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2.元カレに会ってほしいとは?





「それで、話とは? 私と橙我(とわ)とは随分と前に別れたのでお力になれないと思いますけど」

 私は喫茶店に入って早々、先手を打った。
 どんな話があるにせよ、今さら私が関与するところではないはず。

 『トワ』――末續 橙我(すえつぐ とわ)とは二年も前に別れた。
 つまり、南さんは私と元カレの話をしに来たのだ。

 橙我は、いわゆる作曲家だ。
 何曲も歌い手に曲を提供しており、そのいずれもが人気を博す押しも押されぬヒットメーカーだ。
 ミリオンまでいった曲もある。

 そして南さんは、橙我が所属する音楽会社の社員で、彼のマネージャー。
 仕事の一切を管理して、マネジメントをしている人……だと思う。
 実際橙我と付き合っているとき会ったことないからよく分からないのだけれど。
 でもそういうことなのだろう。

「そう最初から僕を突き放さないでくださいよ。僕だって、むやみやたらと考えなしにここまで来たわけじゃないですから」
「私が勤めている会社、よく分かりましたね。橙我も知らないのに」
「ええ。だから、いろんな情報網を駆使して探させていただきました。……といっても、半日で探せましたけど。貴女、つくってそのまま放置しているSNSのアカウントがありますねぇ。高校のときの友人から辿り、大学の友人へ。一人だけフォローしている方がいらっしゃいますね。写真も一枚だけ上げていましたからすぐに分かりました。とても写りの悪い写真でしたが」

 南さんが有能なのか、それとも情報社会のなせる技なのか。

「貴女、チョロ……いえ、分かりやすいですね」

 いや、多分前者だ。
 今、南さん、誤魔化したけど確実に私をチョロいと鼻で笑おうとした。

「しかし、実際に会ってみてもいまだに信じられません。……トワが貴女のような方がタイプだったとは」
「よく言われていました」
「おや、自覚アリですか? 虐めがいがない」

 つまらなそうな顔をする南さんに、私は思わずムッとしてしまった。
 この人、本当に何をしにきたんだろう。

 私の中で、苦手意識がどんどんと上がっていっている……。

「それで本題なのですが」
「はい」

 待ってました!
 早く用事を済ませておうちに帰りたい!
 もうスパークリングワイン二本開けちゃう!

「今度トワがモデルのRieriのデビューに向けて全面的にプロデュースすることになりましてね。あちら様からの指名なんです」
「え? 凄いですね!」

 ずっと曲だけをひたすらに作っていた橙我がご指名で、人気モデルの歌手デビューをプロデュースすることになるなんて素直に驚きだ。
 彼はそこまで大成していたのだ。
 私と付き合っていたときは、なかなかコンペに応募しても箸にも棒にも掛からず、苦労していたのに。
 やっぱり音楽会社に入ったことが大きいのかもしれない。
 彼の作った曲は、今ではどこに行っても耳に入る。

「ええ、凄いんです。とてもありがたい話なんです。何でもRieriさんがトワの作る曲に惚れ込んでいましてねぇ。ぜひとも、ということでお受けしたんです」
「それはとてもいいお話ですね」

 何だろう……ここまでの話だけだと、南さんはただ自慢しにきただけに思えてしまう。
 話を聞く限り橙我の仕事は順風満帆。スターダムに階段を昇り詰めているというのに。
 何故、ここにきて彼の売れなかった時代の負の遺産ともいえる私を訪ねてきたんだろう。

 もしかして、スキャンダルを心配してとか?

 よくある昔の写真がネットに流失……とかそういうものを心配して釘を刺しにきたんだろうか。
 私がチョロいから。

 心配しなくても、橙我と付き合っていたなんて誰かに言ったところで信じてなんかくれない。
 私は南さんが驚くほどに、橙我に不釣り合いだからだ。
 昔の知り合いとも、そのSNSで繋がっていた一人意外とは疎遠になってしまっていて、私たちが付き合っていたことすらも知らない人が多いと思う。

