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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「はい、総務課黒井です」

1時間に1回はかかってくる内線にうんざりしながら私は受話器を取った。

「秘書室の宮野です」

抑揚のない冷たい声に背筋がピンと伸びた。副社長付きの秘書である宮野さんは実質秘書室を仕切っている秘書課のリーダーだ。

「役員の方々が飲む緑茶の茶葉がなくなりますので購入をお願いいたします」

「んぇ?」

声が上ずった。

「私がですか?」

「他に誰がいるんです?」

宮野さんは断ることなんて許さないとでも言うように声に覇気を感じる。

「秘書室のお茶はもう買わなくてもいいと言われているんですが」

「いつも総務課にお願いしているはずですが?」

「でも引継ぎのときにもう大丈夫だと……」

「北川さんがどう言ったかは知りませんが、私はあなたにお願いしているんです」

宮野さんの冷たい声は機械を通すとより一層冷たく感じる。まるで耳に突き刺さるようだ。

「役員のお茶はいつも龍峯茶園のお茶しか買わないと北川さんから聞いているかと思いますが、弊社に特別に割引してもらっているのはご存知ですか?」

「………」

「昔からのお取引がある企業で直接行って買う方がお得なのでそうしているんです。ご存知のように秘書課は忙しいので総務課にお願いしているんですよ。だから行ってくださらないと困ります。できれば今日中に。いいですね」

返事をする前に内線は切れた。
受話器を戻すと溜め息をついた。役員用のお茶を特別価格にしてもらっているのは知っているし、秘書室の面々が忙しくて備品の買い物にも行けないことは周知の事実だ。けれどあの言い方はないだろう、と気持ちが沈む。宮野さんの声だけでも怯んでしまう。
引き継ぎのときに北川さんからは使いっ走りの仕事は断っていいと言われていたし、部長からもそのように言われている。総務課に異動してから様々な部署と話をする機会が増えて、人の顔と名前と部署を覚えるだけでも大変だ。特に秘書室とはできるだけ関わりを持ちたくないと思っていたのに、断る前に通話を終えられては私が行かなければ更に怒られそうだ。部長に話をすると仕方ないので今回は買いに行ってくれと頼まれてしまった。

スマートフォンと財布を持ってカーディガンを羽織り会社を出た。
やっぱり『雑用係』は私が継続のようだ。みんな私を便利屋か何かのように仕事を押し付けるのだ。総務課の仕事は他にもやることがたくさんあるのに。けれど今の私は細かい事は気にしないようになった。楽しみが増えたので仕事のストレスを発散することができるようになった。
手に振動を感じてスマートフォンを見た。画面左上にLINEの通知を知らせる緑のライトが光っている。LINEアプリを開くとシバケンからのメッセージがきている。それを見て飛び跳ねたくなるほど高揚する。
彼は今日仕事が休みのようだ。ということは、こうして会社の外にいても今日はシバケンに会うことはないのだと少し残念な気持ちになる。でも今後の休みの日をLINEで教えてくれた。記載された日付の中で私の休みと重なる日に二人で会うことになっている。

ここ最近の私はシバケンからの連絡があるだけで一喜一憂している。完全に彼に心奪われてしまっていた。こうして行きたくもない買い物にだって心底うんざりするわけではない。シバケンのお陰で私の毎日は変わり始めていた。私がお茶を買いに行けば役員がいい仕事ができるならそれはそれで良いかとすら思うのだ。



古明橋に店を構える老舗のお茶屋は会社から少し歩く。まだ慣れない道に戸惑いながらも買い物を終え、ついでにお弁当を買って食堂で早めのお昼休憩を取ることにした。早めの休憩のはずだけれど、食堂には既に多くの社員が集まっていた。
私は大型テレビの前のテーブルに座りお弁当の蓋を開けた。テレビには昼前の情報番組が放送され、おススメの紅葉スポットが紹介されていた。
突然私が座ったテーブルの横を男性社員が慌てて通り、二つ奥のテーブルに座る男性社員のところへ駆けた。

「今やベーの見た!」

「どうしたんだよ急に……」

駆け込んできた男性社員の様子に私を含め周囲の社員は驚いて食事をする手が止まった。

「すぐそこの交差点で通り魔が出た!」

「は?」

「俺の前を歩いてた女の子が後ろから走ってきたやつに髪の毛切られたんだよ! そんで走って前にいたオッサンの腕を切ったんだって!」

声を荒らげた社員のその話の内容に食堂が静まり返った。

「何それ、作り話?」

テーブルに座っている社員だけがのん気に話を聞いている。

「こんな話作るかよ! 警察だって来て大騒ぎだったんだって! テレビでもやってるかもしれない!」

そう言って慌てた男性社員は私の横のテレビをべたべたと触りチャンネルを替え始めた。ワイドショーが次々に切り替わり、スタジオ映像から突然画面が1人のキャスターを映し速報を伝え始めた。

「ほらこれだって!」

男性社員の言うとおり、画面には見慣れた交差点が映し出されていた。

『事件が起きた現場は古明橋駅付近の交差点で、女性が後ろから来た男に突然髪を切られ、更に近くを歩いていた男性が腕を切られましたが軽傷です。古明橋警察署によりますと男は刃物を持ったまま現在も逃走中で、警察は行方を追っています』

女性キャスターが神妙な顔で事件を伝えた。画面には数名の警察官と、歩道を塞ぐように貼られた黄色いテープが映され事件の重大さを物語っているようだ。
私は額に汗が浮かんだ。画面に映る事件現場は数十分前にお茶を買いに行くために通った歩道だった。コンビニエンスストアと定食屋の前の歩道だ。もう少し帰社するのが遅かったら、髪を切られていたのは私だったかもしれない。今頃怪我の治療のために病院にいたかもしれない。そう思うと箸を持つ手が小刻みに震えた。
本当に、もう少し遅かったら……。
テレビ画面はニュース映像から新しくオープンするスイーツカフェの特集を放送する賑やかな映像に切り替わっていた。その賑やかさが相反して私の心を暗く落ち込ませた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



シバケンと会うのは土曜日の午後になった。
鏡を見て入念にメイクのチェックをして、着ていく服にも気を遣った。
私は勝手にデートだと思っていた。シバケンからどこかに行こうと言ってくれたのだから、彼にだって少なからず私に気があるんだって解釈していた。
これはチャンスなんだ。7年間の片想いを実らせる絶好のチャンス。

初デートは映画を観に行くことにした。提案したのは私だ。観たい映画があるわけではなかったけれど、もし緊張して話題がなくても映画の内容で話が盛り上がるのではと期待したからだ。シバケンはそれなら観たいSF映画があるのだそうだ。

待ち合わせはシバケンの家の近くの繁華街にした。古明橋にも映画館はあって大きくて新しいけれど、お互いの職場の近くで会うことは嫌だった。いつも行く場所よりも違う環境で会いたい。私だけではなくシバケンもそう望んだ。

待ち合わせ場所に早めに着いてもシバケンは既にそこに立っていた。制服でもスーツでもない私服のシバケンを見るのは初めてで、これでは本当にデートではないかと早くも緊張してしまった。

「肩はもう大丈夫ですか?」

先週蹴られた肩の具合が心配だった。

「もうすっかりよくなったよ。ほら」

そう言うとシバケンは左肩を回した。

「よかったー……」

「俺は結構頑丈だからね」

日頃の公務で鍛えているシバケンは、私服でもがっしりした体つきなのがわかる。安心して笑顔になる私にシバケンも笑顔を見せた。

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