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04

「もしかして、市子さん、俺のこと気にしてくれてます?」

 黙ったままでいる私に彼の声が飛んだ。見れば、まん丸い瞳がこちらをじっと捉えているので、私は思わずたじろいだ。

「いや、あの。私じゃなくて坂下が」

 おかげで、しどろもどろになりながら、つい坂下の名前を出してしまった。しかし、嘘はついていない。

 奴が余計なことを私に言ってきたから、こうして私まで変に色々気にしてしまうんだ。そうに違いない。頭の中で坂下に悪態をついていると、山田くんの顔が少し歪んだ。

「坂下さん、ですか」

 その呟きがどういう意味を孕んでいるのかは読めない。このままの流れで訊いてしまおうか。山田くんは西野さんをどう思っているのか、恋人はいなくても、好きな人は?

 坂下の恋愛のために手を貸すのは、ものすごく不本意ではあるけど。 

「山田くんは……」

 でも、それを訊くのは……本当に坂下のため? 

 踏み出しそうになった一歩を私は急いで戻した。

「ごめん、なんでもない!」

 言い放って私は俯き気味になる。気づけば心臓が加速していた。いくらなんでも踏み込んでいいことと悪いことがある。

 私は山田くんにとってあくまでも職場の先輩という立場でしかない。立ち入ったことを訊く権利なんてないのに。
 
 自分に言い聞かせながら調子を取り戻そうとしていると、ふと近くで気配を感じた。ゆっくりと顔を上げれば、向かい合わせに座っていたはずの彼がそばにいて、その顔にいつもの笑みはない。

「市子さんに、どうしても言っておきたいことがあるんですけれど」

「……なに?」

 平静を装って返したものの、胸が痛みだし言い知れない不安が心を覆っていく。目を逸らせないままでいると、ややあって彼の唇が動いた。

「あの、市子さんは十分に女性らしさもありますし、すごく素敵ですよ」

「……はい?」

 私は大きく目を見張った。そして先ほどとは違って、あまりにも間抜けな声をあげる。一体、なにを言われたの? 空耳や冗談を疑ったが、目の前の彼は表情を崩さない。

「さっきのポテトサラダの件だって、市子さんはなにも悪くないです。その人、絶対損してますよ。すごく美味しかったのに。なにより作ってもらっておいてその態度はないでしょ。俺は食べられてよかったです。むしろ、また作って欲しいくらいです」

「あ、ありがとう」

 彼の怒涛の勢いに呆然とする。こんな山田くんを見るのは、なかなかない。

「だから、市子さんが自分を責めたり、傷つく必要なんてないんです。坂下さんだって、あんなこと言って……」

『本当、女らしくないというか、可愛くないというか』

 そこで私は、彼の突拍子もない発言に合点がいった。どうやら坂下が私にした発言を聞いていたらしい。

「なんだ、そんなこと? 大丈夫、気にしてないよ」

 私は明るく答えた。山田くんの優しさや真面目さが伝わってきて、笑みが勝手にこぼれる。私を気遣って懸命にフォローしてくれているのが、なんだかくすぐったい。

 でもその必要はない。

「あんな発言、いちいち気にして傷つくほど繊細な心は持ち合わせてないよ。それに自覚あるし。坂下の言い分が正しいというか」

「俺よりも坂下さんの言うことを信じます?」

 私の発言を遮るのは鋭い声だった。いつの間にか、じりじりと距離を詰められ、膝と膝とが触れ合いそうなほど近くに彼はいる。

 その顔に思わず息を呑んだ。冗談でさらっと流すのもできない雰囲気だ。

「どちらを信じるとかじゃなくて、坂下が言うのは一般論というか。もちろん山田くんがフォローしてくれたのはすごく嬉しかったけど」

「その言い方からすると、なんだか俺が市子さんを気遣ってお世辞を並べたみたいですね」

「そんなことはっ」

 どう言えば伝わるの? つい声を張りあげてしまった次の瞬間、私は固まった。突然肩に強い力を感じたかと思えば、彼の整った顔が目の前にある。大きな瞳が私を捕えて離さない。

