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(10)坂の上の公園1

 パン屋でチョココロネを買おうと思ったら、あの巻き貝のような渦巻き状ではなく円筒形になっていた。

「これでどちらから食べてもチョコクリームが均等に行き渡りますよお」

 えっへん!とでも言いそうな勢いで、自慢げに胸を張るパン屋の主人。

「何てことをしてくれたんですかっ!」

 チョココロネは黄金比でできている——そんなくだらないことを真顔で言う彼ほどのこだわりはないものの、これではチョココロネの命ともいえる形状が台無しだ。最早コロネとは呼べない、全く別の代物と化している。

 感情がふつふつぐつぐつと煮えたぎって沸点に達した。
 ボクササイズのトレーナーから()められた右フックを店主の左頬にお見舞いしようとして、見事なカウンターア◯パンチを食らったところで目が覚めた。

 パン屋の主人はジャ◯おじさんではなく、ア◯パンマンだったというオチだろうか。
 気がつくと、万歳をしたようなポーズのまま、ベンチシートの上に倒れ込んでいた。
 正面には平和そうなおじいさんが座っている。ジャ◯おじさんではない。

 目が合った。

 満月のように真ん丸だったその目が、二三拍おいてから三日月の形に微笑んだ。
 無表情なまま視線を逸らして身体を起こし、何事もなかったかのように姿勢を正した。

 停車している。

 目的の駅に着いていることに気がついて、慌てて下車した瞬間、背中のすぐうしろで扉が閉まった。

 ホームには同じ電車から降りたのであろう、日本の原風景のような老婦人が二人。仲良さげに談笑しながら、小さな歩幅で歩いている。

 乗って来た電車が走り去るのと入れ違いに、反対側のホームにも電車が滑り込んで来た。と思ったら、停車せずに通過して行ってしまった。

 電車の走行音が聞こえなくなると、あたりは静寂に包まれた。
 耳を澄まして音を探しても、微かな風の音しか見つからない。

 そう思ったタイミングで、改札口を教える誘導用電子チャイムがピンッポーンと軽やかに、でもはっきりと芯を持った音で鳴り響いた。

——あれは盲導鈴(もうどうれい)とも言って、目が不自由な人に改札口はこっちですよって教えているんだよ。

 何のために鳴っているのすらも知らなかったわたしに、そう教えてくれたのは彼だ。

 音が示した方へゆっくりと歩き始めた。
 最近敷き直されたらしい点字ブロックが、ホームの緩やかなカーブに沿って鮮やかな黄色の弧を描いている。

 さりげなく内容を更新して、次の電車を示している頭上の電光表示板。
 地元の診療所や園芸店などの名前が並んでいる、古びた広告看板。

 この普通電車しか停まらない小さな駅も、新しいものと古いものが混在して成り立っている。
 でもそのどれもが、何故か懐かしく感じられる。

 南に二十分も歩けば海岸線に出るはずだけれど、海の気配は全く感じられない。建物に遮られて水平線も見えないし、潮の香りも届いては来ない。
 北はすぐそこまで山が迫っているから、狭い平野部は東西に細長い。
 そんな海と山の狭間に住宅がひしめくように建ち並び、さらにその合間を縫うようにして私鉄とJR、国道が走っていた。

 来てしまった——。

 無人の自動改札を出て、ほんの一瞬だけ(よぎ)った躊躇(ためら)いを振り払う。

 これで本当に最後だし——。

 気持ちに勢いをつけ、小さな踏切りを北へ渡った。 

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