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36.くったくたになりまして……

 10時にいったい何があるのだろうと、口を閉ざして成り行きを見守る。
 数秒後、誰かが声を張り上げた。

「注文が入ってきました!」

「もう? 10秒で?」

 同時のタイミングで、電話がけたたましく鳴り出した。
 ちひろは慌てて受話器を取り上げる。

「株式会社ベルスロープでございます」

 電話に出るのはそれほど苦手ではない。
 取り次ぎなら、これまでもしてきたことだ。
 しかし電話の向こう側にいるひとは、ちひろの想定とはかけ離れたことを言い出した。

『さっき注文したんだけど、住所間違えたの。変更して』

「は、はい? で、ではお名前とご住所を教えてください」

 新しい住所をメモして、電話を切る。
 その拍子に、またしても呼び出し音が鳴り響いた。

「は、はい! 株式会社……」

『全然ネットがつながらないんだけど!?』

「は、はあ……」

 相手の言い分を聞いてメモをして、電話を切ると再び鳴る。
 それの繰り返しだ。
 この対応で合っているのどうか聞く余裕すらないほど、電話は次々にかかってくる。

「は、はい。株式会社ベルスロープで……」

 怒涛のごとく鳴り響いた電話のベルは、昼頃でいったん収束した。

「今のうちにお昼ご飯食べてきなさい」

「は、はい……」

 ちひろは、フラフラの状態でランチ休憩を取ることになる。
 戻ってきたとき、全員が出ていったときと変わらない姿勢で在席していた。どうやら昼休み返上で仕事をしていたようだ。

(これは一体どういう状態なの? 誰もお昼ごはんを食べないなんて)

 どうしていいのか狼狽えていると、再び電話が鳴り始めた。

「電話、取って!」

「は、はいっ!」

 ランチの余韻も束の間。
 ちひろは再び、鬼のようにかかってくる電話取り次ぎに追われることになる。
 夕方六時になると、スイッチが切り替わったように電話が鳴らなくなった。

 代わりに音声の録音対応メッセージが流れる。

『本日の営業は終了いたしましました……』

 もうちひろはクタクタだ。
 電話でずっとクレームや要求ばかりを聞いているのは、かなりの精神的苦痛と言える。
 肉体労働とは違った疲労が、ちひろの全身を取り巻いていた。

 ちひろの机に缶コーヒーがトンと置かれた。

「お疲れ様。よく頑張ったね」

 橘がにっこりと笑って、ちひろの肩をポンと叩く。
 喉を使いすぎてゴホゴホしていたちひろは、缶コーヒーをありがたくいただいた。

「ありがとうございます」

 冷たくて甘いコーヒー、それと橘のねぎらいの言葉が、ちひろの疲れ切った脳裏を癒してくれる。

「セール初日が研修一日目とはツイてないわね」

「今セール初日だったんですか……どおりで」

 橘も缶コーヒーのプルトップを開けると、ぐいっと一気飲みする。

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