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1.面倒くさがりな私




「ねぇ、乾さん。この経費どうか落としてよ~。これね、取引先の人がどうしてもこのお菓子が美味しいから食べてみろっていうから、付き合いで買ったんだよ。必要経費だと思うけどなぁ」
「でも、実際に先方に渡したわけじゃなくて、辻堂さんが食べたものですよね? さすがにそれを会社の経費としては……」
「そんなこと言わないでさぁ。乾さんがどうにか書類をいい感じに書いてくれれば大丈夫だって」
「えぇ……」

 いい感じって何?
 適当なことを言わないでほしい。

 毎度毎度、無理難題を押し付けられて困ってしまう。
 私が書類を彼の言う『いい感じ』に書いて、判子を捺せば問題ないと思っているのだろうか。
 そんな簡単に会社のお金が下りるのであれば、私たち経理の仕事など必要なくなってしまう。

 けれども残念ながら、私という人間はこう押しが強い人を相手にしてしまうとどうしても尻ごんでしまう。
 今絶賛交渉中の彼、営業部の辻堂さんも私の性格を知っているから遠慮もなく言ってくるのだろう。

 結局甘く見られているのだ。
 それがヒシヒシと伝わってくるから、私は辻堂さんが苦手だった。

「そんな適当な仕事をしていたら、私、会社をクビになってしまいますよ」

 愛想笑いをしてどうにかかわそうと試みるも、辻堂さんはめげない。
 追い打ちをかけるように顔を近づけてきた。

「乾さんなら大丈夫だって!」

 その根拠のない自信はどこから来るの?
 自信を持つのはその顔の良さだけにしてもらいたい。

 というか、絶対に辻堂さんは自分の顔の遣いどころを知っている。
 だから、社内でも一、二位を争う顔の良さをフル活用して、私に迫ってきているのだ。
 自分のお願いをきいてもらうために。

 実際に、いい顔をしていると思う。
 うっかり頬を染めてしまいそうだし、うっかりときめいてしまいそうなほどのカッコよさだ。

 けれども私はそれには騙されない。
 騙されないようにしなければならないのだ。
 他部署の人は知らないかもしれないけど、うちの課長は静かにネチネチと怒るタイプだ。
 私的利用が疑わしい経費をあの課長が許すはずがない。
 しかも、その説明をするのは辻堂さんではなく私。
 どう考えても、私が割を食う。

「む、無理です~!」

 私は椅子から立ち上がり、その場から逃げて女子トイレへと駆け込んだ。
 個室に入り、盛大な溜息を吐いた。

 辻堂さんって本当に苦手だ。
 私の性格を知ったうえで、弱点を突くかのように言ってくるのだから。
 きっとあのまま応酬を続けていたら、押し切れるというのも織り込み済みだったのだろう。

 帰ったら、机の上に辻堂さんの経費書類がそのまま置いてあるんだろうなぁ。
 それを彼に突っ返すか、はたまた『いい感じ』に書いて恐る恐る課長に提出するか。
 どちらにせよ、面倒くさい。

 ここ数年で、押しに弱い性格が少しは改善されたと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
 昔から私はこうだった。
 この性格のせいで、高校のときなんか半ばパシリのようなものもされていた。

 長年かけて形成された性格を、そう簡単に変えるなど土台無理な話なのだろう。

 自分は変わった、しっかりしてきた。
 そう思ったのは、きっと『彼』がいたからだ。
 『彼』がいたから、私は変わることができていたのだ。

 ……ダメだな。
 何かあるとすぐに過去の思い出に浸ってしまう。

 元カレなんて、縋るように思い出すべきものではない。
 そう頭では分かっているに、ついつい思い出してしまう。
 楽しかった日々。愛おしくて堪らない彼の顔。

 自分から別れを切り出したくせに、いまだに引きずっている。

 何となく落ち込む気配がしてきたので、気持ちを切り替えるために深呼吸をする。
 思い出に浸るのではなく、現実を見つめなければ。

 まずは、机の上にあるであろう書類の処理だ。
 重い足を引きずりながらトイレを出る。

 予想通り、机の上に書類がそのまま置いてあって、私は大きな溜息を吐いた。



『こんなもの、経費で処理できるわけないって乾君だって分かっているだろう? それなのに俺にわざわざお伺いを立てに来るって……俺の仕事を増やしたいからなの?」

 経理課長に極めて穏やかな顔で、かつ厳しい声でお叱りを受けて私は震え上がった。
 もちろん、課長の判子を貰いたいなどと身の程知らずなことは言えず、持ち帰るしかなかった。
 結局、私はまた辻堂さんに会って、『無理です』と面と向かって言わなくてはいけない。

