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03

「ってば!」

 強く呼びかけられ、はっと意識を戻す。いつの間にか背後から話しかけていた本田が隣に来ていた。

「市子ってば、そんな怖い顔してどうしたの?」

「そんな怖い顔してた?」

「してた、してた。鬼も逃げ出す顔」

 わざと目を吊り上げる本田に、私はため息をついた。もういちいち怒るのも面倒だ。それをフォローするかのごとく本田が早口で捲し立てる。

「市子もさ、彼氏作ったら? この際、永野部長に本気出していこうよ」

「やめてよ」

「えーなんで? 市子は意地っ張りだし、甘え下手だから永野部長くらい余裕のある男がいいと思うんだけどなー」

「俺がどうした?」

 まさかの声に私も本田で固まる。おそるおそる声のした方を向けば、出先から戻って来たらしい永野部長の姿があった。

「お疲れさまです」

 慌てて立ち上がり、頭を下げる。今の会話、聞かれてた?

 不安になりながらも、部長は気にする素振りなく自分のデスクに向かい、鞄から資料を取り出して確認している。

「そういえば御手洗」

「なんでしょうか?」

 不意打ちで呼びかけられ、私は背筋を正した。すると部長が困ったように笑う。

「そんな、かまえるなって。いや、前に話してた飯の件、考えとけよ。色々あったし、慰労会を開いてやる」

 色々、というのが、自動車学校の件だというのは、すぐに分かった。それをあえて口にしない部長の優しさも。

「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ」

「部長、御手洗は意地っ張りなんだから、もっと強引に誘ってやってください」

「本田。それを俺がしたらセクハラだろ」

 本田の茶々に部長が顔をひきつらせた。しかし本田は、そんなのおかまいなしだ。

「いいじゃないですか。御手洗は今、彼氏もいませんし、部長もひとりなわけですし。御手洗が部長の誘いを本気で嫌がらないのはよーく知ってるじゃありませんか」

「ちょっと本田」

 ぐいぐい話を押し進めていく本田をさすがにたしなめる。すると部長は困惑気味に微笑んだ。

「それは上司としては有難いな。よし、御手洗。こうなったら旨いものでも食べに行くぞ。お前が行ったことがないような店に連れて行ってやる」

 茶目っ気混じりに言われて私よりも本田の方がやったーと喜んでいる。私は断りはしないもののなぜか複雑だった。

 前なら部長から食事に誘われたら、内心は舞い上がっていた。疚しい気持ちはないし、仕事の延長線だとはわかっていたけれど。

 入社してしばらくの頃は、気分転換や相談も兼ねて、よくお昼に連れ出してもらったのを思い出す。

 今だって仕事で聞いて欲しい話や、訊きたいこともある。ましてや今、部長は気兼ねする相手もいないわけだし。私だって……。

 そのとき、お疲れさまです、と複数の声がこちらに向けられる。そこには西野さんをはじめ、私服に着替えた同期の女子たちがいた。

 ああ、なるほど。本田が先ほど私を止めたのはこういうことか。更衣室で彼女たちは話し込んでいたのだろう。私はまともに西野さんの顔が見られず、着替えようと更衣室に足早に向かった。

 山田くんに本当のことを訊いてみようか。意外と信憑性をもたせるため、とか好きな人が誰なのか追及されないため、とか。それでついた嘘なのかもしれない。

 その考えに必死で持っていこうとしたところでふと気づく。私はなにを望んでいるの? これじゃはまるで、彼に好きな人がいる、という事実が嘘であってほしいと願っているみたい。

 私にそんなことを願う権利なんてない。むしろ本当に山田くんに長年の想い人がいるなら、それが叶うように願うのが先輩としては正しいんじゃない?

 心に(もや)がかかったまま、着替え終えてから営業部に再び顔を出す。先ほどの西野さんたちと同じお疲れさまです、と声をかけ社員専用の通用口から外に出た。

 冬、とまではいかないが日が沈んでからの空気はより一層冷たくて、なんだか身を切られる思いだった。


 今日は、先に帰った山田くんがご飯の支度をしてくれている、はずだ。いつも通り家路につき、緊張しながらカードキーを鞄から取り出す。

 どうして私が勝手に気まずさを感じているんだろう。彼が誰に告白されたって、誰を想っていたって私には関係ない。私たちの関係だって――。

 逸る鼓動と共にわずかに手が震えた。これはきっと寒さのせいだけじゃない。

 耳慣れた解錠音と共に、そっとドアを開ける。自分の家なのに息を殺して、ちらりと視線を落とすと彼の靴があった。

 それにしても静かに入ってきたとはいえ、基本的にいつも彼は私を出迎えてくれるのに、今日はその気配がない。

 足早に中に入り、リビングのドアを開けようとしたとことでと、なにやら話し声が聞こえた。どうやら電話中らしい。

 ここがいくら自分の家とはいえ電話をしている最中に、入っていくのは少し躊躇した。

 この時間ということはお客さまかな? 迷いながらもドアノブに手をかけたところで、聞こえてきた人物名に動きが止まる。

「だから――はるかは――」

 全部は聞き取れない。けれど電話の相手が松村さんだというのは分かった。どんっと背中を押されたような衝撃を受ける。

 きっと車の件かな。仮にプライベートな話題だとしても、ここは私の家で、普通に中に入っても失礼ではない……はず。むしろ、こうしてドア一枚隔てて聞き耳を立てている方が失礼だ。

 分かっているのに、縫いつけられたようにその場を動けない。そのとき、彼が大きく息を吐いたのが伝わってきた。そして――

「やっぱり俺って恋愛対象外?」

 人間の耳は、無意識のうちに自分にとっての情報を選別して脳に届けるらしい。でも、はっきりと耳に届いて、脳に残った情報は、私にはいらなかった。

 そのあと、なにやら小さくやり取りをして電話が切ったのが分かった。

 彼がドアから遠くなるのを感じて、私は平常心を取り戻そうと必死だった。やっぱり山田くんには好きな人がいて、それは松村さんのことだったんだ。

 そう理解すると、様々な彼の発言が繋がっていく。

『叶えたいことがあるんです。もう、ずっと前から、決めていたことがあって。それを叶えるために、今ここにいるんです』

『ええ、よかったですよ。あのとき日本に来てよかったって今でも思ってます』

 数年前に気持ちが落ち込んで日本にやって来たとき、山田くんは松村さんのところにいた。弱っているときに彼が頼れる相手で、きっとその際、彼の中で色々あったのかもしれない。

 だから山田くんは、こうして今ここで頑張っていられるんだ。

 けれど、それなら私はななんだろう。たった一度、寝てしまったから、という理由でこうしてそばにいる私は。

 彼の電話口の発言で、松村さんに想いを伝えているのが分かる。そして、それが実っていないことも。

 私は、彼女の代わりなの? 私が松村さんと同じ年で彼にとって年上だから? 分からない。けれどひとつはっきりしているのは、山田くんは、想い人がちゃんといるんだ。

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