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四章の七 世間一般でいうところの修羅場。

 一華は、夢を見ているのでは、と目の前の現実を理解できなかった。しかしながら実際に、文花が胸を張って突っ立っている。
 手で、目を(こす)ろうとしたが、文花の後ろに次朗が、ちらりと見えた。完全に、現実だと認識する。
 前日から変な電話が、次朗から架かってきた。どうもおかしいなあと感じていたが、それほど気にしなかった。
 そうか、これか、と納得する。納得はしたが、文花の後ろに隠れて様子を窺う次朗を、キッと睨んだ。
 しかし一華は、ちょっと前の自分ではない自覚がある。すぐ後ろに、力強くなった公季の存在があった。
 私には、新生尾藤公季が後ろ盾になってくれる。「そうだよね」と一華は振り向き、公季に顔を合わせた。
 公季の口がぽっかりと開いていた。眉毛は「ハ」の字になって、目をぱちくりさせている。首が後ろへ反って、体全体も仰け反り始めた。両手の指は、わなわなと落ち着きがない。
 一華は目を瞑った。

(やはり、この人は、私が守るしかない……)

 一華は、文花の正面を切って両腕を広げ、体勢を低くした。
 文花は、依然として腰に手を置き、胸を張って構えている。
 少しの膠着状態が続いてから、仕掛けたのは、文花のほうだった。

「なんなのよ。なんとか、言いなさいよ」

 顔に似合わず、腹の底から声が出ていた。一華は、内心ビクッとしたが、体勢、表情は変えまいと踏ん張る。
 なによりも、周囲が気になった。
 他人気の少ない場所を選んでいたが、近くは駐車場で、文花の大声が響き、ちらほらと遠目で視線を向けてくる者がいる。
 一華にとっては、大打撃だ。守る対象者の尾藤公季を、他人目に晒すわけにはいかない。
 一華は動いた。姿勢を起こして、文花にメンチを切りながら、しらっと南側に歩いて行く。一華の行動は、既に外なのに、表へ出ろ的な主旨になった。

「ちょっと、待ちなさいよ」

 文花も、一華にメンチを切り返し、並行してくる。
 一華は内心 (しめた)と思った。隠れたところで公季に、左手の甲を向けて振った。「シッシッ来るな来るな」と、合図して追い払う。
 そこから一華は、文花だけを見据えて、ひたすら歩く。
 途中からは、足を速めた。文花を見据えなくなり、置いてけぼりにまでしようとした。
 文花が「ちょっと、どこに行くのよ」と怒鳴っても、構わず歩いた。いくつもある駐車場の、仕切りの芝地を跨ぎ、道路を跨ぎ、また駐車場を跨いだ。
 海が見えてきた。潮の香りもしている。海風もあったりする。本来ならば清々しい気分になるはずだが、今から修羅場を迎える一華にとっては、邪魔以外の何ものでもなかった。
 ビーチまでは行かず、手前の舗装された広場で足を止める。ここでも他人目を気にした。道すがりの者は、しょうがないが、一対一の場所としては、最良の場所といえた。

「こんなところまで追ってきて、いったい何のつもり?」

 二メートル間合いをとってから、一華は吐き捨てる。さっきまで抱き合っていたのに、公季とは何でもないと(しら)を切ろうとする、力技を仕掛けていた。
 対する文花は、一歩、前に出た。右で、平手打ちをしてきた。

「なんなのよ!」

 一華も仕返した。一華のほうが身長が低く、頬というよりは顎を掠めた。

「ど、どっちが悪いと思っているのよ!」

 文花が再び平手打ちをした。
 一華は躱そうともせず、むしろ気合で頬を差し出す。

「いい加減にしなさい」

 一華はまた、頬というよりも、顎に平手打ちを仕返した。

「なんで、また叩くのよ!」

 文花は、一回二回と連打した。
 さすがに、気合で受け止めるのは、きつい。一華も連打で仕返す。

「なんであなたが叩くのよ!」

 文花は、一回二回三回と叩く。
 一華は、反射的に左手で防いだ。叩き合いになっても、気合で凌げる気がしていた。しかし文花は、まったく止めようとはしない。

「ちょっとは手加減しなさいよ」

 一華は、文花の頬を(つね)った。

「か、顔はやめなさいよ」

 文花は、一華の右手を払いのけ、襟元を掴んで体重を掛けてくる。そのまま取っ組み合いに縺れ込もうとしていた。
 あえて一華は、ドタバタと地面に誘い込む。
 一華は、ここら辺りで、どうでもよくなった。仰向けになって、下になってやる。
 とにかく、フィニッシュ・ブローがなかった。格闘技どころか、取っ組み合いの喧嘩だって、やった経験がない。だから、どうやったら人が停止するのか、分かるはずがなかった。
 文花は馬乗りになってきて、右の平手で頬を二発、肩に握り拳数度、もう一回、右の平手で頬を叩いた。

「せっかく、友達だと思ったのに……」

 文花は、顔をくちゃくちゃにして、大粒の涙を落とした。面と向かって言われた一華の額には、水滴がぽとりぽとりと落ちる。

「だ、大丈夫……?」

 今更ながら近くにやってきた、公季の姿が見えた。後ろでは、次朗も控えている。公季も次朗も弱弱しく、おどおどとしていた。

「来るなあ~」

 一華は叫んだ。左手の甲を公季に向けて振り、「シッシッ来るな来るな」と、追い払う。
 一華を馬乗りにする文花は、両手で顔を覆い、「ぶえーん」と声を上げて泣き始めた。一華だって、本当は泣きたい。泣きたかったけれど堪えた。代わりに、目を瞑って気持ちをごまかした。
 目を瞑った勢いで、顳顬(こめかみ)に水滴が流れた。

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