 そんな事態を招いたのは私自身だ。
 そして、『明日渡そう』と問題を先延ばしにして、書類をそっと引き出しの中にしまったのも私。
 今日はもうこれ以上疲れることはしたくなかった。

 業務終了時刻から三十分後。
 人がちらほらと帰りはじめ、部署から半分ほどの人が減ったころ。
 私も挨拶を済ませて会社を出る。

 今日は本当に疲れた。
 辻堂さんの相手をしているだけで気力が削がれる。

 うんと自分を甘やかしたい。
 明日は土曜日だし、好きなことをやってやる!

 帰りにネットで見つけたパティスリーでケーキを二つ買って、先日ネットで取り寄せたお気に入りのロゼスパークリングワインを一本空けて、動画サイトを漁る。
 私の最上級の楽しみ方。
 いつもはケーキ一つだけど、今日は二つ。
 それで今の私の心がどれほどまでにやつれているか察してほしい。

 会社の玄関を出て、スマホを開いてパティスリーの場所を確認する。
 以前見たとき、会社からそれほど離れていなかったはずだけど。
 お店のサイトからアクセスを開き、地図アプリを見ながら歩こうとした。

「乾詩子(いぬい うたこ)さん?」

 ところが、踊り出しそうだった足を止める声が聞こえてきた。
 突然フルネームで名前を呼ばれて、ビクリと肩を震わせて振り返る。

 聞いたことのない声に、私は戸惑った。

「乾詩子さん、ですよね?」

 見ず知らずの人間が私の名前をもう一度呼ぶ。
 間違いなくあちらは私を知っているようだ。
 けれど、私は相手の顔を見てもまったく思い当たらない。

 私たち、初対面……ですよね?

 そう思った私は、『どちら様?』と首を傾げた。

「すみません。突然呼び止めて。僕、こういう者です」

 人の懐にスルスルと入り込むような笑みを顔に貼り付けた彼は、名刺を取り出して私に差し出してくる。
 恐る恐るそれを受け取った私は、名前とその横に書いてある会社名を見て目を剥いた。

「え……これって……あの……」

 嘘でしょ?
 『IZミュージック』って書いてある。

 ヒヤリと冷たい汗が背中に伝った。

「初めまして。IZミュージックの南由尭(みなみ ゆたか)と申します」

 ノーフレームの眼鏡と綺麗に整えられた黒髪が妙な色気を引き出している、スーツのイケメン。
 仕事ができそうな雰囲気がどうにも課長と似ていて、私は第一印象で苦手意識を持ってしまった。

 加えて、勤め先がIZミュージックときた。
 嫌な予感しかしない。

「『トワ』のマネジメントをしています……と言ったら、話が早いですかね?」

 うぅ……やっぱり……。
 私はげんなりとしながら、小さく『はい』と返事をした。

 この会社の人が私に接触してくるなんて、『トワ』関係しかないだろう。
 私もそれしか心当たりがなかった。

 何かを話しにここまでやってきて私を待ち伏せしていたんだろうけど、さすがに会社の前では目立つ。
 先ほどから会社から出てくる人出てくる人皆がこちらに視線を向けてくるのを、ヒシヒシと感じていた。

「あの……もし、話が長くなるようなら、場所を変えませんか?」
「ええ、ぜひ。僕、立っていても注目を浴びてしまうのでその方が助かります」

 自分で言うかな、そういうこと。
 でも確かにこの人目立つんだよなぁ。
 立ち話をしているからじゃなくて、南さんの容姿が目立つから皆の目を引くのだ。

 お前みたいなのが、何故そんなイケメンと? と。

 分かる。
 皆がそう思う気持ちはよく分かるから、今すぐにでもここから離れたい。

「じゃあ、近くに喫茶店があるのでそちらでいいですか?」
「はい。僕、コーヒー大好きです。あとケーキも」

 あ、なるほど。
 コーヒーに加えてケーキを食べるくらい時間がかかる話をするつもりですね?

 ますます気が重くなった。

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