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一章の六 文花の別れ話。

 ウインドウ越しの空模様は、手前が灰色っぽく、遠くの雲は黒々としていた。天気予報は午後から雨だったが、いつ降ってもおかしくはない。
 文花は、セントラルパーク・アネックス近くの、ファーストフード店の二階で、恋人の高嶋(たかしま)仁志(ひとし)を待っていた。
 約束の時間は午前十時。だがすでに十五分も遅れている。
 今日は、仁志からの誘いだった。ここ最近としては珍しく、ここずっと、文花からの誘いが続いていた。
 仁志は、今日の日時と、待ち合わせ場所だけを指定した。「どこに連れていってくれるの?」と聞いても、教えてくれなかった。
 しかしながら、待ち合わせのこの場所が、だいたいを予想させた。
 セントラルパーク・アネックス内には、東急ハンズがある。何かの作品を作るために、まず用があるのだろう。
 仁志は、文花と同じ県内の美大出身で、インテリア関係に進む希望を持っている。在学中の就職活動ではうまくいかず、就職浪人も二年目に突入していた。
 午前十時二十分に差しかかっていた。さすがに、電話を考える。
 文花がスマホを取り出そうとしたときに、仁志は現れた。コーヒー一つが載ったトレーを、両手で持っている。

「あれ、一つしかないの?」

 文花は何気なく口にしたが、仁志は素っ気ない。

「嫌いじゃなかったっけ、ここのコーヒー」と。

「私、いつ、嫌いだって、言ったっけ?」

 なにか、噛み合わなかった。
 前回、遊びに行ったときにも、店舗の違う同じファーストフード店に入った。コーヒーを二つ頼んで、大してくつろぎもせず、すぐに店を出た。
 そのときに文花は、「もっといいところに入ろうよ」と提案した。近頃は、会える機会もめっきりと少なくなったから、会えるときぐらいは、ちょっと奮発しよう的な意味合いで話した。

「じゃあ、コーヒー欲しいの?」

 仁志は、あからさまに嫌な顔をする。

「別に、いいよ……」

 文花は、仁志の態度が気に入らないが、それでも、コーヒー一つで揉めるなんてみっともないと、自らが折れた。

「あ、そう」

 仁志の仏頂面は相変わらずで、文花の前に座ると、すぐにカップの蓋を取り、砂糖、フレッシュを入れずに、コーヒーを(すす)り出す。
 文花は、仁志のブラックを飲む姿勢が好きだ。砂糖をいっぱい入れる男なんて、カッコ悪いと思うぐらいだ。

「東急ハンズ、行くんでしょ? その次は、どこに行く?」

 文花は、少々険悪なムードだったから、仕切り直しの意味で明るく振る舞う。
 文花としては、せっかくここいらに来たのだから、ぶらっとお買い物でもしたい。

「いや、ハンズにも行かないし……」

 何だか、仁志は重苦しい。
 文花は、会って早々、何でこんなに黙り込むのかと、今の状況が呑み込めない。

「私ね、先週から会社に行き始めたんだけど、やっぱり、イメージとちょっと違っていてね……」

 無理に、会話を仕掛けていた。仕掛けてから、すぐに後悔する。

「そういえば、会社、入ったんだったな……」

 ずっと仁志には、今の会社について話さなかった。去年の秋に内定が来た際に、少し話題に出しただけだった。
 去年まで、文花も就職浪人で、仁志の気持ちは分かるつもりだ。

「で、イメージと違っていて、つまんないのか?」

 しょうがなく、といった感じで、仁志は話に付き合ってきた。

「別に、そういうわけじゃないんだけどね……」

 仕掛けた文花が、会話を打ち切る。仁志は、眉間に皺を寄せて横を向いた。
 思わぬ沈黙が続く。正確にいえば、店内に音楽がかかっていた。つい最近、どっかで聞いた唄だ。サビが、『ああ~、フミコ。ああ~フミコ』と、ファルセットを利かせている。
 文花は、洋楽は聞くが、邦楽は聞かない。であるから、曲名や歌手名などは知らない。

「なあ、俺と一緒にいて、楽しい?」

 仁志が、含み笑いで目を合わせてきた。

「もちろん、楽しいよ。そんなこと、どうして聞くの?」

 文花は、即答したつもりだったが、迷いが出たと自分でも思った。

「どこが楽しいんだよ?」

 仁志の含み笑いが消えている。

「どこって言われても……」

 どうしたって、即答できる質問ではなかった。三日三晩とは言わずも、長い時間ずっと考えたって、良い返答ができるとは思えない。

「じゃあ、なんで付き合ってるんだ」

 あまり、質問の難易度は変わらなかった。それでも文花は、いくつかの候補を思い浮かべる。
 だが、口にできる内容ではなかった。背が高い、顔が好き、外見が自分と釣り合う、などであったからだ。

「普通、そういうのって、女の子が聞くもんだよ」

 文花は、おちゃらけながらも、うまく切り返すことができたと思った。

「じゃあ、なんで俺が付き合っていたのか、言おうか?」

 仁志には、表情がない。文花は、仁志の誘導に頷く。

「顔と体と、そうだなあ。最初の頃は、体の相性ってところだったな」

 引き続き、仁志に表情がない。文花は、ただただ固まった。

「なあ、別れてくれないか」

 表情がなかった仁志に、どこかしら変化がある。どこかは、うまく説明できないほどに微妙な変化だった。

「嫌だよ、私。絶対に別れないから」

 文花は席を立ち、そのまま店から飛び出した。どうしていいか分からず、その場から逃げていた。
 街中の人ごみに混じったところで、やっと後ろを振り向く。追いかけてくる気配など、まったくなかった。

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