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(1) 70,000㎞のニアミス

 七万キロメートル。それだけ離れていても、天文学的にはニアミスだ。

「そんなに離れちゃったら、わたし寂しくて死んじゃうわ」

 女将は年齢を感じさせないぶりっこで笑いながら、ビールを()いでくれた。
 小料理屋「夏雪」のカウンタ席。
 相変わらず見事な割合で泡が立つ。

「少し前、地球はそのくらいの距離で小惑星とすれ違ったんです。もし事前にぶつかると分かったとしても、今の科学技術じゃ分かった時点でもう手遅れ。回避する手段はないらしいですよ」

 その小惑星の直径は凡そ百三十メートル。かつて地球に衝突して恐竜を絶滅させた巨大隕石の直径は十キロメートル弱もあったといわれる。

「それに比べればかなり小さいけれど、それでも東京程度の街なら壊滅させるだけの衝撃はあるそうです」

「そうしたら、わたしと各務(かがみ)さんが夢の中で入れ替わったりするかしら」

「それ何の映画でしたっけ。さびしんぼう?」

 最近自分の中で流行っている、わざと間違える技を繰り出してみたが、ちょっと外し過ぎたかもしれない。

「全然違いますよ。古過ぎますし、ボケが何周も回っちゃってるじゃないですか。各務さんが言いたいのは転校生でしょう。それも違ってますから」

 わざとだということに気づいた上でなのかどうか。いずれにせよ、女将はくだらないボケにもきちんと突っ込んでくれるので気持ちがいい。どこまでも客を乗せるのが上手い。

 そんな女将の正体に気づいたのは中和泉尋深(なかいずみひろみ)だ。
 大学時代の元カノである彼女と十五年ぶりに再会し、ここで二人で呑んだあの日。彼女は店を出たあとでしきりに、あの女将には見覚えがあると言っていたのだが、そのときは思い出せないままでいた。

 LINEが来たのはそれから数日経ってからのことだった。そのとき彼女がまだ日本にいたのかどうか、定かではない。相変わらず挨拶など一切抜きで用件のみの文面だったからだ。

>>あの女将は、秋庭真冬(あきばまふゆ)だ!
 
 実は前に女将から、若い頃は恋愛を禁止されていたと聞かされたことがあった。そのときはどれだけ箱入り娘だったんだよと思っただけだったけれど、そういう意味ではなかったらしい。
 それは、彼女がかつて若者の人気を席巻したトップアイドルグループのメンバーだったからだ。もちろん同時に箱入り娘でもあった可能性も否定は出来ないけれど。

 どおりで破壊力ある笑顔。自分がどう見られるか、どう見せれば相手が堕ちるのか、熟知している匠の技だ。
 
「どうかしました?」

「え。なんで?」

「今日はやけにわたしの顔ばかり見てるような気がするから」

「そうかな」
 
 女将が相変わらず綺麗だからだよ——。
 それくらいのことが言えれば対等に渡り合えるのかもしれないが、一介のサラリーマンにそんな芸当は不可能だ。

 この時間、ほかに客はいなかった。
 女将が一人で切り盛りしているこじんまりとした店だ。
 海よりも山に近い、坂の途中の古めかしいビルの奥まった場所。立地条件も良くはない。グルメサイトにも店名と住所以上の情報はない。
 まるであまり来てくれるなと言わんばかりだ。

 それでも、ほかの条件がどうであれ、あの秋庭真冬が女将をしている店だと知れただけで連日満員御礼になるだろう。だが、女将は自分の正体を明かそうとはしない。だから、こちらも気づいたことを言うべきか言わざるべきか、迷ってしまう。

「今日はね、いい(かつお)が入ってるんですけど」

 和紙に達筆で(したた)められた本日のおすすめの冒頭に、鰹のたたきとある。
 普段は自ら好んで食べる方ではないのだが、勧められては食べないわけにはいかない。

「じゃあ、それに合う日本酒と一緒に」

 それを条件にたたきを頼んだ。

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