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(8) ハンカチを貸す理由

 真冬が苦手とするものは沈黙だ。
 それはアイドル時代から変わらない。きっともっと以前からそうなのだろう。それを誤魔化《ごまか》すかのように、彼女は何だかんだと言葉を連ねる。

 黙っていると息も出来ない――。
 そんなお笑い芸人みたいなキャッチフレーズで語られたこともあった。それをバラエティ向きだと誤解されて、随分としんどい思いもしたらしい。

 こちらはお笑い芸人だったけれど、喋るのはあくまでも仕事のためだ。仕事を離れれば、相手が喋っていればふんふんと聞いているし、相手が黙り込めばいつまでだって一緒に黙っていられる。沈黙は全く苦にならない。

 あれはいつだったか。
 はじめて真冬と仕事で一緒になったときのことだ。
 彼女の方は人気絶頂の中でアイドルグループを卒業した超売れっ子。対して、こちらはやっとテレビで顔が売れ始めたお笑い芸人。彼女の方が年齢は下でも、業界内の地位ではずいぶんと上だった。

 打ち合わせのとき、一生懸命自分の言葉で沈黙を埋めようとする彼女がいじらしくて、何だか可哀想になった。
 たまたま二人きりになったとき、自分と二人のときは無理して喋らなくていいよと言ってみた。特に他意もなく気楽に掛けた言葉だったのだが、彼女は何かを言いかけた口の形のまま固まったかと思うと、ぼろぼろと涙を零《こぼ》し始めた。

 実は泣き虫だというのはファンの間では周知の事実だったけれど、さすがに焦《あせ》った。
 何が悪かったのか分からないまま、とにかく謝ってみた。
 あいにく綺麗なハンカチの持ち合わせがなくて、ポケットティッシュを差し出した。

「ごめんごめん。どうした? 泣かなくていいよ。喋りたかったら喋ったっていいんだよ。俺、いくらでも聞くから」

 涙だけではなくなった。子どものように声を上げて泣き始めた。
 あんなに泣く大人を見たのは初めてだったし、あれ以来ない。
 一頻《ひとしき》り泣いて、収まった頃に大きな音を立てて鼻をかんで、ようやく平常心を取り戻したようだった。

「ごめんなさい」

 今度はこっちが謝られた。どちらかと言えば謝る側ではなく謝られていい側だろうと思えたので、悪い気はしなかった。
 何より人に見られていなくてよかったと安堵《あんど》したのが一番だったけれど。

「ティッシュ、全部使っちゃった」

「何だ、それを謝ったのかよ」

 泣き顔から一転して見せた笑顔は、厚い雨雲を突き破って現れた太陽のようで、一瞬のうちにハートをずっきゅんと撃ち抜かれた。

「こういう時はティッシュじゃなくて、ハンカチを貸すもんですよ」

 まさか苦情を言われるとは思ってもみなかったが、撃ち抜かれたあとだったので反撃も出来ない。

「そうしたら洗って返す口実に、次の約束が出来るのに」

 ずいぶんとベタなことを言うんだなと驚いて顔を見たが、目を逸らされた。
 耳が赤くなっている。泣いたせいか、照れているのか。そこは判然としなかった。

「じゃあ、ポケットティッシュを返してくれよ」

 今度は大笑いして涙を流していた。
 それが最初のデートの約束だった。

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