 あまりオープンな関係じゃなかったから。

「ええ。それはそれはとてもいいお話なんです。ですが……」

 南さんは憂鬱そうなため息を吐く。

「全然書けていないんです……新曲」
「……まったく?」
「まったく」
「ワンフレーズも?」
「インスピレーションすら浮かばないと、トワ本人が言っておりました」

 その言葉にさすがに驚いた。

 私の知っている橙我は、常にその頭の中にメロディを溢れさせている人だった。
 まさに寝ても覚めても、といったタイプだ。

 夜中に目が覚めたら、一緒に寝ていたはずの橙我がベッドにいなくて、別部屋に篭って曲を作っていたことなんかザラにあった。

 作っていなきゃ、退屈に溺れて死んでしまうかのように。

「もともとその兆候はあったんです。ここ最近の曲は昔書いたものをアレンジしたものでしたし。彼自身もスランプを感じていて、ストレスも溜めていた様子でした」

 たしかに、彼が提供してきた曲もはどれも付き合っていたときに耳にしたことがあるものばかりだった。
 あ……これ、懐かしい。
 そう思うものが多くて、いやでもメロディが頭の中に残ったものばかりだ。

「でもね、さすがにこのプロジェクトを受けた手前、本人がスランプですからナシでお願いします、なんて厚かましいことは言えなくてですね。今、どうにかトワに曲を書かせようと苦労しているところなんです」
「それは……大変ですね」

 本当、聞いているだけで大変そう。
 私にはよく分からないけど、ああいうクリエイティブなものって、ダメなときはとことんダメになるって聞いたことがある。
 いろんなタイプの作曲家がいるんだろうけど、橙我は多分そのタイプだと思う。

 作れと言われて作ったものが良作とは限らない。

「まぁ、こちらとしてやれることはやったんです。作曲環境を整えるために家事代行サービスに、ストレス発散の旅行や食事、創作意欲を刺激するような本や映画、あとは女性を送ったらね。でも、どれも断られてしまって。つまり、詰んでるんです」

 お手上げとばかりに南さんは両手を上げた。
 その様子から見るに相当苦労しているらしい。
 どれも橙我の琴線には触れなかったようだけど。
 マネージャーも大変なお仕事だ。

「それでね、原点に戻ったんです。彼が溢れるほどの才能を発揮していたとき、どんな環境で作っていたかを」

 南さんの目が、眼鏡の奥で光る。
 ……何か、怖い。
 嫌な予感しかしない。

「今と昔……一番の違いは……」
「あの、ちょっと待ってください」
「僕が考えるに……」
「み、南さん!」
「乾詩子さん、貴女の存在なんですよね」
「…………うぅ」

 真面目に話を聞くんじゃなかった。
 嫌だ、これ以上聞きたくない。

 絶対に!
 大変なことになる予感かしかない!!

「それでね? 乾詩子さん」
「嫌です」
「まだ何も言ってませんよ? 乾詩子さん」
「言わないでください」
「言わせてくださいよ、乾詩子さん」
「そう言いながら圧をかけないでください! 南さん!!」

 私の名前を呼ぶたびに、南さんの顔がこっちに近づいてくる。

 圧だ。
 イケメンの顔面圧が凄い。
 
 何でイケメンは自分の顔の使い方をこんなに心得てるんだろ……。

「聞いてください、乾詩子さん」
「聞いて私がどうにかできる問題じゃないかもしれないですけど」
「大丈夫です! 僕、自信があります!」

 どこから来るのその自信。
 自慢じゃないけど、私は誰かに期待されるほど有能じゃない。
 平凡などこでもいるOLだ。

 ただ、元カレが特殊なだけで。

「トワに会って昔のように付き合ってくれませんか?」

 押されぬ人気作曲家とよりを戻すなんて、今の私には荷が重すぎる。

「彼女に戻ってください」

 南さんが言うほど、そう簡単に彼女に戻れるはずがなかった。

 もちろん、私の答えは考えるまでもない。

「お断りします」

 これしかない。

 どんなツラして元カレの、しかも私の方から振った人の彼女になれと言うのか。
 さすがの私も、そんな末恐ろしいことはお断りだ。

「そんな、即答しないでくださいよ。んーと……じゃあ、彼女なくても一度会ってくれませんか? ついでにトワのお世話もしてくれると助かります」
「お断りします」
「えぇ〜! ダメですか? どうしてもダメですかぁ? トワの曲が出来るまででいいので」

