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蜂蜜の時間

「あっ、にゃんこ」

 今度は本物の生きた猫がいた。真っ黒なふわふわとした毛だ。尻尾が右へ左へふにゃふにゃ踊っている。

「おっきい」

 私たちは自然と猫の後を追っていった。けれど、猫は案外お高くて、触らせてはくれなかった。トトンッ、と身軽に連続でジャンプして、建物の上の方に行ってしまった。

「残念だったね」
「ね」

 気づくと私達は賑わった小道に入っていた。そこには多くのお土産屋があり、絵が中心に売られていた。

「ボンジュール」

 急におじいさんが声を掛けてきた。

「ボンジュール!」

 カズナリ君は照れなく切り返し、私は「ボ、ボンジュール」とまだちょっと照れながら応えた。

 おじいさんは笑顔で旅の思い出に似顔絵はどうか?ということを言ってきた。見ると、手には大きなスケッチブックを持っていた。

 そう言えば、この通りは観光本によると、そういう通りだった。

 モンマルトルというのはピカソやマネなど名だたる画家が暮らしていたことでも有名だった。そして、この通りは今でも絵描きがたくさんいるのだった。

 おじいさんはさっきのミサンガ売りの人たちとは違い、一人で来て、一人で交渉していて、紳士な感じもした。

 しかし、値段は二人で70ユーロだという。ということは、一万円弱。似顔絵ってそんなにするのか。

「70ユーロ?いいよ」

 けれど、カズナリ君はあっさりオッケーしてしまった。

 ま、旅の思い出ってことで、とカズナリ君は笑った。

 私たちはおじいさんの前に並んで座った。おじいさんがやさしい微笑みで、もう少しくっついてと言う。

 私はカズナリ君の肩にもたれかかるようになった。

「結構恥ずかしいかも」
「さっき、美術館でも同じようなことしたじゃん」
「あれは別」
「難しいなー」

 顔のほてりは風にさらわれて、自然な温度に変わっていく。穏やかな時間をしばらく過ごした。

 無言でも、絵に描かれている時間なのだと思うと、無駄な感じがしない。

 現代人らしく、無駄な時間があるとちょっと焦りを感じてしまうけど、キャンバスの前に座っている時間は、昔のパリの時間を味わっているかのようだった。

 それは無駄な時間ではなく、蜂蜜の動きのように甘くゆっくりと感じられた。

「良い時間を買った気がする」

 カズナリ君が言った。同じようなことを考えているのかな?と思った。違うかも知れないけど、それでも私たちは微笑み合った。上を向くと、すぐ近くにカズナリ君の顔がある。

 きれいで、まだ少し緊張する。

「時間すら買わなきゃいけないって、考えてみればなかなか悲しいね」
「サエさんもニートになったら?」
「ふっ、お金あったらね」
「そしたら、一緒に毎日ゲームでもしよう」

 私は笑った。

「太一たちも一緒にね」
 絵は写真とは違って、不思議な温かみがあった。あと、私の絵は増しで描いてもらえている気がする。おじいさん、やはり紳士だ。

「良い経験だった」カズナリ君が言った。「考えてみれば、似顔絵って初めて描いてもらったかも」
「たしかに」

 学校の授業で隣の席の人の顔を描くというのはあったと思うが、やはりそれとは全然別物だった。

 旅の思い出には消え物しか買ったことがなかったけれど、こういうのも悪くないと、改めて絵を見て思った。

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