バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

03

「市子さんにとって、そんなあっさり割り切れる程度の話だったんですか?」

「じゃぁ、なに? もう決まった案件に抗議すればよかったの!?」

 つい彼の方を向いて、噛みつくように声をあげてしまった。感情を向ける相手を間違えている。分かっているのに、表情を変えないままこちらをじっと見つめてくる彼の視線が、突き刺さるように痛くて。

 おかげで心臓が存在を主張するように音を立てはじめる。そして気まずい雰囲気を破るように私の口から出るのは、理不尽な八つ当たりの言葉だけだった。

「放っておいてよ。まだ入社して二年目の山田くんになにが分かるの? 私のなにを知ってるの? 割り切れる程度でいいじゃない。今回の件は山田くんには関係ないんだし、他人の心配してないで自分のことに集中したら?」

 口にしてから私は頭を垂れた。とてもではないが、彼と顔を合わせられない。口にした言葉とは裏腹に、胸が自己嫌悪でいっぱいになって、冷静な自分が叱咤してくる。

 心配して、わざわざ気にしてくれた彼に、とんでもなくひどい言い草だ。先輩なんて、ただ年が上なだけで、後輩の男の子にこんな八つ当たりをして、傷つけることを言って、最低すぎる。

 なんで私は、どこまでいってもこうなんだろう。

 けれど山田くんは職場の後輩で、付き合っているわけでもないのに、心配をかけたり、ましてや弱いところなんて見せられない。仮にこれが、付き合っていたとしたら……。

 私はそこで瞬時に過去を振り返って、硬直した。付き合っていたとしたら? 付き合っていたとしても、結果は同じだ。

 私は今まで付き合ってきた相手に、甘えたり弱いところを見せてきたっけ? こんな状況なら、今までに何度もあった。

 強がって口から出てくるのは、ひねくれた言葉ばかりで、可愛いく甘えるのもできない。それを受けて、取られる態度は決まっていた。

 面倒くさそうにため息をつかれて、無言で部屋を出ていかれる。私は謝ることさえできず、離れていく後姿を見つめるしかできなくて、それは心も同時に離れていくのが分かった。

 それなのに間違ったことは言っていない、という妙なプライドが邪魔をして、こちらから歩み寄れないまま、結局いつも別れを告げられる。お決まりのパターンだ。

 だからきっと、今回も同じだ。今まで散々優しくしてくれた彼に、申し訳ないことをした気持ちと、だからと言って、今更どう取り繕えばいいのか分からない。

 そのとき、彼がため息をついたのが伝わってきて、反射的に肩が震えた。

「市子さん」

 名前を呼ぶ声から感情はつかめない。なにを言われるんだろうか。怒らせたのか、呆れられたのか。軽蔑されて、嫌われたならこの関係も終わりだ。

 それなら、それでいい。そう思って、俯いたまま、自分の掌を強く握る。それでいい……はずなのに、言い知れない恐怖が血の気を引かせていった。

 すると突然、彼の両手が顔に伸びてきて、頬に触れたかと思うと、ぐいっと上を向かされ、自分の影で暗かった視界が急に明るくなった。

 状況についていけず目を見開いたままでいると、さらに彼の口からは予想もしなかった言葉が飛び出した。

「ごめんなさいは?」

 これでもかというくらい目を開けて硬直する。すると彼は顔を寄せて私との距離をさらに縮めてきた。

「そんな相手を傷つけるようなことを言って、あとから後悔するくらいなら、言わなきゃいいんです。でも言ったなら、ごめんなさいでしょ?」

 まるで幼稚園児にでもする説教だ。でも、だからそこストレートに心に響いて、凝り固まっていたなにかが揺れる。

 とはいえ、そこで素直にはい、と言えるほど私はできた人間でもなくて、つい唇を真一文字にきつく結んだ。すると彼は両頬に添えている手に力を込めて額をくっつけてきた。

「ほら、意地張ってもしょうがないですよ。素直になったら、どうです?」

 色素の薄い瞳に、自分が映っているのが見えるほど近くて、精一杯の抵抗にと瞬きさえ我慢して目を開けたままでいた。

 でも、もうギリギリだった。そして触れている彼の親指が、そっと目の下をなぞったとき、なにかが決壊して一瞬で視界がぼやける。

「……っ、ごめんね」

 早口で勢いだけで出た言葉。それを皮切りに堰を切ったかのように、涙が次々とれ落ちていった。

「大丈夫ですよ、俺もすみません」

 まっすぐ目を見て、穏やかに告げてくる彼に、さらに涙腺が緩む。『大丈夫』何度も彼の口から聞いたその台詞が、今はひどく心に沁みていく。

 もう、この涙がなんなのか分からない。どうして泣いているのかさえもはっきりとしない。

 ただ、ずっと蓋をしていた様々な感情が次々に涙と共にむせ返る。本当は担当替えを言われてショックだった。私は悪くないと言われても、そんなすんなり納得できなかった。

 でも、それを納得するしかないのも分かっているから。私は子どもじゃないんだから。

 なのに今の私は子どもみたい。相変わらず彼の手は私の頬に添えられたままで、顔を背けることさえできず、山田くんの前に泣き顔をさらす羽目になった。

 今は、そんなことはどうでもいい。とめどなく溢れる涙を優しく指で拭って、触れてくれる温もりがこんなにも心地いいなんて思いもしなかったから。

 そして山田くんの手が顔から離れて、ぎこちなく肩に手を伸ばされ抱き寄せられる。スーツ独特の香りが鼻を掠めて、スーツなのにいいのかな、と汚すのを申し訳なく思って、その隙間から覗くシャツに顔を押し当てた。

 距離を取るという選択肢はなかった。

 少しだけ躊躇った気配を見せてから彼のしなやかな手がゆっくりと頭に降りてくる。

 ああ、よかった。失わずにすんだんだ。

 ほどよい重みを感じながら無意識に浮かんだのは気の抜けたような安心感だった。そして、私は自然と彼の背中に腕を回した。

しおり