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『カズナリ君』

 最初の印象はヒゲモジャメガネだった。


 年の離れた弟の太一が、最近やたらと隣の家に入り浸っているという。

「姉ちゃん、オレもう小5だぜー、わざわざ挨拶なんてしないでいいよ」

 生意気な口を利くようになったものだ。私が就職する三年前まで引っ付いて離れようとしなかったくせに。就活にまで付いてこようとしたのが、もはや懐かしい。

「何いってんの。アンタ、休みの日は朝から晩までいて、朝昼晩ご飯食べさせてもらっているって言うじゃない。一度は挨拶しなきゃダメでしょ」

 ウチの両親は共々ゆるいので、私がしっかりしなければいけない。これはもう子どもの頃からの習慣だ。

「えー、カズナリ君、絶対そんなの気にしないけどなー」

 そのカズナリ君が問題だ。なんでも母と太一による断片的な情報を統合すると、二十代の男で、ずっと家にいて、ゲームが大好きで、子どもたちの人気者で、時には鬼ごっこや缶蹴りなども一緒に楽しむナイスガイとのこと。

 ・・・怪しい。

 私はその話を聞いて、これはマズい、と思った。言いたくはないが、ニートというやつではないか?いや、もちろんニートであることには何の問題もない。特に他人の私が口を挟む問題ではない。

 日本の労働環境を思えば、そりゃニートにもなりたくなるというもの。働きはじめて、それはこの山田紗英も実感致しました。

 ニートでもいい。けれど、いい年をした男が、子ども達を毎日部屋に招き入れて遊んでいるというと、何やら不健全な遊びまでしようとしていないか?大変申し訳無いが、その不安が拭いきれないのだ。

 偏見だということはわかっている。けれど、それを重々承知で私は安全を確かめたかったのだ。親が頼りにならないのだから、汚れ仕事だとしても、私がやるしかないのである。

 そんな覚悟を込めてインターホンを押そうとすると、「カズナリくーん!来たよー!」と太一はドアをいきなり開けて、中に入って行く。

「えっ、ええっ、自由っ!」

 驚いた。私の子どもの時代でも、ここまでオープンじゃなかったぞ。というか、この家鍵掛けていないのか。

 戸惑いながらも、ドアが閉まってしまいそうになったので、『カズナリ君』の家の玄関まで反射的にお邪魔してしまった。太一は一瞬で靴を脱いで、奥まで走って行ってしまった。

「あっ・・・」

 声を掛ける暇もない。もう他人の家の領域だから、声を荒げるわけにもいかないし。

 私はため息をつき、その場に立ちぼうけになった。

 他人の家の匂いがした。同じ間取りだけれど、全然匂いは違う。臭くはなかった。むしろ石鹸のような香りがして、丁寧な暮らしぶりが空気に染み付いているような気さえした。

「カズナリ君!こっちこっち~!」

 部屋の奥から、太一が大きな手を引っ張って出てくる。

 私は思わずツバを飲んだ。

 なぜなら、とても背が高かったからだ。190センチ近いのではなかろうか。そして、モミアゲに繋がるほどのモジャモジャヒゲに、分厚い眼鏡をしていて、服装は無地の黒Tシャツに灰色のスウェットだった。

 私は背が低いので、巨人を見る思いで上を見上げ『ヒゲモジャメガネ!』と心の声が自動的に上がるのを聴いた。

「あっ、ども~」

 『カズナリ君』は声は低いが、物腰の柔らかそうな微笑を浮かべて挨拶した。腰を心なしか折り曲げ、私に合わせてくれているのがわかる。

「あっ、あの、これつまらないものですが!いつも太一がお世話になっています!」

 私はちょっと緊張して、いきなり手土産のフィナンシェセットを渡した。近くのケーキ屋で売っているものを今朝買ってきたのだ。

「あっ、これはどうも、ご丁寧に」

 童話や絵本で鬼が女の子から花を受け取るかのような仕草で、『カズナリ君』は太い人差し指と親指を丸めて、袋の紐をつまんで受け取った。私はそれを見て、妙にドキドキした。

 私は何も言えなくなって、『カズナリ君』を見上げた。『カズナリ君』も私を見ていた。

「へへ~、姉ちゃん美人でしょー?」

 急に太一が誇らしげに自慢した。私は反射的に『ちょっと、やめて』と言おうとしたら、『カズナリ君』は「うん。そうだね」とやさしく微笑んだのだった。

 その笑顔は太一に向けられたもので、私はそれを見て、なんとなく大丈夫そうだな、と思った。普段は直感なんて信じないのだが、妙に腹にストンと落ちたのだった。

「太一がよく遊んでもらっているそうで、迷惑ではないですか?」
「いいえ。楽しいですよ」
「ご飯まで頂いてしまっているそうですけど」
「大したものじゃないので。つい、遊びに熱中しちゃいまして。あっ、逆に迷惑ではないですか?」
「いえ、そんなことはないです」

 太一が「だから、カズナリ君は気にしてないって言ったのに~」と唇を尖らせる。憎らしい奴め。

「こっちが気にするんだよ・・・」

 私が引きつって言うと、「じゃあさっ、カズナリ君が今度ウチでご飯食べればいいじゃん!交換!」とグッドアイデアと言わんばかりの表情を太一は見せる。

 『カズナリ君』が苦笑する。

「いや、それはさすがに気まずいぜ?」

 あっ、太一には『ぜ』とか使うんだ。その子どもっぽい言い回しに、普段の遊びの楽しげな様子が垣間見えた気がした。

「え~、いいじゃん~」

 太一が『カズナリ君』の手を引っ張ってぶらぶらする。完全に体重を後ろに預けているが、『カズナリ君』はビクともしなかった。表情は苦笑混じりのままだけど、眼差しはやさしかった。

「いいですよ。ぜひ来て下さい」
「えっ?」
「嫌じゃなければですけど」

 私がそう言うと『カズナリ君』は「いえ、嫌じゃないんで、行きます」と微笑んだ。

 その笑顔を見て、案外『カズナリ君』は女慣れしているのかなって思った。なんとなくだけど。

「やりー!あっ、姉ちゃん、オレちょっと遊んでくから!」

 太一がはしゃいで、『カズナリ君』の脇で跳ねる。

「いいんですか?」
「はい、もちろん」

 そう言うので、私は「そうですか。よろしくおねがいします。じゃあ、今日のところはこれで」と踵を返した。

「あっ」

 『カズナリ君』が声を上げたので、振り返る。

「名前、ぼくの名前は、冴島一成です。あなたは?」

 名前を聞かれた。そこでようやく名乗ってもいないことに気がついた。

「失礼しました。山田紗英です。太一の姉です」

 冴島さんは、軽く声を上げて笑って「名前、ちょっと似てますね」と言った。

「そうですね」私も少し笑った。

 それでは。

 ドアを閉めて、隣の自分の家に入る時『冴島紗英は無いな』と頭に勝手に浮かんだ。その思いつきに口の端が少し持ち上がった。

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