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情熱の行方

  
  
「潤平。次の休み、山登りに行こう。今度は上級編だ」
 昼休みの社食で、先輩の桐山哲夫にそう声をかけられた飯田潤平は口に含んだカレーライスを飲み下しながら、露骨に嫌な顔をした。
「いやですよ。この間の山、僕すごくしんどかったんですからね」
「お前は情熱が足りないんだ。ファイトだ。ファイト。とにかく準備しておくから、体力づくりしておけ」
「ちょっ――」
 こちらの言い分も聞かず、哲夫が去っていく。
「なんなの、もう――それだけ言いに来たの?」
 哲夫は社食を利用しない。同棲している婚約者に毎日弁当を作ってもらっているからだという。
 ほんとにいつもいつも勝手なんだから。僕の体力も考えてくれないと――
 潤平は残りのカレーを口にかき込んだ。

                  *

 潤平は哲夫を尊敬していたが、彼の山登りにかけての情熱は半端なく、それに付き合わされていることに大迷惑していた。
 研修で初めて会った時、他の先輩たちよりも楽しみながら生き生きと仕事をする哲夫に好印象を抱いた潤平は直の後輩になりたいと願っていた。結局、配属された課が違い直接親交を深めることは無理になった。
 だが、しばらくして業務も慣れた頃、たまたま廊下ですれ違った哲夫に登山しないかと誘われた。
 目に留まっていたのかと嬉しくて二つ返事でOKしたのだが、ふたを開ければ何のことはなかった。登山熱がウザ過ぎて誰にも相手にされていないだけだったのだ。
 同課の新人に嫌われ、何も知らない別課の潤平に矛先が向いただけだった。
 それでも最初は小学生の遠足のような登山で、木々や花々の名前を教えてもらいながら景色を眺めて歩くのは楽しかった。至れり尽くせりで弁当やおやつまですべて準備してくれていた。
 だがそれは哲夫が気を遣ってくれたわけではなかった。登山熱で迷惑を被る後輩へのせめてものお詫びだと婚約者の景子が持たせたものだった。
 独り暮らしには久しぶりの手作り弁当は素晴らしくおいしかった。
「料理上手の奥さんですね」
 当時はまだ二人の関係をよく知らなかった潤平が感心すると、「違う、違う。まだ結婚していない。ただの彼女」と哲夫に屈託のない笑顔で返された。
 うわぁ、『ただの彼女』って――この人、女の気持ちわかってあげられないタイプの人だ――彼女さんはこんなに先輩に尽くしてるのに――
 そう思っても交流浅い先輩に意見などできるはずもなく心の中だけで呆れていたのだが、哲夫が忖度できる人間ではないことにここで気付くべきだった。
 もとからアウトドアが苦手な潤平は今度誘われたら絶対断ろうと心に誓っていた。だが、今は先輩に対する礼儀が必要だ。そう考え「すっごく楽しい。また来たいです」と言葉を選ばず、うっかりそう口にしてしまった。
 それがいけなかった。潤平が登山の気持ち良さに目覚めたと都合のいい勘違いをされてしまったのだ。
 こんな人だと気付いていたのに――
 悔やんでも悔やみきれなかったが、潤平はそれからも熱烈に誘ってくる哲夫とその度に難易度が上がっていく登山に付き合っていた。
 中級あたりで我慢できなくなった潤平は思い切って誘いを断ったことがあった。たまには映画にでも行きましょうと。
 だが、「そのうちやめられなくなるくらい好きになるから。ファイト、ファイト」と笑って取り合ってもらえなかった。明日の仕事に差し支えるからと何度訴えても、登山が嫌いなのでいやだと明確に訴えても、哲夫はまったく聞く耳を持たなかった。

