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 怒涛の決算期を終え、少し落ち着いた十月初旬、そろそろ字の歪みが限界を迎えたので、私は右手を止めて時計を見た。

 ちょうどお昼に差しかかる時間帯、デスクの上で山になっていた葉書も半分ほどなった。持っていたペンを放ち、ぶんぶんと右手を振る。

 今度のキャンペーンの告知を兼ねて、担当するお客さまにDMを送るべく、メッセージ書きに勤しんでいた。

 宛名などはすべてデーター化されたシールを貼るんだけれど、一言手書きのメッセージを添えるのが慣例になっている。

 こういうとき自分の苗字が御手洗、と画数が多いのが憎い。同じメッセージばかり書きすぎてゲシュタルト崩壊を起こしそう。

 手だけではなく、肩の凝りもほぐそうと両手を思いっきり天井に突きあげる。上半身を伸ばしたところで私は机に突っ伏した。

 あと三十枚くらいかな。目算したところで机が、がたっと音を立てる。思わずそちらを見ると、山田くんが外回りの準備をして立ち上がっていた。

「あれ? 山田もう出るの?」

 同じくメッセージ書きに精を出していた坂下が声をかける。

「はい、今日は予定が立て込んでるので」

「昼飯ちゃんととれよ」

「ありがとうございます」

 先輩らしい(いや、実際に奴は先輩なのだが)坂下の声を受けて、彼は律儀に頭を下げて部屋を出ていく。そして、私はあることを思い出し、予定表に視線を送ってから、急いで自分の荷物を持って立ち上がった。

 「山田くん!」

 通用口から外に出ようとする彼を声を張りあげて呼び止めた。まさか私が追いかけてくると思っていなかったのか、山田くんは目を丸くしてその足をこちらに向ける。

「い、御手洗さん。どうしたんですか?」

「これ」

 あれこれ説明する前に、追いついた私はカーキ色の小さなバッグを彼に突きだした。

「自分用で適当にだから、おにぎりと玉子焼きだけだけど。これ持ってって」

「え?」

「この前も、忙しさのあまり昼食抜いたでしょ? 駄目だよ、若いからってそんな無理してると、どこかで祟るよ。営業は体力勝負なんだから」

「でも、俺がこれをいただいたら御手洗さんが……」

「私は午後店頭待機で、買いに行く時間があるから」

 早口に告げたものの、まだどこか渋っている彼に私は軽く一喝する。

「いいから。お客さまとの約束に遅れたら承知しないよ?」

 もう少し言い方がないものか。こんな押しつけがましいことをしておいて。けれど、私の発言が効いたのか、彼は私からようやくバッグを受け取った。

「では、お言葉に甘えます。ありがとうございます、行ってきますね」
 
「うん、気をつけて」

 そうして今度こそ彼を見送る。この前とは立場が逆で、すっと伸びた彼の背中を視界に捉え、私は部屋に戻った。

「お前、わざわざ小言言いに行ったのかよ」

 戻ってきた途端にかけられた言葉は、私の気分を急下降させた。言う間でもなく坂下のものだ。

「あのねぇ」

「すみません」

 なにか言い返そうとしたところで、違うところから声が届き、私も坂下も互いから視線をはずす。

「山田くんってもう出ちゃいましたか?」

 部屋の入口にいたのは西野さんで、柔らかく巻いた髪をハーフアップにして受付の制服を身に纏ってこちらを窺っていた。

 基本的に私を含め女性でも営業はパンツスーツだが、受付はスカートだ。すらりと伸びた足はとても女性らしい。

「西野ちゃん、どうしたの?」

 すかさず答えたのは、もちろん坂下で、西野さんは困ったように眉尻を下げる。ボリュームのある睫毛が目を伏せた際、影を作りそうだ。

「いえ。今日は予定が立て込んでて、お昼を食べる時間もないかも、なんて話してたから、よかったらお弁当を、と思ったんですけれど」

「えー、弁当!?」

 なぜか坂下が歓喜の声をあげたが、お前にではないだろ、と心のうちで突っ込む。

「あいつもう出ちゃったよ。タイミング悪いよなぁ、西野ちゃんの弁当を食べられないなんて。俺なら絶対に後悔するね」

 もちろん渡そうとしたのは、私と同じで自分用のお弁当なんだろう。西野さんの手にある巾着はピンク地に白い花があしらわれていて、その中身がどんなものか予想するまでもない。

