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甘い糸

 フランスから帰ってきて、二週間が経った。

「太一~、私のガリガリ君食べたでしょ~」

 太一はゲームをしながら「食べてないよ」と見え透いた嘘を言う。ちょっとしたイントネーションの違いでわかるのだ。というか、隠す気もホントのところは無さそうだった。

「こいつめ、こいつめ」

 脇腹をつま先でくすぐる。

「あー、もう姉ちゃんやめてよ!もう!なんで平日なのに、家いるんだよ~!」
「夏休みの残りですー。お前こそ風邪なら寝なさい、小童め」

 総司さんに話してからは速かった。

 労働組合全体の問題として動き、他の社員からも証拠を集めた。

 笑ってしまったのは、加藤さんは電話が長いと実は取引先からも苦情が来ているということを、営業伝いに聞いたことだった。

実質、全然働いていないということ、そのしわ寄せは課員に行っているということ、そのくせパワハラまでするということ。さらには加藤さんの下にいた人々は次々に辞めているということまで、データで示された。

 労働組合は、厳正な対処を会社に求めた。

 結果として、一週間前に加藤さんは他の地方支部に異動が決まった。一課員としての降格人事つきだった。数ヶ月カスタマーサービス課で修行をしてから、地方へ異動となるらしい。

 数日間は加藤さんと一緒に働いたので、その間怨嗟の目をこちらにずっと向けていたが、睨み返すとすぐに目を逸らすのだった。次第に、こちらを見ることもなくなった。

「あなたが言ってくれたおかげよ」

 総司さんが言った。渋る橘さんを相手にせず、推し進めてくれたのは総司さんだったので、私はお礼を言った。

「ううん。辞令までの数日間辛かったでしょう?ごめんなさいね」
「いえ、特には」

 私がそう言うと、総司さんは二回頷いた。

「あなた、いい度胸してる。どう?来期の労働委員にならない?私ともう少しこの会社マシにしない?」

 私はマシという言葉に吹き出してしまった。

「考えときます」

 私はそう返事した。



「ふ~ん、それは良かったね~」
 カズナリ君が真後ろで言った。今のカズナリ君は人間ソファと化している。いわゆるバックハグの状態で、私たちは座っていた。

 もちろん、カズナリ君の家でのことだった。パリで描いてもらった二人の絵が壁に貼ってあった。

「うん。フランスの経験が役立ったよ」
「フランス?」
「うん。タクシーのストライキにあったでしょ?」
「うん」
「ストライキで私たちは遅れたけど、空港の人とか迷惑って感じじゃなくて『それは仕方ないね。当然の権利だし』って感じだったじゃない?」
「ああ、今振り返ればそうだったかも」
「やっぱり権利は使っていかないとダメなんだな~って思ったの。利権とは違ってね」
「それはそうだね」とカズナリ君はうれしそうに笑った。
「結果として、ウチの課の経験者が一人戻ってきてくれて、仕事も大変楽になりましたし」
「それで、残りの夏休み取れたと」
「今はそんなに仕事もないからね。佐々木くんと順番に取ってるの」

 カズナリ君はそっかーとつぶやくと、天井を向いて黙った。

「どしたの?」
「う~ん、いや、佐々木くんって、サエさんのこと好きだったりしない?」

 突然の発言に、私は大笑いしてしまった。

「なにそれー?そんなわけないじゃん」
「いや、この前電話した時、サエさんの同行者だって言ったら、変な感じしたから。まぁ、男のカンってやつ?」
「あはは、アテになんなそう」
「こいつめ」

 そう言って、首元に唇を寄せてくる。

「ちょっ、やっ」

 体が甘く痺れる。手が胸元に伸びてきて、私は流されそうになるが、なんとか脱出する。

「そ、そうそう、悪いんだけど、旅行代、月々分割払いでお願いします」
「そんなの、良いって言ってるのに」

 カズナリ君はどうも本当にお金持ちらしい。もう辞めてしまったが、株で大儲けしたそうで、その貯蓄で暮らしているそうだ。

「ど、どのくらいあるの?」と、つい恐る恐る聞くと「人生七回遊んで暮らせるくらいかな」とどこかの漫画で見た頃があるようなことを言われた。

 なんでこんなところに住んでいるのかと言えば、家にこだわりがないという理由一点に尽きるらしい。他に家族の影が見えないと思ったら、一人暮らしだった。

「ダメ、払うから」

 体を向き合わせて、そう言った。

 ちょっとそこまで甘え過ぎては、際限がなくなってしまう気がして怖かった。それに、なにより対等でいたいのだ。なるべく。

 カズナリ君が大きな手を伸ばし、私の頬に触れる。

 そして、微笑む。どこまでも甘く優しく、そしてどこか意地悪く。

 だから、私も意地悪く微笑む。

「ね、旅行にゴム持ってきてたよね?初めから、その気だったの?」

 カズナリ君は、一瞬呆気に取られて、吹き出す。

「万が一ってことがあるでしょ?」
「ふ~ん」
「むしろ褒めて欲しい。背中拭いてって言われて襲わなかった俺を」
「病人デスよ?」
「いや~、真っ裸なのには驚いたね」
「それはごめん」

 キスをされた。

 私たちは、唇をはなすと、笑ってしまった。ずいぶん色気のないことだ。でも、明るくて、楽しい。

 カズナリ君といると、素直になれる。素直な自分が、好きになれる。

 ずっと、キスをしていたいって、思う。

「サエさん、好き」
「私も好きだよ、カズナリ君」

 私たちは、甘くて深いキスをした。

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