                  *

「先輩、もう無理、ダメです。マジでここきつすぎます」
 宣言通り上級者コースに連れて来られた潤平は泣きたくなった。
「何言ってんだ。このきつさがたまらなくいいんだよ」
「へ、変態っ」
「ははは」
 断崖の岩場に張り付いて、遥か上にある哲夫の靴裏を睨む。
 ようやく景子と結婚する決意をしたのか、潤平は登山する直前に、二カ月後に行われるという結婚式へ招待された。招待状は後日届くそうだが、かわいがっている後輩に先に知らせたかったのだろう。
 途中の平らな場所にやっと到達し、潤平は一息つこうと座り込んだ。
「よしっ、行くぞ」
 先に休憩していた哲夫が腰を上げて進み出した。
 もう、ほんとやだ。この人は疲れ切った後輩を休ませてやろうという気もないんだな。
「ち、ちょっと待ってくださいよ」
 ため息をついて潤平は項垂れた。
「何言ってんだ。ファイトだ。ファイト。見ろこの高み、こんな景色、山登りをするからこそ拝められ――うわっっ」
 その声に顔を上げた。
 たった今立っていた場所に哲夫の姿がない。
「先輩?」
 潤平は立ち上がって辺りを見回した。
「じゅ、じゅんぺー。ここだ。ここ、あ、足滑らせた――」
 哲夫の必死の声が足元から聞こえてくる。
 慌てて寝そべり下を覗く。切り立った崖に哲夫がぶら下がっていた。景色を見るのにぎりぎりまで寄ったのだろう。
「せ、先輩っ」
 窪みに両手を掛けているが、足下は宙ぶらりんだ。
「は、はやく、手、手を貸せ」
 哲夫に急かされたが、くらっと眩暈がした潤平はいったん仰向けになった。
 広がる青い空に綿菓子のような白い雲がゆっくり流れていく。深呼吸して落ち着きを取り戻し、もう一度覗き込んだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「は、はやく、手を引っ張れ」
 辛そうな声だ。
 手は届く位置にあったが、潤平はそれをつかむことができず、じっと哲夫を見つめていた。
「は、はやくっ」
 哲夫の額から脂汗が滲み、玉になって流れ落ちていく。
「僕、できません。」
「な、なんでだ。あ、そうか、無理矢理登山に誘う俺なんか死ねばいいと思ってるんだろ」
「違いますっ!」
「だったら、はやく、助けろ」
 哲夫の手がぶるぶる震え始める。
「で、できません。僕――先輩の手、握れません」
 潤平の顔がみるみる赤く染まった。
「は、はやく、してくれえ」
「ぼ、僕、先輩が好きなんです。すごく好きなんです。だから恥ずかしくて手なんて握れません。
 ああ――僕の胸、今にも死にそうなくらいバクバクしてる。ほんとに、ほんとに好きすぎて触れることもできない――」
「はあ? 冗談はやめてくれ。死にそうなのは俺だ。
 はやくっ、手がもたない」
「無理なものは無理ですって」
「この状況で冗談はやめろっ、いや、やめてください。お願いだから助けてくださいっ」
「ねえ、先輩。本当に冗談なんかじゃないんですよ。
 でも僕から愛の告白なんて絶対嫌でしょ? 素敵な婚約者もいることだし――」
「そんなことないぞっ。お前の気持ちはわかった。なんでもする。だからはやくっ」
「そんな簡単にわかったって言われても――」
「い、いいかげんにしろっ」
 哲夫の声に怒りが帯びる。
「ほらぁ、助けてもらおうと思って言ってるだけじゃん」
「わ、わかった――お前の気持ちをひゃ、百歩譲ろう。
 よく考えてみろ。このままだとお前の愛する俺が死んでしまうんだぞ。それでもいいのか?」
 真っ白になっている哲夫の指先を見つめながら潤平は頬杖をついた。
「やっぱ百歩譲らなきゃダメか――そっか、そうだよね」
「お、おい、なにぶつぶつ言ってんだ――」
「先輩がここで死んだら僕だけのものになりますね」
「はあ? な、なに言ってんだ」
 潤平はポケットから携帯ナイフを出した。
「な、なにをする気だ」
「先輩の最期、景子さんじゃなくて僕がそばにいられたこと、とても幸せです」
「や、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」

                  *

 厳かな葬儀場では読経が流れ、大勢のすすり泣きが聞こえていた。
 祭壇に据えられた桐山哲夫の遺影にはもう二度と見ることができない爽やかな笑顔が浮かんでいる。
 遺族席に座る哲夫の両親と景子の打ちひしがれた姿は参列者の涙を誘っていた。
「かわいそうに。もうすぐ結婚式を挙げる予定だったのに――」
「登山中、高い崖から滑り落ちたんですって」
「後輩が一緒だったそうだけど」
「助けられなかったのかしら」
「見つかったご遺体めちゃくちゃひどかったらしいわ」
「ご両親には見せていないって」
「ショックが大きいよね」
「葬儀は婚約者の方がすべて取り仕切ったって。ご自分も悲しいだろうに――」
 あちこちで同僚や友人たちの囁き声が聞こえていた。
 そこに読経を上回る慟哭が会場内に響いた。
「先輩――すみません――僕のせいです。助けられなくてごめんなさいぃぃ」
 座席の前列で項垂れていた潤平が遺影に向かって土下座する。何度も何度も床に頭を擦り付けて泣き崩れていくさまにみな目頭を押さえた。
 景子が走り寄り、潤平の体を起こした。
「景子さん、ごめんなさい。僕がちゃんと、ちゃんと助けられていたら――」
「あなたのせいじゃないのよ、潤平君。
 こんなことになったのが潤平君じゃなくて良かったってきっと哲夫も思ってるわ。
 さあ、席に戻って」
 景子に支えられ座席に戻った潤平は顔の前で両手を組んで祈りを捧げた。
 その手に小瓶が包まれていることは誰も知らない。
 透き通った液が入ったその中には哲夫の左手薬指が静かに沈んでいた。

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