 少なくとも私のより丁寧に作り込んであるのは一目瞭然で、味も彩もいいんだろうな。

「お前もさ、追いかけてなにか指導することがあるなら、西野ちゃんみたいに、そういう気遣いを見せてやれよ。だからモテないんだって」

 あえて私を引き合いに出さなくてもいいのに、本当にこの男は一言多い。じろりと坂下を一瞥して私は無言で自分の席に戻った。坂下はまだ、西野さんとなにかを話している。

 その会話はもう耳には入ってこない。私はちらりと西野さんを見た。あれを彼に渡すのは、どっちみちタイミング的には間に合わなかったと思う。

 けれど、なんだか自分がとんでもなく余計なことをしてしまった気になる。

 あんな言い方をして渡すくらいなら、恥じらいながらも素直に気遣いを見せられる彼女のお弁当の方がよっぽどよかったんじゃないのかな。

 自然とため息がもれ、慌てて気を取り直す。私は積んでいた葉書の束に再び手を伸ばした。

 お客さまに飲み物を出すのは、たいていは受付の仕事だ。どこぞのファミレスのごとくドリンクのマシーンがフロアの一角を陣取っていて、お客さまの希望を聞いてそこからお出しする。

 それとは別に、規模は小さめなものの社員専用のドリンクバー的なものも裏にあり、社員はわりと自由に使えるのはなかなか嬉しい特権だ。

 待機組だった私が、そこで飲み物にありつけたのは午後四半時過ぎだった。

 前々から何度か足を運んでくださっていたお客様との約束があって、それを終えて少し休憩しようと思ったところに寝耳に水の知らせが届いた。

 なんと担当しているお客さまが事故を起こしたというものだった。

 そして、今から車を持ってくるらしき、代車の準備、提携している保険会社への連絡、修理の見積もりなどをする手筈を整えることになり、息をつく暇もなかった。

 さすがに喉が渇いて、ここは冷たいものにしようとアイスティーのボタンを押す。

「お疲れさまです」

 不意に後ろから声がかかってそちらを見ると、戻ってきた山田くんが笑顔で立っていた。しかし、その顔がすぐに曇る。

佐竹(さたけ)さんが事故をされたって聞いたんですけど、大丈夫ですか?」

「うん。ちょうど佐竹さん本人は乗っていなかったらしいんだけれど、路肩に停めていたところに、バックしてきた軽トラと接触したみたいで。助手席側のドアのところを、あおりの角で思いっきり引っかけたような形になってたから、ドアごと取り替えるっていう話で落ち着いたよ」

「怪我人が出なかったのはよかったですね」

 それに同意して視線を逸らす。山田くんはコーラのボタンを押してからカップを取ると辺りをきょろきょろと見回して、その長い足を踏み出し、身を寄せてきた。

「市子さん、お昼はありがとうございました。おにぎりとっても美味しかったです。時間がない中でさっと食べられるのもいいですよね。鰹節が入ったのなんてものすごく久しぶりに食べました」

「そう」

 会社なのもあって、私はそっけなく返した。そこまで褒められるような代物ではないと思う、むしろ……

「強引に、ごめんね」

「え、なんで謝るんですか?」

 訳が分からない顔をしている彼を尻目に私はその場をさっさと離れようとした。ところが、カップを持つ手と反対の手が取られて思わず目を見張る。

「お礼にご馳走させてください」

 まさかの申し出に私は瞬きを繰り返した。彼には散々ご馳走になっている気がする、家でだけど。

「いいよ。お礼されるほどのものじゃないし」

「でも」

「いいから。そんな気遣いは無用!」

 食い下がろうとするのを振りほどきたくて、強く言い切る。いくら休憩中とはいえ、ここは職場だ。そんなふうに言い訳して正当化してみるものの、また可愛くない言い方をしてしまった。

 そんな考えが頭を過ぎって、次に起こるのは戸惑いだった。モヤモヤとしたこの感情はどこから湧いてくるの?

 可愛いとか、可愛くないとか……これが私なのに。今更、彼にどんな人間と思われようと関係ないのに。

 沈黙が降りたところで、取られていた手が離された。居た堪れなくなって、今度こそこの場を後にしようとする。けれど彼の口からそれなら、という接続詞が続いて紡がれた。

「仕事のことで相談があるんです。聞いていただけません?」

「仕事の相談なら、就業中に聞くけど?」

「御手洗さん、DM書き終えました? あと佐竹さんの保険や修理などの上に出す報告書の作成も残ってますよね」

 痛いところを突かれて、私は言葉に詰まる。結局、忙しすぎてDMもまだ書けていないし、佐竹さんの件も、それぞれ処理はしたものの、会社に残しておく用の報告書をまとめなくてはいけない。

 それを見越してか、彼はにこりと微笑んだ。

「お忙しいところ申し訳ないですが、個人的用件なのでご飯でも食べながら聞いてください。もちろんご馳走させてくださいね」

 もうここまで来ると、頑なに拒否する気力もなくなった。べつにすべて今更の話か。お礼とか、ご馳走とか。

 でも、そこまでいちいち追及するのも面倒に感じた。まだ仕事は残っているし、なにより彼とご飯を一緒にするのはけっして嫌じゃない。

 それに本当に仕事の相談があるなら、先輩として聞いてあげるべきだ。結局、私は彼の提案に渋々応じることにした。

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