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(10)合宿の夜

 長雨のおかげで、思いがけず彼女との距離を縮める機会に恵まれたにもかかわらず、その後の二人の関係に大きな変化はなかった。
 彼女と二人の思い出として次に思い浮かぶのは、合宿でのことだ。 

 APTでは毎年夏休みに合宿があった。
 一年のときの行き先は、小さな島の海岸に建つ、古いけれど広大な施設だった。ホテルとも旅館とも違う。テニスコートの他にもグランドや体育館、弓道場などもあって、主に学生の部活やサークルなどの合宿向けの宿泊施設だ。今になって思えばあまりにも経営効率が悪そうなので、どこか自治体などが持つ公共施設だったのかもしれない。

 島の合宿の朝は、砂浜での体操から始まった。
 海に向かって立つと、朝の光を反射する波が、まだ半分寝ている目には眩しかった。
 島の多い海域だったので、水平線は断続的で短かい。早朝の柔らかな光に満ちながらも、どこか(もや)がかった空気の中、島が点在する景色は幻想的とも言える見事さを持っていた。

 合宿とはいえ、テニスの練習ばかりをしているわけでもない。
 海辺での合宿ということで、海水浴の時間もあったけれど、泳ぎは今でも得意ではない。カナヅチではないと思っているのだが、少し泳いだだけでへとへとになって、あとは徐々に進まなくなり、やがて足から沈んでいく。

 対して水泳部出身の彼女は、明らかにコート上よりもいい動きを見せていた。最後にはみんなのリクエストに応えて、個人メドレーを披露するほどだ。

「各務くん、いつでも教えてあげるよ。君がどうしてもって頭を下げるならね」

「るせー。テニスサークルなんだから、勝負はテニスコートだろ」

 軽口を叩く水着姿の彼女を直視出来ず、視線を泳がせながら言い返していたあの頃の自分が、かわいくてしょうがない。

 それでも海は嫌いじゃない。
 小学生の頃は毎年夏休みに遊びに行っていた曽祖父の家が、やはり島の海沿いに建っていた。

 夜、布団の中では波の音がよく聞こえた。与えられていた部屋が海に面した部屋だったので尚更だ。別の部屋で酒を呑みながら語り合っている大人たちの声も、邪魔にはならなかった。

 窓を開くとすぐ堤防で、その向こうにはテトラポッドが積み重ねられていた。ちなみに、テトラポッドが一般名詞ではなく商品名だと知ったのは、ずいぶんと大人になってからのことだ。

 波はそこに打ち付けては砕かれ、引いていく。
 その音が好きだった。
 昼間にはほとんど聞こえてこない。なのに明かりを消して布団に横になると、どういうわけだかボリュームを上げたかのように鮮明に響くようになる。
 耳から入り込んだ波の音が、やがて頭の中を満たしていく。
 そして眠りに落ちる。

 合宿所の部屋には、波の音はほとんど届いて来なかった。建物の構造のせいなのか風向きのせいなのか、あるいは単純に距離の問題か。時折微かに聞こえる——そんな程度だった。
 海はすぐそこにあるというのに、何ともったいないことか。

 ある日、真夜中に一人で部屋を抜け出した。
 日中の練習で体は疲れ切っているはずなのに、何故か頭が冴えて眠れなかったのだ。社会人の今なら翌日のことを考えて、何としても寝ようと焦って余計に眠れなくなるパターンだけれど、当時はさすがに若かった。多少の睡眠不足くらいは吸収できるエネルギーがあったのだろう。

 弓道場の脇を通って裏庭を抜けると、アスファルトの細い道を(はさ)んで堤防があって、それを越えたところに小さな砂浜があった。
 遠くの外灯と、空の切り傷のように細い月の灯り。満天の星。それらを反射する波。
 それだけで砂浜は思ったよりも明るかった。

 こんな環境でテニスなんかできるかよ。そう言いたくなるほどに昼間の灼熱は酷だった。夜の海岸は熱帯夜特有の蒸し暑さのせいで快適とまでは言えないものの、それでも随分と過ごしやすかった。

 どう気をつけてもサンダルに砂が入り込んでくるのが不快で、いっそ裸足になった。
 サンダルに入り込む砂は不快なのに、素足に直接触れる砂が気持ちいいのは何故だろう。
 そんなことを思いながら海へと歩いた。

 濡れる恐れのない程度には距離を置きつつ波打ち際に近づいて、乾いた砂の上に体育座りをした。
 地球の端に目をやると、黒い影にしか見えない島々が水平線を分断していた。
 黒い海と夜の空を分けているのは、水平線の下だけをマスキングして絵の具を微細に散らしたかのような星々の輝きだ。

 身体を横たえ、大の字になった。
 砂だらけになることなんて全然気にはならない。
 波音が心に染み入って、まるで心の揺らぎと波が打ち消し合うかのように、穏やかな気持ちにしてくれる。
 目を閉じてしまえば、包み込まれるようだった。
 寄せる波。
 引く波。
 その繰り返しを聞いているだけで、身体が浮いているような錯覚に陥った。
 寄せる。
 そして、引く。
 波は身体の下にまで忍び込んで、身体を揺らす。
 そして、少しずつ海の方へと運ぶ。
 そのまま海まで引きずり込まれるかと思えば、また少し戻される。
 そんなことを繰り返しながら、徐々に徐々に海へと近づく。
 足先から順に浮き上がっていく感覚。
 腰が浮き、肩、そしてとうとう頭まで。
 全身が浮いた。
 いや——。
 そこはもう海面ではなくなっている。
 上下左右、全てが海だ。
 揺れる波をすり抜けて降り注ぐ月や星の淡い光。
 苦しくはない。
 むしろ心地良い。
 やがて身体の表面から海水が浸透してきて、いよいよ自分と海との境界はあやふやになる。
 波をすり抜けて来た光は、身体をもすり抜けて、そのまま海底の闇に溶けていく。

 不意に光が途絶えて、真っ暗になった。
 異変を感じ、目を開いて驚いた。
 星空からの光を遮っていたのは、すぐ目の前にある尋深の顔だったからだ。

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