バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

03

 きっかけさえあれば、こんなにも鮮明に思い出せるのに。あれから始まった私の慌ただしい社会人としての、営業としての毎日に私は彼との記憶をすっかり頭の奥の奥にしまいこんでいたらしい。

「家出したって話したでしょ? あのときは、この近くにある祖父母の家に滞在していたんです。そのとき、はるかが就職も決まったし車を見に行くというので、家族共々付き添いでここに来たんです」

 松村さんが言っていた『うちでかくまっていた』というのは同居している祖父母宅を指していたんだ。松村さんがひとりで住んでた家ではないことに内心、安心する。

 それにしても、自分はいつから、こんなことでやきもちを焼く人間だったんだろう。知らない自分に戸惑いが隠せない。

 さらに聞けば、出会ったきっかけや、年が同じというのもあって、松村さんには私のことをずっと相談していたらしい。

 なのでこの前やってきたのは、車はもちろん彼がいつも話している私に会いに来たのが一番の目的だったんだとか。

 おかげで、ひとりで色々と勘違いしていた自分が恥ずかしくなる。

「五年前、あのときの市子さんにとっては、なんでもないことだったんでしょうけれど、正直俺にはすごく衝撃でした。単純ですけれど、なんか損得なくもう会うこともない他人の俺に、優しくしてくれて、会えてよかったって言ってもらえて」

 懐かしそうに話す彼の話を聞きながら、今の今まで忘れていた自分を責めざるをえなかった。それにしたって――

「忘れてて、ごめんね。でも、そんな一回会ったくらいで?」

「もちろん、ずっと好きってわけじゃなかったですけれど」

 勝手だとは思うけれど、あっさりと肯定され、軽くショックを受ける。それでも、隣に座っている彼は頬を緩ませながら私の頭に触れた。いつもより遠慮のない触り方だ。

「でも、会いたかったですよ。大学を卒業したあとの進路は、迷わず帰国して就職するって決めていましたし。市子さんがまだ働いてるんだ、ってここのブログもちゃんとチェックしてましたから」

 わざわざ、あんなブログを誰が見ているんだろう、と思っていたけれど、まさかの読者がここにひとりいた。そこまでするほどのことなの? そこまでして私に……
 
「会ってどうするつもりだったの?」

「会ってお礼を言いたかったんです。市子さんに会えたから、働くことにも前向きになれたし、なんだか抱えていたものが落ちて、ひねくれもせず勉学にも励んで日本語も上達しましたから」

