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三章の五 文花の失恋。

 一華に相談してから五日後。文花は、東区泉にある画材屋の近くを、うろちょろと徘徊していた。
 土曜の街中で、人通りは多く、なおかつ文花の外見は目立つから、通行者は皆、横目で見ていく。
 目的は〝元彼氏〟の高嶋仁志に、偶然を装っての再会をするためだ。
 電話やメールをしても、返ってきそうにない。無理に電話、メールをして返ってこなければ、それはそれで傷つきそうで怖かった。
 仁志は土曜の午前中に、必ずといっていいほど、東区泉の画材屋に立ち寄る。本人から聞いていたし、実際に何度か、一緒に店内に入った。
 付き合っていた頃は、あまり気にならなかった。欲しい画材があるのか、それとも画材店の雰囲気が好きなのか、どちらかなのだろう、程度にしか思わなかった。
 仁志は美大卒業後、インテリア関係の仕事に就きたいと、就職浪人二年目に突入していた。浪人身分のかたわら、ここ東区泉にある画材屋から、それほど遠くない居酒屋でアルバイトをしている。
 文花は、仁志と別れてから、なぜ画材屋に立ち寄っていたのか? と想いを巡らせた。あまりにも特殊な行動で、遠ざかってから、やっと深く考えた。
 行きついた、考え抜いた先は、仁志の別れたい理由に直結しているのかも? と無理に関連づける。
 慣れない張り込みなんてやるもんじゃない。白のワンピースにベージュのカーディガンの装いで、ただでさえ目立つ文花の姿は隠せなかった。
 もう少し、派手じゃない格好にすればよかった、と後悔する。しかし一方で、これから会うであろう仁志への見栄も必要であり、しょうがなかったと気持ちを切り替えた。
 通りを跨いだ向いに、小さな神社がある。本当に小さく、こじんまりとしていた。周りが高い建物ばかりで日差しが遮られ、薄暗い。こんな街中にあるところをみると、よほど古い創建なのだろうと、想像をかきたてられた。とにかく、ちょうどいい張り込み場が見つかり、入口の狛犬の影に隠れる。
 長時間の覚悟をしていた。午前十時から始めて、午後一時までは張ろうと思っていた。
 午前十時三十分に、Tシャツにジーンズという出で立ちの仁志が、久屋大通り側から姿を見せる。地味な格好でも、長身でスラリとしている仁志は、通りを跨いだ側からでも、すぐ確認できた。
 仁志が、画材屋に入って行く姿を確かめると、文花は急いだ。
文花には計画があった。仁志が店から出てきたところを、偶然ばったりと再会する。なぜだか、そんなシチュエーションがベストな気がしていた。
 店の前で待った。何度か、人が出て来る気配を感じた。その度に、ばったり感を装って、入口に近づく。違うと見るや、またすぐに、店の前から離れた。
 仁志が店内に入ってから、かれこれ十五分は経過していた。もう、緊張状態に耐えられなくなった。ちっとも出てこないから、裏口でもあるのかと勘繰ったりもした。ここまで来て、取り逃がす最悪のシナリオだけは避けたかった。
 文花は、計画を変更した。店内突入を決意する。
 しかし、店一つ入店するだけなのに、恐ろしく緊張し、口の中が乾いて張り付いた。このまま仁志を前にして、ちゃんと話し掛けられるか、不安になった。
 画材店は、八階建ての内、一階から六階までが、店舗になっていた。
 一階から三階までが画材等を販売しているフロアで、四階がギャラリー、五階が事務所、六階が模型材料を扱っている。
 入店すると、ショパンの『幻想即興曲』が流れていた。いつもであれば、気分よく聞き惚れるが、そんな余裕は全然ない。
 文花は、一階フロア内を隈なく見回った。年配の女性一人を、コピック・マーカー・コーナーで見かける。
 出入口は一つしかなく、二階に繋がる階段も一つしかない。もう一度だけ一階フロアをぐるりと回ってから、二階へと上がった。
 二階に上がると、すぐにレジ・カウンターが見えた。そのまま左手側のレジ・カウンターを横目にし、右手側に見えてきた一本目の通路を、チラリと見てから通過する。一瞬でも、左右に(うずたか)く、アクリル絵の具の陳列が確認できる。なによりも通路の奥まで、人一人いなかった。
 右手側の一本目の通路を通過すると、すぐ突き当たった。左手側を見ると、エレベーターが見えた。

「しまった」と慌てた。確か、建物一階に、エントランスがあった。エントランスの奥にエレベーターがあったのだろう。幸いにも今現在、エレベーターは稼働していない。一階フロアをぐるりと見回り、階段で二階へ上がってきたときに、エレベーターで入れ違いになっていなければ、と願った。
 気を取り直して、エレベーターの反対方向に向き直した。仁志が、三メートル先に突っ立って、文花を見ている。

「あ、久しぶり」

 予定どおりの第一声は繰り出せたが、次の「元気だった?」は、出せなかった。
 仁志は、一度だけ目を合わせてきたが、すぐに陳列されている筆に目が行き、誰とも接していない素振りを見せた。
 文花は近づいて「ねえ」と呼び掛けた。仁志の横顔は(しか)めっ面になり、文花に背を向けて奥に歩いて行く。
 再度文花は「ねえ」と呼び掛けて追いかけた。仁志は、黙って先へ進んで行く。文花は、仁志の後を()いていくしかない。
 ぐるぐると二階フロアを歩く仁志の、後を歩く文花は、店内の『幻想即興曲』が気になる。なんで、今のこのタイミングで『幻想即興曲』なんだ、と嫌な気分を助長させた。
 仁志は、何も買わずに店内を出る。文花も、同じく店内を出た。

「ねえ、話があるの」

 文花は、久屋大通りのほうへ歩く仁志に呼び掛けた。やっと仁志は、歩きを止める。

「俺には、話がない」

 一言ぼそりと、背を向けたまま返された。だが文花だって、このまま引き下がれない。

「どうして、別れたいの?」

 なんとしても、これだけは聞いておきたかった。

「分からねえのか? じゃあ、教えてやるよ」

 やっと振り向いた仁志は、気迫に満ち溢れていた。

「お前といると、こっちが見窄(みすぼ)らしくなるんだよ。これでいいか?」

 仁志は吐き捨てると、再び背中を向けて歩いて行く。
 文花は、その場で立ち尽くした。帰り道の、最寄りの駅までの記憶が一切なかった。

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