「一般論とか坂下さんとか、どうでもいいです。俺は市子さんのことを女性らしいし、可愛いって本気で思ってるんです。それを分かってください」

 無意識に止めていた息が苦しくて、触れられた肩が熱い。私は小さく頷いた。正確には声を出すことも叶わず、頭を動かすことしかできなかった。

 どうしよう。こういうときなんて反応すればいいの?だって、真正面から可愛いとか、言われたことなんてないし。

 視線を落として硬直状態でいると、前触れなく額に温もりを感じた。そこで弾かれたように彼から距離をとって、私はソファに腰を沈める。

「そういえば、今日はまだおかえりなさいのキスをしていなかったなって」

 さっきまでの真剣な表情は一体、どこへやら。何食わぬ顔で告げられ、私は目を皿にした。彼はさらにいつもの笑顔を向けてくる。

「市子さんが可愛いからですよ? 分かってくれました?」

「山田くんの思う可愛いの射程範囲が広いのはよく分かったよ」

 きっとそこらへんの犬や猫を可愛いと言うのとさして変わらないのだろう。いつもの調子で返して、私は彼を無視して体勢を戻すと、食べかけのカップに再び手を伸ばす。

 心臓は激しく打ちつけていたけれど、動揺を顔に出さないように必死だった。舌の上に広がる苺の甘みにホッとしていると、不意にスプーンが差し出される。

 その上には半分にカットされている苺が乗っていた。

「はい。俺のには、ひとつしかありませんでしたけれど、どうぞ」 

「いらない。それは山田くんのでしょ」

 突っぱねて顔をわざとらしく背けた。私は彼よりも年上で、職場の先輩でもあるのに、さっきから威厳もなにもない。

 なんでこんなにも調子を崩されているんだろう。いちいち反応して馬鹿みたい。

「そう遠慮せずに。好きなら素直になった方がいいですよ」

「大きなお世話!」

「市子さんの世話なら喜んで焼きますけど」

 笑顔を崩さない彼に私は脱力する。そして、なんだか本当に意地を張るのが馬鹿らしくなってくる。観念して私はじっと差し出されているスプーンの先に視線を遣った。

 蛍光灯の電気を浴びて輝く苺が存在を主張している。意を決して極力彼の方を見ないようにしておずおずと口を開けると、優しく口の中にスプーンが差し込まれた。

 今更ながら、これってものすごく恥ずかしいことをしているのでは?

 意識すればするほどぎこちなくて、一つひとつに神経が集中する。唇にスプーンの硬い感触があって、舌の上に苺がそっと乗せられた。

 スプーンが離れて私は、ゆっくりと口の中にある苺を咀嚼した。こんなにも苺を味わって食べたことなんてないかも。

「美味しいですか?」

「……うん」

 特別な味はしないけれど、苺は苺だ。もしかして彼がこのカップを選んだのは、わざわざ私に苺を譲るためだったのかな? そんな考えに至って彼を見ると、山田くんは至極嬉しそうだった。

「やっぱり市子さんは可愛いな。いつか一緒に苺を食べに行きましょうか」

 それは苺狩りを言ってるのかな?と思ったけれど深くは突っ込まない。もう言い返す気力もない。でも、言い返す必要なんて本当はないんだ。

 彼がかけてくれるのは、いつも優しくてまっすぐな言葉ばかりだから。それを素直に受け取れない自分は本当に可愛くないし、ひねくれていると思う。

 年上だからとか、先輩だからとかあれこれ理由をつけてはいるものの、根本的な性格なんだ。だから、きっと彼には同じようにキラキラした()がお似合いだと思う。例えば、西野さんみたいな――。

 勝手に浮かんだ考えを急いで打ち消した。細いもので胸をぎゅっと締めつけられたような痛みが走る。やっぱり山田くんは私とは正反対で、私に彼は眩しすぎるんだ。

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