「そのために、わざわざうちに就職したの?」

 やや声のボリュームが大きくなる。しかし彼は不思議そうに首を傾げた。

「いけませんか? 祖父母宅が近いのもありましたし、市子さんと同じ世界を見てみたかったんです」

 唖然として言葉が出ない。彼みたいな人材なら引く手あまただろうし。私は知らず知らずのうちに彼にとんでもない影響を与えていたらしい。

 それがいいことか悪いことかまでは測りかねるけれど。彼の手は私に触れたままで、頭を撫でながらも髪に指を通して遊んでいる。

 私よりも大きい掌や指先の感触がダイレクトに伝わってきて、なんだか胸が苦しくなってきた。それを吹き飛ばしたくて私は彼の方を見ずに口を開く。

「でも、がっかりしたんじゃない? 仕事も思ったよりも大変だし、ノルマもあるし。なにより私もこんなんだし」

「そうですね。俺のことまったく覚えていないし、失礼を承知で、あのときと同じように名前を訊いてみましたが、冷たく返されてしまいましたし」

「だって……」

 ちくちくと責められる言い方につい口ごもる。彼があのとき、あんな訊き方をしてきたのは、帰国子女でも素でもない。出会ったときと同じ尋ね方をしただけだったんだ。

 さらに、初めてのお客さまについても尋ねてくれたのに、そこでも思い出すことなくスルーしてしまったなんて、薄情なのもいいところだ。

「本当に印象違ってびっくりしました。出会ったときは、よく笑って、明るくて、仕事に対しても夢いっぱいって感じだったのに」

「勝手に憧れを抱いて、失望したっていうのはやめてくれる?」

 意識せずとも可愛げのない言い方をしてしまい、すぐに心の中で後悔する。けれど彼は気にする素振りなくあっけらかんと返してきた。

「失望なんてしていませんよ」

 そこで触れていた彼の手が頭を伝って、頬に降りてくる。その手の温もりに私は思わず彼の方を見つめた。その先にある彼の顔は想像していたよりもずっと穏やかだった。

「色々あったんですよね。俺が想像つかないような辛いこともたくさん経験して、それでも途中で投げ出さずに仕事を続けるために、必死だったんだなって。市子さんが一生懸命なのは知っていますし、それはずっと変わっていませんから」

 ああ、もう。突っぱねたくなってしまう。そんなのはいらない、と言ったばかりなのに。どうしてこうも彼は私の頑なな部分を上手く溶かす術を持っているんだろう。

「ずっと見てたから知ってますよ。いつも外に出るとき、嬉しそうに展示車を見てから行くことも。苺が好きなのを口にしなくても幸せそうに食べてる姿とか」

「なんで私と会ってたこと言ってくれなかったの?」

 そんなに想っていてくれたのに。言う機会はいくらでもあったはずだ。現に今だって話しを聞いて思い出せた。その指摘に彼は、なんとも言えない顔になる。

「憧れ、だけなら言えましたけどね。でも、それじゃ嫌だったんです。あのときも今も、市子さんにとって、俺は頼りない年下の男扱いで。ちゃんとひとりの男として見て欲しかったんです」

 そこで山田くんは言葉を一度区切り、切なげに顔を歪めた。

「だから、市子さんへの気持ちを確かめたいのもありましたけれど、俺を好きになって欲しかったから。だから、あんなことになったのにつけこんで、こんなまどろっこしい関係を迫ったんです。すみません」

 急に自分たちの曖昧な関係の元をただされ、今になって羞恥心が走る。今さらながら順序が逆すぎる。さらに、それさえも私は覚えていないんだから、もう彼をとやかく責める気も権利もない。

「市子さん」

「なに?」

 改めて名前を呼ばれ、彼を見つめると、大きな瞳が私を捕えていた。真剣な空気に包まれ、私は思わず息を呑む。これ以上、なにを言われるの?

「もうこの際だから白状します。心配しなくても、俺たちなにもしてませんよ」

 それから、どれくらい間があっただろう。彼に言われた言葉の意味をフリーズしかけている脳で必死に理解し、それからできた反応は、声にならない叫び声をあげることだった。

「え、嘘。え!? だって、山田くんハジメテだって」

「初めてですよ。あんな葛藤を抱えてほとんど一睡もできなかった夜は」

 そういう意味!? けれど、たしかに彼は核心めいたことはなにも言わなかった。だからって。

「市子さんが暑い!って文句言いながらこちらが止めるのも聞かずに勝手に脱いだんです」

「ご、ごめん」

 もう顔から火が出そうだ。彼が起きて一番にエアコンの件を謝ってきたのは、そういうことだったらしい。それにしても、これならまだ既成事実があった方がマシだったような。

 なんて迷惑な先輩であり隣人なの。もう居た堪れなさ全開で涙が出そうになってくる。おかげで、まともに彼の顔が見られずに、穴があったら入りたい気持ちで身を縮めるしかできない。

 すると彼の腕がゆっくりと伸びてきて、優しく抱きしめられた。

「卑怯だって思ったんですけれど、こっちはずっと動揺しっぱなしだったのに、市子さんはすごく冷静で。しかもあっさりと、なかったことにして欲しい、なんて言うからちょっと意地悪したくなったんです」

 ぶっきらぼうな彼の声は、いつも職場で話している余裕のあるものではなくて、なんだか子どもっぽく、すごく可愛らしく思えた。

 でも、それを口にすると機嫌を損ねそうなので、なにも言わないことにする。そのかわり、さっきは回せなかった彼の背中に、ようやく腕を回せた。

しおり