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「実弥ちゃん、俺の彼女になって」

「はい」

もちろん答えはイエスだ。長い間ずっと夢見てきたことなのだから。

「もう一度キスをやり直していい?」

微笑んだまま聞く彼に私は「はい」と伝えて目を閉じた。肩が抱かれ、シバケンと体が密着する。私の唇に触れた彼の唇は、先ほどの貪るようなキスと違って啄ばむような優しいキスだった。

「また泣いてるの?」

「だって嬉しくて……」

潤みはじめた目を隠すように下を向いた。そんな私をシバケンは強く抱きしめた。

「飲み会のあと実弥ちゃんを泣かせちゃって本当に焦った」

耳元で聞こえる声からは後悔が滲み出ている。

「気になってる子にやる行動じゃなかったね」

「本当にびっくりしましたよ」

「ごめん。思わず……」

「いつから私のことを気になってたんですか?」

「君が裸足で歩いてるのを見たときから。不安で堪らないって顔で、声をかけずにはいられなかった。まあそのときは仕事として気になってたんだけど」

そう、あの時にシバケンと会った衝撃をはっきり覚えている。

「わざわざお礼に来てくれる人も珍しかったし、真面目な子だな、いいなって。あのときから気になってた。仕事中なのにね。俺は不真面目な警察官でしょ」

鼻で笑うシバケンの腕の中で小さく首を振った。

「飲んだ帰りに勢いで抱きしめたのは、望んでたから。実弥ちゃんと近づきたかった」

抱きしめる腕が強くなった。

「怒って泣いた君の顔がずっと頭から離れなかった。本当に後悔してる」

「もういいんですよ」

今ではそれもシバケンと築いていく思い出の一つになるのだから。

「やっぱりシバケンはかっこいい」

「そう?」

「ずっとずっと変わらない……仕事してるシバケンも、プライベートのシバケンも」

愛情込めて抱きしめられたら、離れたくなくなってしまう。

「こんなお巡りさんかっこよすぎ」

フッと耳元でシバケンが笑った。照れているのは顔を見なくてもわかる。

「これからはプライベートも守るよ」

「はい……」

「もう強引なことしないから」

その言葉がおかしくて嬉しくて、シバケンの肩に顔をうずめた。





映画館から出ると既に夕方で、飲食店は賑わってきているようだ。食事をしてから帰ろうと駅に向かう歩道を歩いていたとき、シバケンのスマートフォンが鳴った。

「ちょっとごめんね」

シバケンは私に一言声をかけ電話に応答した。

「もしもし……え、はい……マジっすかー……はい……」

どんどん声が低くなり落ち込んでいくシバケンにこっちまで不安になった。

「わかりました、行きます。でも車じゃないんでちょっと時間かかるかも……はい……失礼します……」

電話を切るとシバケンは溜め息をついた。

「ごめん、今から仕事になっちゃった」

「え!?」

突然の事態に思わず大きな声が出た。

「でも今日お休みなんじゃ……?」

「緊急の仕事なんだ」

申し訳なさそうにするシバケンを責めるように言葉を発した自分に呆れる。

「この間古明橋に出た通り魔なんだけど」

通り魔と聞いて思わず手を握り締めた。もしかしたら自分が襲われていたかもしれない恐怖が一瞬で蘇った。

「まさか、また誰かが?」

「いや、その犯人に特徴が似た人が目撃されたんだって。これから俺は中央区内をパトロールしなきゃならない」

「そう……なんですね……」

シバケンは警察官。休みの日だろうと非常事態には出勤しなければいけない仕事なのだ。

「ごめんね。せっかく会えたのに」

寂しいけれど仕事なら仕方がない。でも今の私はきっと暗い顔をしている。今夜はもうシバケンと別れなければいけない。

「家まで送れなくて本当にごめんね」

「いいえ、大丈夫です。お仕事頑張ってください」

精一杯の笑顔を作った。行かないでなんて言えない。彼を引き止めてはいけない。
シバケンは私に近づき腰を引き寄せたかと思うと突然キスをした。「もう強引なことしないから」なんて言ったくせに、またしても公衆の面前でキスをされた。焦った私はシバケンの肩をとんとんと軽く叩いた。