 そんなこと言われても困る。
 今さら橙我に会って何て話したらいいか分からないし、そもそもあっちだって元カノが世話しに来たら嫌だろう。
 たとえ曲が1日でできてしまったとしても嫌だ。

「嫌です」

 押しに弱い私だけど、こればかりははっきりと断った。

 すると、南さんはハンカチをポケットからささっと出して、目元を押さえる。

「……どうしましょう。詩子さんに断られたら、もう打つ手がありません。仕事ができないグズな僕が挽回できる唯一のチャンスでしたのに……。これに賭けていたのですが、仕方ありませんね」

 そう涙を拭いながら南さんは、ちらりとこちらを見て悲嘆に暮れたため息を吐くと、悲しそうに言うのだ。

「僕はもうクビです」
「……うっ」
「明日からどう暮らしていけばいいのか……」
「うぅ……」

 分かってる。
 ちゃんと分かってる。
 南さんは私の承諾を得たくて大袈裟に言っているだけだ。
 橙我の件がダメになったって、あんな大きな事務所がそう簡単にクビを切ったりしないはず。
 しない……よね?
 そこまでブラックなところじゃないよね?

「かなり大きなプロジェクトですから、それなりにお金もうごいてましたからねぇ。もう動き出しているプロモーションの損害をはらうとなったら、一体いくらの負債になるのか。僕だけならいいですが、きっとトワも責任を問われるでしょうから、無傷というわけには……」
「橙我も?」

 私が思わずそう聞いた瞬間、南さんの眼鏡がキラリと光った……ような気がした。

「ええ、もちろんです。いくらでしょうねぇ? 1000万? 5000万? もちろんそうなったらトワも事務所を解雇されるでしょうから、無一文。どうやって返すんでしょうねぇ、その負債を。 まぁ、でも彼、顔はとびきりのイケメンですから、体を売って稼ぐってこともできますでしょうし、金を払って自分の手元におきたいというマダムもいらっしゃるでしょう。そう考えると、何とかなるように思えますねぇ。詩子さんもそう思うから断ったのでしょう? トワを見捨ててもいいと」

 まるで私に追い討ちをかけるようにペラペラと話す南さんに、私はそれでもNOとはあ言えなかった。
 橙我がどうなってもいいのかと聞かれたら、よくないと答えるしかないからだ。
 元カレとはいえ、情はあるし嫌ってはいない。
 むしろ、未練がましい気持ちもあったりするのだ。

 だから、そう言われてしまうと簡単に揺れ動いてしまう。

「……分かりました。まぁ、言ってもいればこれはトワの自業自得。詩子さんには関係のないお話でしたね。本当に今日は失礼いたしました」

 あの強気な態度はどこへやら。
 南さんは殊勝な態度で頭を下げてくる。

 だから……そう言われるとさぁ。
 私の心がグラグラとふらついてしまう。
 一度会ってみるくらい、よくない? って。
 もしかすると橙我は本当に困ってて、私でも力になれることがあるかもしれない。何かがきっかけで閃くかもしれない。
 以前も私と話してる最中に閃いて、そのまま曲作りに突入するなどザラにあった。

「それでは、これで」

 支払い伝票を持ってレジに向かおうとする南さんの横顔は、本当に残念だった。
 このまま帰して、本当にいいの?

 そう思ったら、私は無意識に南さんを呼び止めていたのだ。

「わ、分かりました! 一度だけ……一度だけなら、会います」

 そうだ、一度だけあって、橙我が私を拒絶したらそれでおしまいだ。
 それで南さんも納得するし、私も罪悪感を抱かなくていい。

 南さんは足を止めて、こちらに振り返った。
 そして、にこりと笑顔になって私のもとに戻ってきた。

 そのとき、私は決して聞き逃さなかった。
 この人、小さな声で「チョロいな」といっていたのを。

 自分でも今そう思っているところですよ!

「それでは今からトワの家に行きましょう!」
「え? 今からですか?」
「もちろん! 締め切りは刻一刻と迫ってきているんですよ! 明日とか悠長なことを言っている場合じゃないんです!」
「で、でも、心の準備が!」

 そんな私の訴えも虚しく、スマートに会計を済ませてしまった南さんは、意気揚々と歩き出す。
 そしてタクシーを捕まえると、私をその中に押し込んだ。

しおり