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定期券を使って電車に乗り古明橋まで来た。立ち寄った駅前の不動産事務所の窓ガラスには予算を少しオーバーする家賃の物件が並ぶ。実家から近い物件では一人暮らしの意味がなくなってしまう。けれど古明橋周辺の物件は私の身の丈にあってはいない。生活していけないわけではないけれど、初めて一人の生活で食費や水道光熱費が毎月どれほどになるのか想像ができないから、古明橋で契約するのは考え直した方がいいかもしれない。
実家から離れていて、かつ古明橋からも離れていない予算内の物件を気長に探すしかないかと思ったとき、不動産情報が貼られたガラスに後ろを通った社員の姿が映った。それは別部署だけれど出世頭として有名な横山部長だ。
エリートの横山さんは総務課の雑用係である私のことなんて知らないと思うけれど、社内の人とすれ違って一人気まずく感じる。
会社の近くに住めたなら楽だから古明橋の不動産屋に来たけれど、休日出勤の社員も通る可能性があるこの場所にいるのは落ち着かない。かといって家にも帰れないし、せっかくの休日を無駄にしないで今日にも部屋を決められたらと思っていた。
LINEの通知音がしてスマートフォンをタップした。シバケンからお昼過ぎには仕事が終わるとの連絡だった。思ったよりも早く会えそうで嬉しくなる。
お昼までファミレスで時間を潰し、パフェと何杯目かのドリンクバーでお腹がいっぱいになって外を見ていたとき、シバケンから電話がかかってきた。
「今から家に帰るから、1時間後くらいにそっちに行くよ」
「実は今古明橋駅の近くにいるんです」
「え、そうなの?」
「ちょっと色々あって……」
家のこと、坂崎さんのことを言おうとして躊躇った。シバケンにこんなことを言っても迷惑じゃないだろうかと。父に紹介され坂崎さんと会ったことはシバケンには言っていないのだ。
「色々ね……それは俺には言えないこと?」
「いいえ、そうじゃないんですけど……」
コンコン
横の窓ガラスが叩かれる音がして見ると、耳にスマートフォンを当てたスーツ姿のシバケンがガラスの向こうに立っていた。
「えっ、シバケン?」
「実弥みーっけ」
いたずらっぽく目を細めて笑うシバケンの口の動きと同時にスマートフォンから声が聞こえる。
「そっち行くよ」
そう言うとシバケンは耳からスマートフォンを離してファミレスの入り口から店内に入ってきた。
「たまたま窓から実弥が見えたから」
もう見慣れた優しい笑顔を向け、テーブルを挟んで私の向かいに座った。
こうして同じテーブルに座ることが当たり前の関係になったというのに、未だに慣れなくてドキドキする。
「はぁ……疲れたー」
仕事終わりのシバケンはネクタイを緩め、髪が少し乱れていた。
「お疲れ様です」
「昨日から通報がありすぎ。事故も起こるし夫婦喧嘩も止めるしで、マジで疲れたわー」
シバケンは眉間に微かにしわが寄っている。それほど疲れているのだろうけど、今は充実感に満たされた『警察官のシバケン』を見たかったのになと思ってしまう。
私の気持ちを知らない彼は店員にハンバーグセットを注文すると私の顔をじっと見た。
「実弥も疲れてるね。非番の俺よりも疲れた顔してるよ」
慌ててカバンの中から鏡を出してみると、言われたとおり目の下がくすんでいる。坂崎さんに会うだけだからと簡単なメイクしかしていないことを後悔した。シバケンに会うのだから、待っている間にもっと気合を入れておけばよかったのだ。
「何かあった?」
テーブルに頬杖をついても変わらず穏やかな顔のシバケンについ甘えてしまいたくなる。
「あの……家に帰れなくて……」
「お父さんとケンカした?」
家に帰りたくない理由をどう伝えるか迷う私に、シバケンは運ばれてきたハンバーグセットを食べながら話し始めるのをゆっくり待っていてくれる。
父との仲があまり良くないということは既に伝えていた。シバケンに憧れて警察官になりたかったことも告白したし、父のコネで就職したことも話した。
「父に男性を紹介されました」
そう言うとぴくりと箸を持つシバケンの手が止まった。
「父の会社に勤める方で、その人と付き合えと言われました」
できる限り淡々と、感情を殺して吐き出した。
大事なことなんだ、隠しておけない。親に紹介された男性と会うなんてシバケンに申し訳ない。
シバケンは黙って話しを聞いているけれど、動きが完全に止まっていた。
「一度食事に行きました。あ、いえ、二人きりじゃないですよ。父と母も交えて四人でです」
シバケンの不安な顔に慌てて説明した。
「でもその食事は全然楽しくなかったです……苦痛なだけで」
「………」
「好きじゃない人とご飯を食べたって美味しくない。目の前の男性はシバケンじゃないから」
「………」
「そう言っても……それでも父はその人と私をくっつけたいって……」
「………」
話しているうちに鼻の奥がつんと痛む。気を抜くと泣いてしまいそうだ。
「今朝その人がうちに来て、家にいるのが辛くなっちゃって……すみません、こんな話聞きたくないですよね」
言ってはいけないことだとわかっている。彼氏にする話ではない。ただ不安にさせるだけなのに。
シバケンはうつむく私には声をかけず、再びハンバーグを口に入れた。添えられたポテトもきれいに食べきると、お皿をテーブルの端に寄せた。
「今から実弥んちにご挨拶に行くよ」
「え?」
思わず顔を上げた。
「お父さんにちゃんとご挨拶するよ。実弥とお付き合いしてますって」
私を見つめる顔は真剣だ。その意志が固いものであるとはっきり感じた。
「でも……」
父に紹介するのは躊躇われる。私に「そんな男とは別れろ」と言ったのだ。シバケンの仕事と地位をバカにして、人の表面しか評価しない父にはシバケンの良さは理解できない。シバケンを傷つける結果になるだけだ。それは絶対に避けたい。
「あ、その前に風呂に入っていい?」
「はい?」
真剣な顔から一転して思い出したように確認するシバケンに拍子抜けする。
「もう40時間近く風呂入ってないの」
そう言って恥ずかしそうに首の後ろに手を回す。シバケンの勤務は朝出勤すると翌日まで家に帰れない。退勤時間によっては丸2日間お風呂に入れないこともあるのだという。
「一旦帰って風呂入って、違うスーツに着替えなきゃ」
「いいんです、そこまでしなくても」
思わず両手を振って拒否してしまった。わざわざスーツまで着替えるなんて気を遣わなくていいのだ。私としては父に会ってほしくないのだから。
「実弥は先に家に帰ってて。帰りたくないかもしれないけど、俺がすぐに行くから」
はっきりと言い切ったその表情は凛々しくて頼り甲斐がある。けれど家に帰ってもまだ坂崎さんがいるかもしれない。シバケンと坂崎さんが父の前で対面したら、どんな事態になるかなんて想像したくもない。
「帰れません……」
小さく呟いた。坂崎さんが悪い訳じゃない。でも会いたくないのだ。
シバケンは少し考えてから「じゃあ今からうちに来る?」と遠慮がちに提案してきた。その言葉に目を真ん丸に見開いた私に彼は「風呂入ったら一緒に行こう」と言うのだ。