘露酒の盃を取った。
「い、頂いて良いか? わしはこれに目が無い」
「どうぞ、お好きなだけ」
 静かな微笑みで答えたテムルル・エイグは、シルニンが盃を空けるのを見るや、シルニンに鋭い眼差しを向けた。
「シルニン殿、頼みがございます」
 ただならぬ雰囲気に、シルニンは盃を手にしたままエイグを凝視した。
 エイグの視線はシルニンの目を捉えて離さない。
「父である丞相テムルル・テイグが殺害され、その犯人と思われる大連トルキル・デ・タウル・ロスルは行方知れずで、テムルル派もトルキル派も分裂し、各々に次の覇権を競っている。機会あらば完全なる独立をと狙う衛星国や属国が、この混乱に乗じて事を起こしても不思議はない。ウルクストリアの宗主国たる威権を顕示すべき今、頼みの宗主陛下は温顔ながら凡庸なお方。この 狂瀾(きょうらん)既倒(きとう)(めぐ)らすには、シルニン殿の采配に頼るしかないと、私は考えるのです。宗主陛下と次妃である妹を助けていただきたい。そして、父を惨殺した犯人には罪の償いを」
 エイグは、決断を迫るようにシルニンに強い視線を投げた。
 シルニンはたじろぎ、思わず体を後ろに反らせる。
「尤もなことだ。わしとて、必ずや、と胸を叩きたい。だが……」
 シルニンは、盃を持った手を震わせた。
「わしこそ不甲斐ない。今はまだ、わしにそこまでの力は無い」
 シルニンは、力なく盃を卓上に戻した。
「明日からは違いましょう」
 確信に満ちたようなエイグの声にシルニンが顔を上げると、エイグは、憂愁に沈む横顔で甘露酒の盃を口にしていた。
 今のは聞き違いだったのか。
「このような時間までお引止めして、誠に申し訳ございません。シルニン殿と膝を交えることができ、有意義でありました。どうぞお忘れなく。父テムルル・テイグ亡き今、ウルクストリアの運命、そして、宗主陛下の次妃リルデと兄であるこのエイグの運命は、シルニン殿次第であると」
 テムルル・エイグは立ち上がり、卓上の呼び鈴を鳴らした。
「エイグ様、お呼びでございますか?」
 控えていたらしい召使いが、戸口から答えた。
「シルニン殿を門までお送りするように。急に冷えてきたゆえ、 水鼬(ミズイタチ)の外套をお貸しせよ。風邪など召されては申し訳ない」
 シルニンは立ち上がった。軽い 眩暈(めまい)を感じたのは、甘露酒が強すぎたのだろうか。
 シルニンは、部屋を出しなにテムルル・エイグを振り返ったが、その表情は読めず、眉目秀麗な額の内に秘められた思惑が何であろうと、シルニンには推し量りようもなかった。

 シルニンを見送った召使いが、甘露酒の瓶と盃を片付けに盆を持って戻った。
「エイグ様、香炉で媚薬など、お珍しい」
「ただの 酔狂(すいきょう)だ。媚薬などといっても眉唾物。茶番の足しにもなるまいよ」
 エイグは、溜め息をつき、香炉の蓋を閉じた。
「リルデ様よりの (ふみ)は如何なさいますか?」
「今しばらく放っておこう」
「部屋の明かりは如何いたしましょう?」
「ああ、もう消して良い」
 召使いは、明かりを消して部屋を出た。

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