「んっ」

唇を離したシバケンの顔を優しく押す。

「さよならするのが寂しいのは私も同じですが、ここでは困ります」

今いる場所は駅前なのだ。シバケンには人前でキスをするのを控えてもらわなければ。怒りつつも優しく笑うとシバケンは反省した顔を見せる。

「なら続きは今度ね」

名残惜しそうに腕を離して私を解放する。そうして耳元で「その時は朝まで帰さない」と囁いた。私は顔を真っ赤にして驚いたけれど、当のシバケンは笑ったまま「またね」と言って駅まで早足で行ってしまった。

シバケンが素面でもこんなに大胆な人だったなんて予想外。もしこの次に会った時には本当に朝まで帰してくれなそうだ。強引な男性は苦手なはずだったのに、シバケンの予測不可能な行動に恐怖なんて抱く暇もない。
本当は今夜も駅までは一緒に行きたかった。できるだけ長い時間そばに居たかった。けれどそんなワガママを言ってはいけない。シバケンは大事な仕事に行かなければいけない。
早く犯人が捕まりますように。あの時のように怖い思いをする人がこれ以上出ませんように。シバケンが怪我をしませんように。
そう願うことしか私にはできないのだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



家に帰りヒールを脱ぎかけたところで母が階段から下りてきた。普段滅多に着ないパステルカラーのスーツを着て、髪をねじって後ろで束ねている。

「どうしたの?」

「これから食事に行くのよ。実弥も支度しなさい」

「え?」

「まあ実弥はその格好でも問題ないわね。でも化粧は少し直した方がいいかも」

母は私の髪型からヒールまで全身を見ると満足そうに笑った。

「なんで私も行くの?」

「だって実弥が主役なんだから」

「は?」

ますますワケがわからない。

「お父さんの会社の人と食事するの」

「それなら私が行く必要ないじゃない」

思わず母にきつい言い方をしてしまったとき「いいから支度しなさい」とリビングから出てきた父が母との会話に割って入った。

「お前がいないと意味がないんだ。彼はお前に会いたがっているんだから」

彼と聞いて食事の意味を理解した。父が紹介したい男がいると言っていた。きっとその男性とこれから会わなければいけないのだ。

「伝えた時間ギリギリなんだ。早くしなさい」

命令する父に怒りが湧き「行かないから」と止められる前に再び玄関の外に出た。家にいては無理矢理連れていかれそうだったから。男性と食事なんて絶対に嫌だ。やっとシバケンと想いが通じたのに、彼以外の男なんてどうだっていい。

静かな住宅街の私以外誰も歩いていない道路で、後ろから来た車が私の横で停車した。その車を横目で見てそのまま無視して歩き続けた。運転席に座る父が眉間にしわを寄せたまま車を徐行させて私についてくる。無言の圧力に苛立ちが募った。

「実弥」

後部座席の窓から母が顔を出した。

「行ってただ食事をするだけでいいから。実弥が気に入らなければそれっきり会わなくてもいいのよ」

母はそう言うけれど、父はこうと決めたら絶対に譲らない。私に紹介したい男というのが、つまりは父の決めた私の交際相手になるということだ。

「絶対に嫌! 大体私に前もって言わないのは何で? 拒否するのがわかってるからでしょ?」

子供のように抵抗する私に「実弥」と運転席の窓が開いて父が名を呼んだ。

「今日だけは父さんの顔を立てると思って付き合ってくれないか。向こうだってお前が気に入らなければ断ってくるんだから」

その言葉に私は足を止めた。
それもそうだ。相手に嫌われてしまえば父だって諦めるに違いない。その人に私は最低な女だと思わせればいいのだ。

「わかった。行く」

低い声でそう言うと車が止まり私は後部座席に乗った。



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